ほんなら・・・ ほんでも・・・ 21回目 『樹村みのり』さん。・・・] ・・・・・2004年 10月 24日・・・・・ |
台風のおかげで一日延期して10日から12日まで信州・車山高原、セロウさんに行き昨日帰阪しました。 「娘は、アマゾンを利用している」とオーナーさんが言っとりました。 まぁ、今どきパソコンを持つてるのなら、いちいち本屋にまで行かなくても確かにアマゾンを使えば便利ですから、そうするわな。 嫁はんなんか「本屋は遅い」と待てない本はすべてアマゾンで注文している。 でも、これで糊口をしのいでいる身としては(業界も悪いけれど)「いずれ読み手さん達に何がしかのしっぺ返しが来るよ」と言っておきたい。 |
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『星に住む人びと』 樹村みのり 著 秋田書店 1982年10月10日 初版発行 (クリックすると下の 『星に住む人びと』 に戻ります) |
『ローマのモザイク』 (1975年 別冊 少女コミック 2月号 掲載) ローマに行くと友人達に言ったら、皆が皆「治安の悪い怖ろしい街だよ」と言われたけれども、『1973年』『ローマに行った時のこと』を素にして『ほとんどが”やや真実”』と後書きに書いた漫画。 『犬・けん・ケン物語 第一話』(1978年)で「神様はいない」と書いたのが二十九歳頃。 その五年程前の作品だから、”神”への想いがひしひしと伝わって来る。 いや、”神”を信じる人々への信頼感がと書くべきか。 どうしても視ておきたかったクォ・ヴァディス聖堂に行き、聖堂の隣に住む小父さんの親切に泣くほどの感動を覚えるほどに、樹村みのりさんは純真だった。 カタコンベって何か知らないので調べてみると。 『元々、古代ローマの地下墓地。初期キリスト教徒がローマ帝国の迫害を逃れ、ここで信仰を守り続けたことからキリスト教徒の礼拝堂・地下共同墓地等をさすようになった』らしい。 (italian net Home Page 参照) クォ・ヴァディス聖堂もついでに。 『ネロによるキリスト教徒迫害の真っ只中、キリストの一番弟子のペテロがローマから逃げ出そうとしたところ、この地でキリストと出会った。ペテロが「主よ、どこへ行かれるのですか?(ドミネ=クォ=ヴァディス?)」と尋ねたところ「もう一度十字架にかかるため、ローマへ」との答え。その言葉に自分を恥じたペテロは再びローマへ引き返し、そして殉教した。」 以上のような伝説の地に建つのがこの教会である。この教会にはキリストの足型まで残されているという』 らしい。 (ローマの教会 参照) 小父さんがさらに案内してくれたサン・セバスティアーノ教会は。 『4世紀前半に造られ、一時期ここのカタコンベに葬られていたという、聖ペテロとパウロに捧げられた教会。後、ディオクレティアヌス帝の時代に殉教した聖セバスティアヌスにちなんで現在の名前となった。なお、カタコンベ自体は教会よりも歴史が古く、1世紀まで遡ることができる。 地下には全長12kmにおよぶカタコンベがある』らしい。 (ローマの教会 参照) 『なにも誓わなかったなら なにも裏切らなかったことになる 裏切りなんてなかったことになる だれをも裏切らなかったことになる 自分をも裏切らなかったことになる 裏切りなんてなかったことになる』 滅多やたらと親切で優しい小父さんが、ローマに行く前の不安感を払拭してくれた。 基督教に興味を持ったこともなく、かと言って他の宗教に興味を覚えたと言う事もなく、宗教施設を視ても「?」と「!」しか浮かんで来ず、したがって、少なくとも何がしかのキリストの教えが小父さんの中で作用しているのだけは確かなんだろうけれど、宗教心からのみ来たものなのかどうか私には判らない。 ペテロがキリストに「何処 行きまんねん?」と聞き「も一度、十字架に掛けられにでんねんがな」とキリストが答えたら「こりゃ〜大変でんがな!」とばかりに最後まで行動を共にし殉教したらしいし、捉えられたキリストとの関係を問われて、三回「わし、こんな人知りまへんがな」と言ったらしいけれど、優柔不断と言うのか、自分に正直と言うのか、キリスト親分からすれば、男気一本の任侠ものとは文化の違いからか「可愛い子分」のペテロだったように思う。