王の花嫁 -13-



結局、無理を言って運ばせた食事にもほとんど手をつけなかった。

膳を下げさせた後で早々に湯浴みをし、シルクのガウンだけを羽織ってそのままベッドへと倒れこむ。サイドボードにはアリスお気に入りのオリーブオイルが置かれていて綺麗な碧を湛えている。滑りが良いのにべとつかず芳醇な香りのするオイルで髪に塗ったり肌に塗ったりするのだが、香りも良くアリスは好んで就寝の際に枕元へ置く様にしている。



並並と注がれた深い緑の液体を眺めながら思いを馳せると、揺らめく液面の光りの反射がまるで立ち昇る紫煙の様で不思議と安心する。



いつも一人でいた。

一人で居て、遠く意識の底の底へ想いを馳せて飛び回っていたのだ。


それはアリスの特技でもある。


思いに浸り、思いを馳せてモノガタリの中へと身を投じる。


そこは不可侵の繭なのだ。



ゆらゆらと揺らめく液体を眺めているうちに疲れて少し眠っていたらしく、ふと目が覚めたときには目蓋が腫れ頭もぼうっとしていた。動くのも億劫なほど身体が重く、夜着に替えるのも面倒でガウンのまま火を消す。

途端あたりを包みこむ、静寂の闇。



「…ひむら」


燭台の灯りを消した暗い室内で何とは無しに口にしてみる。
たった3文字の唯の言葉が、まるで魔法みたいにアリスの胸を震わせるのが…おかしくて哀しくて虚しくなる。

ただの名前だ。

それなのに、口にしただけでこんな気持ちになるなんて。

火村の指が触れた唇をそっと撫ぜる。

「…火村、キミが…好きや」





だから、何だというのだ。

いっそ気がつかないままで居られたらどんなによかったか。

こんな気持ちを抱えて他の誰かの隣で君を見て生きてなど…いけるはずもない。

東国に嫁げばそこには火村が居る。

普段は城で雑務をこなしていると言っていたが、彼とていずれは妻を娶るのであろう。


そう。私は他の男の腕の中で、君の隣には見知らぬ女性が添うのを見て…生きるのだ。

私を優しく呼ぶあの声で、私ではない誰かを呼ぶ君を。


その耐え難い、それでも避け様の無い現実に、いっそ自らの手でこの命を絶ってしまおうかとも考えた。

だが、そうしてしまってはここまで愛しみ育ててくれた両親を裏切ることになる。それにこちらから縁談を打診した挙句、姫が自害したとなれば要らぬ憶測を招き、結果、国にとって良くない事態を引き起こすかもしれない。


そんな自分本位の軽率な行動は出来る筈も無かった。

只管に泣いて、涙と共に想いが流れていってしまうようにと。

ただ、諦めることしか出来ない。




開けたままの窓からは夜の風が舞い込んでくる。

この風に乗って私の想いなど、吹き消されてしまえばいいのに。


そう願って止まない。



「火村…」

ありす。
もう一度だけ、優しく私を呼んで、と。


脆く弱い私の心がどうしても言う事を聞かない。




涙で滲んだ瞳で揺れる窓辺を見つめると、聴こえない火村の声の代わりに風が木の葉を舞い上げカサリと音を立て、ふわりと舞い上がる窓に掛けられた薄手の布に夜の影が落ちている。



外は半月が照らして室内よりは耀い。


夜空には月がある。

月は明るく輝いて暗く濁った夜の道を照らす。


照らされてそこにあるモノに陰が生まれる。




…自分の心は月に切り取られた陰なのだろう。


月が無ければ生まれもしない、それなのに陰を作るモノからは…決して離れられないのだ。



何時かの夜、君が手にした煙草の灯が写していた横顔を想い、風に乗って微かに甘い香りがした気がして思わず名前を呼んでいた。



「ひむら」


次の瞬間、たなびく布地に切り取られたような影が映る。


そして影が私を呼んだのだ。
心地よく響くバリトンで、優しく深い甘い声で。


「アリス」


心が、震える。











踵を返して逃げ出したアリスに見蕩れてしまい、動けずにいた火村は
扉の閉まる重い音にはっと我に返って慌てて飛び出したものの、アリスには追いつくことができなかった。


そして結局会えないままで夜を迎えていた。


あくまでも城ではアリスは姫だ。


アリスの自室がある奥の塔へは立ち入ることさえ出来ない。一介の使者としてこの城に留まっている火村には仮にも姫のアリスを呼び出すこともかなわない。

自国へ先に出した文に明朝早くにここを発つという旨を綴っていたので今更予定の変更も出来ない。そもそもが3日という期限付きの旅だったのに、思いの他長居しているのだ。これ以上の延長は、不可能というもの。



「…くそっ」


火村を見送る為の晩餐会が執り行われたが、それにもアリスは顔を出さずじまいだった。

姫付きの者に尋ねたところ、部屋に閉じこもったまま出てこないのだそうだ。

仕方なく明朝の予定を理由に部屋へ戻ると、先ほどからずっと苛苛と紫煙を吐き出しては室内を歩き回っている。



火村もまた、多くの人間との接触を持たずに生きてきた。

アリスとは違い自発的に排他してきたのだが、関係上繋がりを持つ場合でも、必然と他人に対しては身を引いた付き合いをしてきたと思う。勿論、腹を割って気を使わずに話をするような人間など皆無だ。いくら親しくしていようともそこには越えられぬ一線を画していたから。



…いつ何時であっても一枚壁を崩さずに居たのだ。

これまでにその壁を崩そうとした者が居なかったわけではない。強引に叩き壊そうとする者、よじ登ろうとする者。そういった者が現れるたび、触れられる度に壁はより強固に厚くなっていく。


だから、俺自身が他の誰かの訪れを心待ちにしている事に気づいた時は愕然とした。


確かに他にはすることもなかった。
時間に追われているわけでもなかった。


でも、…確かに待っていたのだ。


決められた事では無い、約束も無い時間を。

心待ちにしていた。

強引にこじ開けるわけではなく、触れることもせず。

柔らかい笑顔で真っ直ぐな瞳で見つめるアリスが壁を溶かしたのだろうと思う。



「ひむら」

たった三文字の言葉と笑顔で以って。


そんなアリスが、声も無く涙を流す姿を美しいと思った。
涙の訳も知らずに流れ逝く事が惜しくて思わず手を伸ばした…その手は払われて届くことは無かったが。


「…こんな気持ちの儘、おめおめと帰れるかよ」


アリス、お前は何故逃げ出した?
何故涙したのか?

許される事では無い。


そうと知っていても、答えを聴きたい。


アリス、お前は…。
何を想う?



さくさく行きます///

Author by emi