王の花嫁 -11-



灯りを落とした部屋で、火村は一人自分の指先を見つめていた。


未だ温もりが残っているかのような、感覚。
指先から優しい色に染まっていくかのような、錯覚。



この指先が、触れたのだ。


アリスの柔らかいくちびるに。



よく踏みとどまった、我ながらそう思う。


惚けたように蕩けた表情を見せるアリスの唇が、薄く開いていて。
誘われるまま…触れてしまっていた。



決して意図的な行動ではなく。

その時は確かに…無意識だったのだ。

そっと顎に手を添えて、今思えば払われてもおかしくない行動だったのだが、しかしアリスは動かなかった。感触を確かめるように親指で撫ぜれば吸い付くような柔らかさで、自然と手は腰に回り…そして顔を寄せていた。


遠くで夕餉の仕度が整った合図の鈴の音が聴こえなければ、そのまま口付けをしていたかもしれない。

まるで誘うようにアリスの瞳が揺れている、そんな風にも思えた。


誘うなど――有り得ない事だ。

そう、有り得ない事なのだが、今思い返してみても、
あれは火村の独りよがりなんかじゃなかったと思える。

しかし、だからといってそうなってしまうのは非常にまずい。


一国の王女というだけではない。
いまやアリスは王の許嫁という立場なのだから。


「…そろそろ潮時かも知れないな」

宛がわれた客間で紫煙を燻らせながら火村は独り呟く。


この城へ来てもう1週間が経つ。



その間、傍に居て供に居て少なからずアリスを見てきた。


はじめはどんな姫なのかを見極めようと…もし意にそぐわない姫であるなら この話はなかったことにするつもりで近づいたのだ。



そして、アリスという人となりを知る。


男であることを隠され、そして姫として生きる事を余儀なくされたアリスは
はたしてどんな思いを抱えて生きてきたのだろう。


逃げ出すこともせずただひたすらに姫としているのは
きっと自分の為ではない。

そうまでして自分を生かしてくれた、愛してくれた両親への思いから。


どれほど、逃げ出したかっただろう。

どれだけ、自由に生きたかったことだろう。


だが、それは叶わないのだ。



国を背負い、愛を背負い、想いを背負って。


アリスの葛藤はこれからも続く。


それなのに――…。


アリスは、ぶれない。


アリスの心は誰よりも自由で、誰よりも愛に溢れている。


だからかもしれない。


その心に触れたい、思いに触れてみたいと思うからこそ
腕を伸ばしてしまったのかもしれない。


抗われないのをいいことに、アリスに触れてしまう。


その度に、どこか危うい表情を見せるアリスに…覚えるのは、
恋情にも似た胸のざわめきで。
どこか懐かしささえ感じる、心温まる想い。


他人に想いを寄せるなど、考えられなかったのに
今はソレを自分自身が否定できないでいる。


使者として用件を果たした以上、本来なら長居は無用だ。



そうとなれば具体的な話を決めて帰路に着かねばなるまいと、
火村は重い腰をあげ身支度を整えると部屋を後にした。






火村が城へ来てからというもの、アリスは比較的早い時間に起きだしてきていた。


客人ということで気を使った部分もあるが、何より火村と話をしているのが楽しいと思ったからだ。 なによりも本を愛するアリスにとって、いろいろなことを知るのがとても楽しいと思う。 きいたことのない話、想像もつかない世界、それらに触れると心がわくわくするから。
そして、火村は博学でアリスの知らない話をたくさんしてくれる。
説明もわかりやすく、時折軽口を交えながら話をするのが何より楽しいのだ。