(可愛いいだけの子分にしか思えないけれどね) しかしまぁ、”仏の顔も三度”と言う点から対比すれば、キリストは三度やられても立腹しなかったって事で仏よりもこちらの方が器が大きいのかもね? ・・・・(念の為に「ここらの解釈は出鱈目そのものです」)・・・ 樹村みのりさんがそのペテロの何処に、キリストの何処に惹き付けられたのか、ひねた私には判りかねる。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『姉さん』 (1976年 別冊 少女コミック 6月号 掲載) 遠くの夜間大学に合格したのに、下宿する前日まで姉恵美子と母に言わなかったともこ。 『遠くに行くのは家にいるのがイヤだからではないでしょう?』と聞く姉に『はねをのばしたいのよ わたし 悪いこといっぱいしてもしかられないところで』と答えたともこ。 幼い頃から姉はともこよりも綺麗で可愛く大人しく素直で、それは母も級友も家に来る誰もが思っていた。 『お母さんに似た、お母さんお気に入りの姉さん 姉にみたいになりたかった』ともこ。 「親はどの子も同じように可愛いけれど、楯突くような事ばかりしているとそうも思えなくなる。一体どこが不満で嫌で家を出て行くのか、言いなさい」当惑し情けない思いで母が言うが、ともこは『もう今ではあまりに遠すぎて』理解し得ない母に、黙って立ち上がり部屋を出た。 『違ったことを知りたかった お母さんやお姉さんとはなにか違ったことを 違った価値をみつけたかった』 生まれてすぐ、私達を捨て蒸発した父親似だったのかも知れない。 この一番強い内なるものは父から受け継いだものかも知れない。 『何かわけのわからない熱い思いがわたしの心の中にある そしてそれは日増しに大きくなっていく けれど心の中にあるだけではどうにもならない 理解されないままに窒息してしまうまえに 根づきを忘れてしまわないうちに 外に出し実現しなければただ苦しいばかりだ』 「母も私も、好かれなかった事が残念だった」と姉が寝床で横になっているともこに話しかける。 「違う。判らないかもしれないが、姉さんは私の憧れだった。お母さんは一番愛されたかった人だった」姉に背を向けながらともこ。 姉は「今ではお母さんの方があなたの愛を必要としている」 バス停まで見送る母が心配し連絡を電話をと言うのに「手紙を書くわ」とともこが答えた。 夢と希望を抱いて見知らぬ暮らしを始めるともこがいる。 『海辺のカイン』(1980年6月号から連載)の方が後に描かれた作品ですが、亜流とも言えそうな作品で姉の位置づけが大きく異なる。 この作品では姉は指をくわえて見ている対象であり、カインでは憎しみすらをも持つ者として描かれている。 姉は母との間に立つが、擬似的な”母”としてともこは見ているようで、死んだまねをしたともこを後から抱きかかえながら「3つ数える間に生き返るのよ」と言われ笑いながら目を開ける幼い頃の思い出は、まさに母に抱かれた思いのまさこだった。 前夜の姉の話で、この思い出の夢を見、母との確執が吹っ切れ、父の血が流れているかも知れない疑問を消去した。 姉のおかげで自分で作り上げた母(父)像を理由とした家を出るは、ごくごく普通の青春期特有の思考・行動になった。 単に家を出て自由奔放な暮らしを自分の力でやれるだけやってみたい。知らない世界に身を置いてみたいだけのともこ。 詞の内容はまったく別物ですが、ふと、1972年に泉谷しげるさんが唄った「春夏秋冬」の『季節のない街に生まれ 風のない丘に育ち 夢のない家を出て 愛のない人に会う』や、1975年に太田裕美さんが歌った「木綿のハンカチーフ」の一節『ただ都会の絵の具に染まらないで 帰って 染まらないで 帰って』(筒美京平 作詞)が浮かんできます。 ともこに新たな視野が広がり、幸多からん事を祈ります。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『水の町』 (1977年 プリンセス 5月号 掲載) 若い男が若くて綺麗な女に「助けてください」と頼まれた。 