卒業してからずいぶん経った。今ではアリスの事を知っている人も少ない。
それでも、図書館に居る司書の何人かは知り合いだし、
門の前にいる警備のおっちゃんとも挨拶を交わすくらいには顔見知りだ。
まさか、この街に腰を落ち着けるとは思っても見なかったな。
英都に来るたびにアリスはそんな風に思う。
大阪に住んでいた頃とは違う、ゆったりとした空気を
時にははがゆくも思ったものだが、住めば都。
今は心地よいばかり。
学生の頃感じていたはがゆさは、ただなんとなく日々を過ごしていることへの
自責からきていたのかもしれない。
まあ、だからといって今が充実しているということでもないのだが。
きっと日々の糧を追い、はがゆさを感じるほどの余裕がないだけ。
「あかん、どうにも暗なる・・・」
ひとりごちたアリスは紅いレンガの建物の扉を押し開けた。
アリスは図書館の持つ独特の雰囲気が好きだ。
本を読むのは勿論だが、密かに自分でも書いたりしている。
・・・誰かに見せた事こそないものの、いつかは作家になってやる。
それはアリスの密かな想いで。
もっとも花屋を切り盛りしながら、ではなかなか思うようには行かないのだが。
生活をしている以上、仕事をしないわけにもいかない。
手の空いた時間、少し早めに仕事を終えた日の夜、休みの日。
暇を見つけては物語を紡ぐ。
そして時折こうして母校の図書館へと足を運ぶのだ。
「・・・?」
ふと、いつもと違う何かを感じてアリスは館内を見回した。
何か、違う。何が、違う?
訝しく思いながらも先にカウンターへと近寄ると返却の為に本を差し出す。
バーコードを読み込む無機質な機械音を耳にしながら、
その原因を見つけて驚いた。
閲覧用に誂えられた机の上に。
その存在を主張する、淡い桃色。
全てがセピアの色の世界にそこだけ、
ぽっかりと色が射したように目立つソレは、
紛れも無くアリスが仕入れて丁寧に包んだ花達。
古い紙の匂いが立ち込める図書館に香り立つ、鮮やかな華。
よく見れば、それは分けられて館内中に行き渡っているようだ。
勿論、カウンターにも。
「あの・・・、この花って・・・・」
「ああ。これ?火村先生が差し入れしてくださったんですよ。
社会学部の准教授の」
「火村先生・・・?って、背の高い、割と端正な・・・、あの?」
「あら、そうそう。あなた、ご存知?初めは驚いたけど、
ここのところ毎日持ってきて下さるのよ!
なんでも、近くに花屋があるからついでなんですって。
どんなついで、なのかしらね、ふふ」
話をする図書館員は妙齢をとおに過ぎた女性ではあったが、
それでも彼のように素敵な男性が華を持ってきてくれる、
というのは嬉しいのだろう。
嬉々として教えてくれた。
名前、火村って言うんや・・・。
職場に飾るって言ってたんは、ここの事だったのかな・・・。
まさか、自分に馴染みのある英都で教鞭をとっているとは思わなかったが。
彼の名前が、わかった。それも意図せず偶然にだ。
思わぬ出会いにアリスは舞い上がってしまった。
はじまりは単なる憧れだったとしても、
それが淡い淡い恋にも似た想いなのだと自覚した矢先に
彼に相手がいるのだと思い込んだ。
だけれど、それすらアリスの思い違いなのだとわかった。
あまつさえ知りたいと思っていた名前まで。
こんな偶然って・・・。
単なる憧れだから、恋なんかじゃないから、と
自身を誤魔化すことだって出来るのに
彼には・・・素敵な相手がいるのだから諦めろ、と
想いを打ち消すことだって出来るのに。
それなのに、こんな僥倖。
ふわふわと足取りがおぼつかないのは
きっとどうしたらいいのかわからないくらい、嬉しいからだ。
いい歳をしてみっともないかもしれないけれど、
それはまるで、思春期にしか味わう事が出来ないほど
青くて透明な、胸の高鳴りだった。
そんな状態のアリスは結局借りる本を選ばないままで図書館を後にした。
そして、無意識ながら足は通い慣れた校内へと向かう。
法学部だったアリスは、この角を曲がったところにある
研究塔でゼミを取っていた。
記憶が正しければ、社学の研究塔はその隣のはず。
行ってどうにかなるものでもないし、会ったからといって
何が変わるというわけでもないのに。
会いたいと思う。
ひとめだけでも、その姿を見たいと思ってしまう。
こんなこと、おかしいとわかっているのに。
足が、勝手に動いてしまう。
水曜日ということもあり、校内には人の気配が少ない。
ちらり、と校舎に張り付いた時計を確認すると
あと5分ほどで3限が終わろうかという所。
その下にベンチを見つけてアリスはそっと腰を下ろした。
もう少し、もう少ししたら帰ろう。
図書館には華がたくさん溢れていた。
あの量だと、残りはおそらく研究室とやらに飾られているのだろうか。
そうだとすれば、もうきっと彼は来ない。
だって、華を飾るところはもう無いからだ。
だから、明日からは通りの向こうを行くのだろう。
そう思うととてつもなく、寂しいのだ。
やがて響いたチャイムと共に少ないながらも
ざわざわとした喧騒が校内を包んだ。
どうやら授業が終わったらしい。
迫りくる喧騒。
時折あがる学生の嬌声。
それは、何かを告げる鐘の音の様で。
溢れだした日常の音に、アリスは我に返った。
どうしよう。
どうしよう。
彼に見つかってしまったら、どうしよう。
きっと私が英都の卒業生で、たびたび図書館に来ているなんて事、
彼は知っている筈もないし思いつくわけもない。
それなのに、私がここに居たら・・・まるで彼の後をつけたように思えないだろうか。
そう考えたら、急に怖くなった。
校舎から吐き出されてくる人の波を見て、それに紛れて帰ろう、そう思った。
そっと立ち上がると出来るだけ目立たないように歩く。
声を高く楽しそうに話す学生に混じると足早に校門へと向かう。
「・・・・?」
ふと、何か聴こえた気がしたが、構わずに歩いた。
どうせ、聞き間違いか何かだろうと思って。
それよりも、一刻も早くここを去りたい。
そうして歩いていると、後ろの方から一際大きなざわつきがきこえた。
それはどんどん近づいてくる。
なんだろう。
そう思って、私が振り向こうとしたその瞬間。
ぐっと強く腕を掴まれて驚いた。
ふっと香る、あの匂いに。
高鳴る、胸の鼓動が、どこか遠くに聴こえた。
Author by emi