カトリック出津教会 
カトリック出津(しつ)教会
長崎市の外海地区は、2005年に長崎市に編入された旧外海町という地域で、 角力灘(五島灘)に面する西彼杵半島南西部の丘陵地です。
角力灘の眺望も素晴らしいこの外海地区には、 カトリック大野教会カトリック出津教会カトリック黒崎教会 と3つの教会が密接している地域です。

出津集落は、『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』 の構成資産である、“潜伏キリシタンが何を拝むことによって信仰を実践したのか”を示す 4つの集落のうちの一つです。

また、ここ出津教会堂は、2011年に国の重要文化財に指定されています。
1571年頃、外海地区一帯にキリスト教の布教が始まり、一時は5000人近い信者がいたと言われています。 しかし、幕府の禁教令が出されると、外海地区でも迫害が始まりました。 幸い、外海は大村城下から遠く、また出津や黒崎などでは比較的寛容な佐賀鍋島藩の飛び地が入り混じっていた為、 多くの潜伏キリシタンが存在しました。

明治になり、 信徒発見以来、外海地区にも多くの潜伏キリシタンがいたことを知ったプチジャン司教は、 1879年(明治12年)に マルク・マリー・ド・ロ神父 を出津・黒崎地区の主任司祭として赴任させました。
ド・ロ神父はその生涯を外海地区に捧げることとなります。
現在も、出津集落周辺にはド・ロ神父の残した功績の跡が随所に残されています。
国指定重要文化財 出津教会 [現地案内板より]

出津教会は、明治12年に外海地区の司祭として赴任した、フランス人のマルコ・マリ・ド・ロ神父により統計・施工された教会です。 明治14年、建築に着工され、翌15年完成しました。この時の教会は、レンガ造りの壁面で、 内部は漆喰塗り、木造桟瓦葺き寄棟造り、内部は三郎式平天井でした。 明治24年、増築、祭壇部に塔を建て、屋根は祭壇部が切妻造り、玄関部は寄棟造りとなります。 明治42年、玄関部を拡張し、鐘塔を建ましした。玄関部は、鉄骨造りで、周囲をレンガで囲み、白漆喰に仕上げています。 外部はモルタル塗装、屋根は切妻になりました。 内部は、六本づつの柱列が二列に並び、身廊部と左右の側廊とに分けて三廊式になっています。 天井は、台風の被害を少なくするために平天井としています。
この教会は、明治初期の建造物であり、建造から二回の増築までド・ロ神父の統計施工によるところに大きな意義があり、 各所にド・ロ神父独特の手法が見られます。ド・ロ神父の偉業の一つであることなど文化財としての価値が高い教会です。

教会の規模
全長37m、幅11m、軒高3.5m、塔の高さ5.8m、祭壇部の塔の高さ5.5m
 ▲ 鐘塔の搭上に立つマリア像は神父がフランスから取り寄せたものです。 中に吊るされていた鐘は戦時中に供出したため、現在はありません。




▼ 現在、聖堂内の撮影は禁止になっています。以下の聖堂内写真は過去に訪問した際に撮影した物です ▼







 ▲ ド・ロ神父の胸像と、パウロ・中村近蔵の胸像


出津教会の近くには、 潜伏キリシタンの時代の文化遺産やド・ロ神父の足跡をたどることの出来る施設、 「ド・ロ神父記念館」 「旧出津救助院」 「長崎市外海歴史民俗資料館」 が点在しています。

出津教会の周辺には、 外海の石を積み重ねて作った石垣が残っています。
地元で「ド・ロ壁」と呼ばれるこの壁は、 独特の石造りで、風が強い立地に対応して地域で産出する石を、赤土に石灰を混ぜた漆喰で固めた物です。 130年の歳月を過ぎてもこの地へのド・ロ神父の思いを伝えています。

出津教会の手前に続く、ド・ロ壁の張り巡らされた小道は、 「歴史の道」と呼ばれ、ド・ロ神父が教会と救助院との行き来に使った路です。 歴史の道の途中には、ド・ロ神父が使った井戸が残されています。



 ▲ 歴史の道

 ▲ ド・ロ壁

 ▲ 歴史の道

 ▲ ド・ロ様の井戸

 ▲ 旧出津救助院

 ▲ ド・ロ神父記念館
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カトリック出津教会 DATA
住所長崎県長崎市西出津町2633
電話番号
拝観時間9:00〜17:00
拝観料無料
駐車場あり
公式HP
備考
関連 LINK

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last visited : 2019/04/13