聞くと「明日の深夜、此処に来て私が呼んだら、俺は此処にいるぞと言って欲しい」と言う。 翌日、男が約束どおりに来てみると、摩訶不思議な気配が辺りを取り巻いていた。 「今です、助けてください。名乗ってください」 見た目は強そうなこの男、実は気の弱い臆病者だった。 男の目の前で、娘の背後に広がる美しい町は水底に沈み、娘は渦に巻き込まれながら悲しそうな目で男を見つめていた。 商家に生まれた周三郎は、雇われ人の娘ルイとは歳の差はあるけれど幼い頃から姉弟のように仲良く育った。 ルイが十一歳の時、父が亡くなり独りぼっちになったので小学校を辞め、住み込みのお手伝いさんになった。 ルイが知らなかった事で笑った周三郎に、怒りと悲しみを混ぜた顔をして『ぼっちゃんが知っているということは ぼっちゃんが知ることのできる境遇にあるからです だから笑ったり いばったりしてよいということではありません』 耕作と言う名の、村では大農家の長男坊はけっこうな男前で、娘達の垂涎の的でもあり、また若衆達の寄り合い団では人望があった。 ルイは例に漏れず耕作に惚れていった。 人の口は悪いもので玉の輿に乗るルイと見られていたが、周三郎は内心、ルイを好きになっていたが「違うわい!ルイは耕作さんの人に惚れたんだい!」と怒っていた。 作品では”秩父”とは書かれていないけれど『困民党事件』と最後の1コマに。 1884年(明治17)11月1日に蜂起した秩父事件は、不況による生糸の暴落・増税・高利貸しによる担保土地の取り上げなどで苦しい生活の中、以前より秩父にも入り込んでいた自由民権運動思想をもとに、困民党と呼ばれる集団が組織され、請願活動や高利貸との直接交渉をくり返す中、武装蜂起路線を決定、この行動は明治政府に立ち向かう行動であり、政府側は警察・憲兵隊・東京鎮台までも動員し、徹底的な武力鎮圧をはかった結果、11月9日に壊滅した。 (『秩父困民党群像』井出孫六 著 社会思想社刊 文庫・『秩父困民党』西野辰吉 著 講談社 文庫・『日本の歴史 21 近代国家の出発』色川大吉 著 中央公論社 文庫・『自由民権』色川大吉 著 岩波書店に毛色が違うが『一揆論 情念の叛乱と回路』松永伍一 著 講談社 文庫 を参照) こんな出来事があり・・・。 周三郎の家では、親父が資金を援助すると言う事で『暴徒の一派』のお引取りを願った。 彼らの中にいた耕作を見てルイは嬉しかった。 鎮圧後、耕作も刑法犯としての軽い処分を受けたが、噂じゃ、耕作の親父が手を回したとの事。 村に戻った耕作は覇気を失っていた。 それを見たルイは途方にくれた。 周三郎の親父は、お上を相手にした事で国賊になっていまうし、職にも就けなくなり『なにもよくなったわけではないのに愚かなことをくわだてたものだ』とまで言った。 耕作は酒びたりにの日々を送るようになった。 彼の扇動で参加した者の親から批判があびせられる。 ルイに会った耕作は泣き言をくだくだ述べた。 「間違いだった」と。「ただ、幸せを願ったんだ」と。「お上に立ち向かう気なんぞなかったんだ」と。 泣きながら話す耕作にルイは『でも、もし普通に生きて幸福に生活することが お上の意志に反対することになるんだったら間違っているのはお上のほうよ』 耕作はあれは間違いだった、手違いだったと否定した。 ルイは耕作を遠ざけ始めた。 周りの者は『羽振りが悪くなるとサッサと冷たくなりおって、男が苦しい時にこそその人についてゆくものだのに』と無責任からくる非難をした。 周三郎自身にも引っかかるものが有った。 家に東京から兄と友人の小池が来た。 小池は法律を学ぶ苦学生だった。 ルイを散歩に誘い、気が立っていたルイは小池を非難したが、その後、小池はルイに結婚を申し込み、ルイは受けた。 周三郎の心中は複雑だった。 ルイを馬鹿にして言う連中に「ルイを取られて悔しいだろう」と言われた瞬間、切れた。 熱を出し眠っている周三郎の枕元にルイがいて話かける。 耕作は正しかったと思うし、好きだった。 彼の話や望みは希望を与えてくれた。 