真実と有用性 -21-



屋敷から戻り、ケンブリッジの近くのアパートメントへ引き篭もったまま。

まるで蜜月のように寄り添って過ごした英国での生活も1週間になる。
昼間は車を駆ってドライブへ行ったり、街まで出かけて散策をしたりして楽しみ、夜は夜で蕩けるような甘い時間をすごすのだ。


なんて濃密で贅沢な時間だろうか。

こんなふうにしていたら作家として大阪で暮らしていたのが現実なのかすら分からなくなる。

それなのにそれが当たり前にも思える、たまらなく素晴らしい時間。




少し遅めのブランチは近くのベーカリーで焼き立てのブレッドに自家製ママレード、それにふわふわのオムレツ。食後には薫り豊かなアッサム。
天気がいいから、と窓を開けてぼんやりと空を見上げて飲む紅茶はまた格別で。


そんな甘い生活にどっぷりと浸かりきった朝、火村が突然「英国を発つ」と言いだした。

まったりとしていたアリスは思わぬ火村の一言に口にしていたひと口を思わず飲み込んでしまった。
それは吃驚するほど熱くて喉が痛いし、舌も痺れる。

けれど。


火村の言葉が気になって慌てて口を開いた。

「え・・・?発つって日本へ帰るん?」



自分でもおかしと思うくらいにはこの生活を気に入っていたようで、とても寂しくて焦ってしまった。


まるでハネムーンみたいな旅行。

朝からずっといっしょにいて。

手を繋いで歩いてはじゃれあって、誰にも邪魔されずに寄り添っていて。 そんな素晴らしい日がいつか終わりを告げるのはわかっていた筈なのに、それが怖くて。
毎日毎日、カウントダウンされているみたいに過ごしていた。
夜、眠る前とか、シャワーを浴びているときとか、独りで物思いに耽ったりした。

ああ、いつまで、こうしていられるのかな。

日本に帰ったら、また京都と大阪なんだよな。

とか。

女々しいことこの上ないけど。


でも。

そんな風に思ってしまうくらい、素敵な毎日だったから。
火村の言葉に、終わりって突然やってくるんだ、と驚いた。



「いや、日本へ帰るのはもう少し先。ちょっと寄り道をしようかと思たんだが、大丈夫か?アリス」
「え?寄り道って、別に大丈夫やけど・・・、え?なにが?」


寄り道、ってどれくらいの寄り道なんだろう。寄り道するってことはまだ帰らないって事だろうか。
ならまだこうしていられるのかもしれない、と思ってひとまず安堵した。
本当にほっとしたんだ。なんか情けないな、オレ。

滲むのは弱気な自分で、それはうまく隠せたと思う。

・・・たぶん。

それにしても、大丈夫か?とは一体なんだろう。

とりあえず未だ仕事の予定は無いから帰国が伸びる分には構わないのは火村だって知っている筈だ。

それ以外で何か確認したい事でもあるのだろうかと首を傾げた私に、新聞を折り曲げながら苦笑する火村が目の前に冷えたグラスを差し出した。


「・・・なに?」
「舌、熱かったんだろう?冷やせ」

ほら、といって差し出されたグラスは汗をかいたように濡れていた。
その水に浮かんだ氷をひとかけら口へ含む。

「大丈夫か?」
「ん」

慌てて熱い紅茶を飲みこんでいたのを見ていたのか。

見られていたのかと思うと恥ずかしくもある。火村の言葉を深読みして、動揺した挙句に火傷するなんて。
それにしても、良く見ている。
確か火村の視線は手元の紙に落ちていたはずなのに。

「俺としても、この生活から抜け出したくはないんだぜ?アリス・・・」
「っ・・・・!」

見透かしたような言葉。

含み笑いをと共に火村は頬に手を掛けて覗きこんできた。


よせ、その目は。
・・・ドキドキしてしまうやないか。


「ま、惜しむ気持ちはひとまず置いておいて、だ。お前に見せたいもんがあるんだ」
「何や、見せたい物って・・・」

耳が、熱い。

わかってる、きっと赤くなっているんだろうってことくらい。
それを見つけてなのか、火村はにやりと口の端だけで笑っていた。

その瞳がいけないんだ、絶対に。

凶悪な癖に、やけに優しい色を湛えているんだから。
勝手に早くなる鼓動に耳だって赤くなるさ。

「そりゃ、着いてからのお楽しみってやつだな」

・・・もう、なんでもいいよ。

キミが居るなら。






オレの負けって事くらいわかってる。
だから、行き先は着くまでのお楽しみ、なんて気障なことをのたまった火村に黙って付いてきたんだ。

けれど。・・・・けれど。


暑い。

暑いって、火村!


「ここ、どこや?」

英国から飛行機を乗りついで降り立った空港は、白や黒のターバンだかショールだかを巻いた人々で溢れかえっている。それまで周囲に溢れていた筈の、ぱりっとした英国紳士もファッショナブルな英国淑女も見当たらない。明らかに違う肌の色と、纏う空気の熱さがここが赤道に近い国なのだといっていた。


「まぁ、イギリスよりは暑いかもな。チュニス、チュニジアの首都。ほら、見える海は地中海だ」
「はぁ・・・」

頷くより他に無い。

日本を出たときに2つあったスーツケースは火村の手によって1つに纏められていた。
英国を出るときに荷物は最小限でいい、足りないものは現地で調達するから、と言われて 一切の荷造りを放棄していたから何が入っているのかは知らない。

知らないけれど、2人分にしては小さい荷物を見て、それだけで足りるのかと聞いた私に 気候がこことはちょっと違うからこれでいい、と言った火村の言葉の意味が分かった。


ちょっと違う?
だいぶ、違うの間違えだ。

日本特有の纏わりつくような暑さではない、乾湿が根底から違うのだろう、纏わりつきはしないがどこまでも、暑い。
溶けてしまうかも・・・。
それでも、火村が指をさす先に見える蒼く碧い海になんだか涼しささえ感じるから不思議だ。

「で?見せたいものって、ここなん?」
「いや、ここじゃない。とりあえず、今夜はこのあたりに泊ろう。少し身体を慣らさないとな・・・」

そういって歩き出す火村におとなしくついていく。


暑くて考えるのも面倒くさい。
それに、火村の考えていることならきっと素敵な事のはずだから。

そう思っていたのは・・・ないしょだ。



Author by emi