油断無く構えたままで黒衣の男は体勢を整えているが、いくら腕が立つとはいえ剣術心得の無いアリスから見てもこれ以上新たな敵が増えるのは分が悪いに決まっている。
いよいよ覚悟を決めた方がいいかと脇から前方を見やると、数人の男たちがこちらに向かってくるのが見えた。その中に見知った人影を見つけアリスは思わず声を上げて叫んでいた。
「…っ、鮫山!人攫いに追われてるんや!!」
「姫様!」
そう言っている間にも黒衣の男目掛けて容赦なく剣は振り下ろされる。その剣先を駆けつけた森下が受け止め、次々に近衛兵たちが参戦していく。
突如として現れた味方に分が悪いと思ったのか、蜘蛛を散らすように人攫い達は逃げていった。まさに一目散だ。敵ながら潔い引き際をアリスが呆気にとられて見ていると、なおも周囲を警戒しつつ鮫山が黒衣の男へと近づいてきた。
「…そこの者、世話をかけたな。さあ、アリス様」
「え?」
剣を収めたとはいえ警戒を解かない鮫山は眼光鋭く視線を定めたままで、さあ、とアリスへ手を差し伸べるが、黒衣の男はアリスの腰から手を離そうとしない。焦ったアリスは身を捩って抜け出そうともがくが、驚くくらいの力でがっしりと抱えられているのか、びくともしないのだ。
「ちょっ…、なんや?離して…?」
「離してもいいが、お前、靴が無くなっているぞ?」
アリスを抱えたまま大立ち回りをした挙句疾走してきたというのに、たいして息も切らさずに居た黒衣の男はアリスにそう囁いた。
見れば抱えられている間に落ちてしまったらしく素足になっていて、おまけに拾って掛けてくれたはずのショールすら無い。
…もっとも、手には書をしっかりと握り締めていたが。
「ほんまや…。これじゃ歩けないな…」
なんとも情けない事だが、素足のままでは砂利道を歩けるとは思えない。どうしよう、と視線で助けを求めるアリスを見て深追いを止め戻ってきた森下が少々声を荒げて言った。
「アリス様、我々が担いで参りましょう。素性の知れぬ者の肩はこれ以上借りれません」
言われて気がついたが、黒衣の下にはこの辺りでは見ない装束で身を包んでおり、抜き去った刀身は見慣れぬ形であった。もしかしたら流浪の者かもしれない。
アリスは男の首に縋り付いていた腕を解くと改めて人相を見た。
はじめは黒衣に覆われていてよく見えなかった顔が、今は顕わになっている。
黒い硬質な短髪、漆黒の瞳、よく通った鼻梁に目許は涼やかで、意思の強そうな眉が印象的だ。
が、口元には性質の悪そうな微笑を浮かべているのだが、それすら黒衣に良く合っていて只者では無い雰囲気を醸し出している。
人攫いに見えなくも…無い。
「それでも俺は構わないが、この娘、顔を隠すものも無くしているぞ?」
「あっ…そうや、ショール。落としてもうたんや…」
大立ち回りを繰り広げはしたものの、大通りからそれた路地裏ということもありあまり人目も少ない。滅多に民衆に素顔を晒すことは無いとはいえアリスの顔立ちは目を惹くものだから往来に出ればあっという間に人だかりが出来てしまうだろう。ましてや供に居る衛兵が姫付ともなれば身分がばれるのも時間の問題。
そうなればいろいろとやっかいなのだ。
担いで行くと威勢よくしていた森下も意気消沈し、低く唸ると黙ってしまった。後追いで衛兵も半数、これでは姫様を守りきれる自信が無いのだ。
さて、どうしたものか、と一同が顔を見合わせた…その時。
飄々と黒衣の男が滑らかな言い回しで口を開いた。
「このまま俺が担いでこの黒衣で隠してやろうか…姫様?」
「しかしっ…」
尚も黒衣の男の素性が気になるのか食い下がる森下を制し、それまでじっと黙ったままの鮫山が静かに告げた。
「その装い、もしや東国の者か?何用で我国へ?」
「…東国の王より文を預かりここまで来た。城へは今日伺う意向を伝えてあるはずだ」
それは口の端を上げなおも息巻く部下たちを黙らせるだけの理由であったようだ。東国の王よりの使者ともなれば邪険にも出来ない上、身分の保証がされているからだ。鮫山が小さく目配せをしてアリスに意向を確認してくるので仕方なく頷いて見せた。
見つかってしまった以上、城へは戻らねばなるまい。
さり気無く手にした書を黒衣に隠すとアリスは改めて自分を抱える男へと視線を戻すと、ひとつ大きく息を吐くとしゃんと背筋を伸ばし体勢を整えた。
身分がばれてしまった以上、姫としての物言いでなければまずいだろうと思ったのだ。東国の王からの書簡ということは今回の縁談の言伝であることは容易に想像できる。存外な態度を取っては国間の問題にもなりかねない。
「では、すまぬが城まで頼めるか?」
「…承知仕った」
言うなり疲れも見せず男はアリスを横抱きに抱えなおし、反動で大きく黒衣を翻すとすっぽりとアリスごと覆ってしまった。
胸に抱かれる形となり少々気恥ずかしく思うが、黒衣に覆われているので、幾分気がまぎれるのが救いになっている。
気障な男はすらりとしたシルエットの割りに逞しい体つきをしているらしい。がっしりとした胸板に顔が埋まり、鼻先を擽るむせ返るような男の匂いに思わず赤面してしまった。
思えばここまで人と接近したのは初めてかもしれない。
そう自覚してしまうと途端に緊張がアリスを襲うけれど、寄せた耳元に聴こえる心音がなんとも心地よくて。
相反する感覚に溺れそうにすらなる。
知らない薫りやからや。
遠い異国からの使者、アリスの知らない所。
だけれど、確かな温もりに少しだけ安堵する。
そんな事を考えながら揺れに身を任せる。
そしてこの後に待ち受けているであろう母上の小言を思うと、たちまち憂鬱になるアリスであった。
Author by emi