しかし、それが彼の中で壊れた時『私があこがれたのは あの人自身ではなくあの人の夢だったのだと知りました 耕作さんによって私も夢を見ることを教わりました 私は夢を壊したくありません だって 人は生きてゆかねばなりません』 翌朝、目覚めるとルイはもう家を出ていた。 駅まで走りながら、ルイにはただ好かれたいと言う思いだけの「好きだった」もので、ルイが苦しかった時に何の力にもなれなかった子供だったと思い知る。 水底で『もうなにも とりもどせないまま ぼくはいつまでも たちあがれないでいた』 その後、故郷を離れて学生になり、職を得、帰省する事はほとんどなくなり、ルイの消息を耳にする事もない。 村に慰霊碑が建立されたと聞き、耕作に会ってその後の話を聞くためにだけ、行って見ようと思う周三郎。 樹村みのりさんは『困民党事件』(=『秩父困民党』)を是と見ない一面を『暴徒の一派』と書き、商売人の親父が現実的な対応をし(資金援助と言う名目でのお付合い)鎮圧後、事件についての当事者、残された者達への冷静な言動は、夢はどうせ夢でしかないと言い切っている事で水を差しているようにも見えるが、これはルイ自身「間違っているのはお上の方」と言い「あの人の夢」に憧れたのと同じく、扇動に乗った人々への思いから来るもので、理念先行浅学菲才ひ弱な坊々あたりが扇動者になったらアカンって事だろう。 耕作の夢に憧れていたと言い、自分自身で夢を見る事を教えられ、夢がなければ生きられないと言うルイなのに、自力で山の向こうに行く事をせず苦学生(しかも青白きインテリだぜ)との結婚と言う手段で、自己の”夢”を見続ける事が出来るものなのだろうか? ルイの境遇から来る学歴への劣等感と言うのか、知識を持つ者へに対する妄信でない事を祈りたいが、事件後、ルイが現実的な行動派になったとすれば、作為的に苦学生の小西に「チャンス」とばかりに喰いついたと言えなくもない。 1895年、長野県木曽福島に生まれ、1983年に東京都板橋区の養育院内の老後施設で亡くなったアナキストの八木秋子さんは「思想の根源である自我の追求に対して臆病で関心を持たず、自己を掘り下げ、確たる自我を見つける為の塗炭の苦しみを必要とする努力を避け、適当な所で手打ちしてしまう女性が多い」とか書いていたように思うけれど、苦学生の小西と一緒になったルイはどうなんだろう? (『八木秋子著作集』@『夢の落葉を』A『近代の”負”を背負う女』B『異境への往還から』の全三巻 JCA出版 1978年・1981年刊) 何にしても、口さがない連中が言う『羽振りが悪くなるとサッサと冷たくなりおって、男が苦しい時にこそその人についてゆくものだのに』に異をとなえる気にはならない。 ルイは気力を無くした耕作と共に立て直すべきか、一人で山の向こうに行くべきだった・・・・と思う。 (え〜と、私は努力とかのしんどい思いをするのは大嫌いですので、無責任な批評家的なもの言いですよ) ”ルイ”と言う名で思い出すのは、大杉栄さんと伊藤野枝さんの四女で女性アナキストのルイズ・ミシェルさんから名をいただいた伊藤ルイさん。 (『ルイズ・・父に貰いし名は』松下竜一著 講談社 1982年刊。『伊藤野枝全集』上・下巻 学芸書林 1986年刊)) ここからいただいた名なのかも知れないが”作為的”ならば親の野枝さんの方になるけれど・・・。 (余談ですが、前の20回に辻潤さんの名前を載せています。伊藤野枝さんと彼はただならぬ関係だったと言う事と、彼との間に出来た子供達を思うと、個人的に私は伊藤野枝さんを好んでいない。大杉栄さんとの間にしても、野枝さんは子供を作るべきではなかった・・・もちろん大杉さん辻さんも責任をともなうが・・・と強く思う) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『わたしたちの始まり』 (光にむかう風・海にむかう流れ その1 1965年9月) (1975年 別冊 少女コミック 9月号 掲載) 女子高一年生十五歳の阿草久子は、中学三年生の時に編入して来た佐藤周一郎を見て『あ 異性のわたしが在(い)る』と思い、学級で浮きつつも粗野粗放純朴とも言える彼の行動に共感と好意を寄せながら、手を差しのべる事もできず、ただ見ているだけだった。 高校生になり、周一郎を見たさに同級生の吉岡から映画に誘われても断って帰って行った。 