淀みの無い言葉使いは耳障りも良く、低い声は心地良く響く。


…なにより、火村の前では自然体、
アリス自身で居られることも。





今日も然り。
小鳥の囀りで目を覚ましたアリスはベッドを抜け出すといそいそと仕度をし始めた。



今日はどんな話をするだろう。
火村の育った国について聞いてみようか。


そんな事を考えながら火村の待つであろう図書室へと急ぐのだ。


いつも火村の方が早い。 火村は朝早くに起きて剣の稽古をしているらしく、いつも先に待っている。 素人目に見ても腕が立つのだろうとは思ったが、改めて聞けば国でも一二を争うほどの腕前なのだそうだ。 抱き上げられたときにも感じたが、よく鍛え上げられ創られた躰をしていた。火村は現状に甘んじず、日々の鍛錬を怠らないでいるのだろう。元来ストイックなのだ。

少し、羨ましくも思う。

アリスとて男だ。

物心ついた頃に、このまま姫として生きていくよりもただの男として城を出てひっそりと生きていこうかと考えたこともあった。しかし、まるで女の様な細腕では男として生活するのには無理がある。

剣術どころか剣すらまともに振るえないのだ。

手先が器用なわけでもない。
腕が立つわけでもない。

これでは、外で生きていけるはずなど無い。



何も出来ない自分に呆れ腹も立ったがどうしようもない。



なにより、自分たちの運命さえ否定して…それでも、
我が子を生かそうとしてくれた両親を裏切ることなどできなかった。

だからアリスは姫としてここに居る。


わが身の軟弱さを嘆きつつも重い扉に手を掛けた。 待ち合わせをしているわけではないのだが、自然とそうであるように振舞う火村。


いつだって彼はそこに居て、アリスを待っている。

そしてあのどこまでも深い漆黒の瞳で、じっとアリスを見つめて。口の端に笑みをのせ掠れたような優しいバリトンで囁くのだ。


「アリス、おはよう」
「…おはよう、火村」


部屋に入るとめずらしく火村は中央に立ったままで。いつもならあの窓枠に腰を掛けて本を紐解いているのに…今日はまるで図書室を見渡すようにして、ただ立っていた。


その表情が…どこか不自然で。

漠然とした不安を覚えながら、アリスは口を開いた。


「…今日は本、読まへんの?天気もええし、外でも行く?」
「いや…。アリス。明日朝一番で城を発つことにしたよ」

「え…?発つ、て国へ帰るん?」
「ああ。本来ならとっくに帰っている頃だ。ここでの用事も済んだしな」




突然告げられた別れにアリスは愕然とした。



火村が、帰る?
この城から居なくなる?


きいていたいはずの火村の声が、どこか遠くに聴こえる。

漆黒の瞳に呑まれたように瞬きもせず見つめたまま立ち尽くすアリスに、火村が呼びかけるのも分からないほどに。



火村が国へ帰れば、今のようには会えなくなるだろう。

アリスは火村の居る国へ嫁いでいくけれど、それは王の花嫁としてだ。 対外的には女として嫁ぐ以上、従兄弟とはいえ他の男性と会うことなど出来ないかもしれない。



火村に会えなくなる…。


さっきまでの楽しい気持ちが幻のように霧散してしまう。

それはあまりにも辛い現実だが、こうなることは分かっていたはずなのだ。


自分は姫として。
火村は使者として。


別れが来るのは、そう遠くない現実。



分かっていたのに、一緒に過ごしている時間があまりに嬉しくて、楽しくて。楽しければ楽しいほど、嬉しければ嬉しいほど、大切な時はあっという間に過ぎ去ってしまった。

傍に居て隣に居て、それがあまりに心地よくて。

これからもそれが変わらずに続いていくような錯覚をしていた…?


否、錯覚ではない。

そうであれと、願っていたのだ。


傍に居たい、隣に居て欲しい。
その声を、聴いていたい。



君が触れてくれる、それが心地よいのは。
触れられると早鐘のように胸が高鳴るのは。



君の事が…。


己の気持ちを認めてしまうと途端に何かが音を立てて崩れていく。


そして、溢れ出してしまう。



頬に伝う感触に自分が泣いているのだと知る。

驚いた火村が何か言っているが、その声も遠くアリスには聴こえない。



ただ、声も無く泣いていた。

君が、好きだと。



事態が動き始めます。

Author by emi