ある日、街で彼が女の子と楽しそうに語らいながら歩いているのを見た晩、熱を出し夢を見た。 翌朝、休んだ久子に兄が「あいつはやめろ。キズつくぞ」と言うが「かっては自分が一番近い所にいる自身があったので声をかけずにいたのだけれど、今は違う」 五日間休んで行った学校で級友が話しかけた後、「かんたんでいいわね 席が近いってことだけでなれる友だちって」と吉岡は挑発した。 吉岡と集会に行き、吉岡の姉達がギターを手にして歌うWE SHALL OVERCOMEに引き込まれる者達の中には周一郎もいた。 『わたしたちの 時代の夢の熱(パトス)が わたしたちの心にまっすぐにはいりこみ 割りさいた生木に焼き印をおすように 心に跡(しるし)を残す』 周一郎に電話を掛ける。 彼は、私は、『わたしたちは どこまで行けるだろう』 あらすじにもなっていなくて、すみませんです。 ベトナム戦争孤児達への募金には誰も反対しないだろうと挙手を求めた委員長に手を挙げ、教師を困らせさす質問をした結果、浮き上がり、感情の発露のおもむくままに行動する周一郎。 『惰性やら享楽やら感傷だののつまらないことに取り囲まれ』ているような者には嫌われていても、これと思った者を一本釣りする吉岡。 何故か家族構成は、父と伯母(父の姉)と兄で、母はおらず、でも父の出番がなくて・・・。 米国が北ベトナム領内への爆撃(北爆)を決行し、黒人運動指導者マルコムXが暗殺され、 米国の北爆に反対し「ベトナムに平和を!市民・文化団体連合」が4月に結成され、初の集会とデモ行進を行い、 (10月に名称を変更「ベトナムに平和を!市民連合」通称・ベ平連) 本では 『南ヴェトナム戦争従軍記』岡村昭彦 著 岩波新書 『ヒロシマ・ノート』大江健三郎 著 岩波新書 『カムイ外伝』白土三平 作が、週刊少年サンデーに連載され、 歌では 『ヨイトマケの歌』(作詞・作曲 丸山明宏)を丸山明宏さんが唄い、 ビートルズが『Yesterday』を歌い、 時の首相は佐藤栄作さんで・・・。 これが1965年の動き。 これらの出来事と十五歳の久子の淡い恋物語の進展と、大人になる事への拒否と不安と希望と夢と、そして、その後の展開が読めない自分を知る。 少女期(青春前期?)にいだいた恋心と、時代としてのベトナム戦争と国内での学生の集会を絡ませて阿草久子の動きを描いているのでしょうが、どだい無理な話のようで、私の理解力では文章化出来そうにない。 ただ、私とは四歳の年齢差があるのですが『わたしたちの 時代の夢の熱(パトス)が わたしたちの心にまっすぐにはいりこみ 割りさいた生木に焼き印をおすように 心に跡(しるし)を残す』には、良くも悪くも時のコトバを使えば「イギ ナ〜シ」(異議無し)です。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 『星に住む人びと』 (光にむかう風・海にむかう流れ その2) (1976年 別冊 少女コミック 11月号 掲載) 前作『わたしたちの始まり』の続編もどき? 岡崎郁子が小学校に入学した夏、父の郷里に帰省し五歳で死んだ姉がいたのを初めて知った。 毎年、父は一人でお盆に帰省したが、郁子は死んだ姉を長い間思い出す事はなかった。 岡崎時計店( 『こわれた時計』は原田時計店。しかし、よりにもよって時計屋さんとは?)の娘郁子は臆病で暴力嫌いで絵を描くのが好きな平凡な高校三年生。 学校非公認の学園新聞発行元倶楽部に所属し、ここにはいつも冷静な吉岡聡子と、陳腐な中国国策映画でも本気で泣ける西がいた。 進学した美大にも全学集会なんぞが行われ、他校からの応援組もあり『けっこうにぎやかよ それにしてもヘルメットをかぶっている人たちがクラスの中でも好きになれる人たちならいいのに・・・と思います』・・・吉岡聡子への手紙。 1969年、東京大学安田講堂落城の報道を見ながら「泣いちゃった」と言う学友。 「面白い事なくなったわね」と言う学友。 同年、発覚したベトナムのソンミ村虐殺事件を報道するテレビを見た頃、両親にに死んだ姉の事を詳しく聞く。 ベトナム戦争の悲惨を撮り続け戦場に散った報道写真家沢田教一さんの『安全への逃避』がテレビ画面に映っている1コマ。 姉は戦中、母親は身体の具合が悪いので千葉のおじさん宅に預けられていた。 不安な日々の中、父親が迎えに行くと「あっ お父さんだ」と駆け寄って来て抱きついた。 その後すぐに病気で亡くなった。五歳だった。 『たった5つでなにを見ていったのかしら よいことばかりではないはず・・・ でももし それからもっと生きたなら もっとイヤなことを知らなければならないのだから 5つで死ぬことは不幸なことなのか 幸福なことなのか』 立看板の前でアジ演説する学生の前を歩きながら「飯 喰うべぇ」と元気な学友達と、ポール・ニザンの言葉を思い出す郁子。 絵が描けない。 部屋のラジオから、全国からリクエストされた岡林信康さんの『私たちの望むものは』が流れている。 (ここをクリックして、上の 『星に住む人びと』写真にマウスを置いて下さい。 『フォークは未来をひらく・・民衆がつくる民衆のうた』高石友也・岡林信康・中川五郎 著 社会新報社刊 1969年) 1972年3月に入り「連合赤軍リンチ事件」の新聞記事。 「もうかばいきれない感じ」「ここまでくるとおしまいね」 広島に帰り勤めるが「絵をやめるつもりはない」と言う気が置けない仲になった学友の平山。 吉岡は法律事務所に勤めると言う。 一つの区切りが終わったが、郁子だけ次が決まらない。 街中での群集の中、突然聞こえた「あっ、お父さんだ」に反応する郁子。 1973年7月、日本赤軍1名とパレスチナゲリラ4名が日航機をハイジャック。 アラブ首長国連邦のドバイ空港に着陸し「日米帝国主義、ドイツ・ファシズム、イスラエル・シオニズムに対する戦闘行為として」の声明文を伝えるものの、説得等には応じず、政治的・金銭的要求も行わないまま、3日後離陸し、リビアのベンガジ空港に着陸させ、乗客乗員解放の後、機体を爆破した事件報道記事の1コマ。 『たった1つのことだけは わたしにもわかった たとえ飛行機を手に入れても この地球の上から逃げられるわけではない・・・ということ』 1974年、東京国立博物館にてのモナリザ展に吉岡と。 『そろそろ”貧しさ”に取り込められてみない?』と聞く吉岡に「誘われている所が有るが・・・」と煮え切らない郁子。 つきあいだして三年になる、大学に残って日本近代史を学ぶ寺島と結婚すると吉岡が言った。 「どういう人?」 少し考えて吉岡は「彼は男ね」 後日、吉岡が連れて来たこの”男”と会った。 外見上は「ハァ〜・・男・・・ねぇ?」だった。 寺島の紹介で、脳病院に来る若者達が泊まれる、離れの家の居間に佛教壁画を描く事となった。 若い村上医師が描いているところを見に来る。 絵は判らないと言う村上に、判らなくても良いものだし、自分も判って描いていないと答える郁子。 ほとんど泊り込みで描き続けている途中、五歳で死んだ姉が駆け寄り、せつなくて涙が出た父と、死んだ子を病院からおぶって帰る母を思った。 1974年、東京電力、政治献金廃止を発表。 村上が抗議の1円不払い運動が効して、会社側が政治献金を廃止した新聞記事を郁子に見せて言う。 面白い思いつきで、実行されるかどうかは今後の事であり『とにかく みすみすあきらめなくても よいということなんですね』 目を見開き、村上の顔を見る郁子。 夏、十数年ぶりに父と共に帰省した。 子供の頃の視点と異なった風景だった。 しかし、亡き姉の墓石の前で思う姉は変わらなかった。 「何故、いつも一人で来たのか?」と問う郁子に「お母さんと二人で来た時、墓の前で泣き出したから」と答える父。 父を理解出来ず、母を理解出来得ない郁子は自問する。 『この人はだれなのだろう?』『わたしの知らない人』『この人たちはだれ?』『この人たちはなにを夢み なにを悩み なにをして なにをしのこしたのか?』『彼らはだれ? 彼らはどのような人たちなのだろうか?』 絵が描きあがった。 村上に「これからどうする?」と聞かれ「時間が取れるので友人の会社に行く。『わたしも 自分の絵をかきたいのです』」 微笑む村上は「来春、都内の病院に移るので、また会いたい」 星空を見ながら郁子が「嫌な事があると遠くへ、例えば星に行きたいと思ったけれど、向こうの星から見れば、地球も星の一つ」 村上が「とすると僕らは、地球星人だ」と言うと 『そう 宇宙人なんです』と郁子。 寺島(旧姓吉岡)からの手紙には「西は旦那の転勤で帰ってくる。うちの旦那は自由民権運動研究で山村に調査に入る予定。忘年会を家でいないか?姉は『この絶望的な世の中に二人目の真新しい人類を送り出した』」と書かれていた。 平山から、大阪での美術展に入選したとの通知が届く。 父が一杯飲みながら郁子を前にして「良い時代にお前達は生まれた」 郁子は聞きながら思う。 『いつだって”いい時代”なんかじゃないのですよ みんながみんな望んだことや好きなことをそのままできるわけじゃないの いつだってそんなに自由なわけじゃないのですよ』 父親が「大して好きな事もできないうちに歳とった」 そうあっさり言われると”辛い”郁子は、父の言葉を嘘でも本当でもどちらでも、もう良いと思いながら言う。 「子供を育てて、今日の飯と明日の飯が有るなんてこれはもう大変な事ですよ」 父が邦子の言葉に機嫌よく肯定する。 そこへ突然、外の雪を頭に乗せたまま「ちょっと、挨拶のつもりで」村上がやって来た。 父に軽く紹介し、喜んで歓迎する郁子。 1975年4月末、ベトナム戦争でのサイゴン開放時、大統領官邸に入り込む少年のような面影の解放軍兵士を映し出すテレビ。 翌日の5月の午後、一番最初に言葉を交わしたい人に会うために明るい町を歩いて行く。 1970年をはさんだ前後5年ほどの、激動とも言えそうだし、閉塞感溢れたとも言えそうな”時代”を、平凡な郁子(=樹村みのりさん?)は、時代にもまれ友人にもまれながら自分探しの日々を十代半ばから二十代半ばまで過ごす。 うろ覚えなのだが、1946年生まれで牧師の親父さんをもつ岡林信康さんは1970年頃『私たちの望むものは』の後、神格化され疲れ果て「キューバへ急場しのぎに」と砂糖きび狩りに行き、その後1971年にヤマギシ会を見学し、『俺らいちぬけた』と田舎にこもって農業に。 1975年『星に住む人びと』が掲載された頃は「演歌に目覚めた」岡林信康さんだった。 父親の話を許容出来るようになる郁子は、言わば”演歌”の世界が理解出来るようになったわけで、自分探しのゲーム”青春編”をほぼ終了した。 郁子が親父さんの文言に、面と向かって反発もせず、自嘲気味に言う親父さんの自分史にも揶揄せずにいたのは、エライ。 心底そのように思う。 (一応、男の子の私は「親父がすべてだなんて言いませんよ 僕一人でやった事だって沢山ありましたよ 一つだけ言ってみたいのは 親父が人を疑う事を教えてくれた事を 親父は悲しいくらいに 強い人でしたよ」・・吉田拓郎さんの『親父の歌』のうろ覚えなので間違っているかも・・のままで終わった) 当時の学生としては、完全なるノンポリでもなく、かと言って集会・デモに参加するでもなく、もちろん、先頭に立つわけでもなく、野坂昭如の造語だった”心情三派”的な位置にいた郁子はごくごく普通の学生であった。 青年期における自己の不安と社会情勢から来る不安感が相乗効果をあげ 、糞壷にはまりそうな日々を自分なりにシコシコと歩む郁子の姿は、四歳下の私を見る思いがする。 (社会情勢への”政治への直接的身体行動”と言う事で郁子とほんの少しだけ違うのは、先頭が解散地の御堂筋・高島屋前に着いた時、まだ大阪城公園に残る人々の群れは少しも減っているように見えなかった1969年10月21日”国際反戦デー”の集会・デモに参加したのが終了点だった) この1965年から1975年において、当時十代半ばから二十代半ばだったかなりの者はそれぞれが苦い思いをしたと思う。 |
![]() 22回目も、 『樹村みのり』さん・・・]T です。 |
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この車に乗って往き、 ”本”の事でも、 ”わんこ”の事でも、 何でも書いて(掲示板)おくんなはれ。 |
![]() 「お手紙は、この”HONDA1300クーペ9”で運びます」 |
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