第26話 誤解する権利
今、ピアノの鍵盤を叩いてC(ド)の音を出したとしましょう。
その音に関して、どう思うか?100人に聞いたとします。
「ただのピアノの音です。」(サラリーマン、男性 24才)
「う〜ん、なんとなくメス的な音。ヤマハですか?」(ひよこ雌雄鑑定士、男性、42才)
「弾いているのは日本人かしら?ほのかな侘びを感じます。」(茶道家元、女性、79才)
「440Hzのいわゆる”ド”ですね。」(銀行員、男性、36才)
「ってゆーうか、何それ?」(フリーター、女性、19才)
(以下、割愛)
まぁ、調べた事はありませんが、たぶんこうバラバラな回答になるハズです。
逆にこれが曲になったら、「曲調」と言うものが明確になりますから、もうちょっと意見がまとまるでしょう。「悲しい感じ」とか「軽快な感じ」とか。
そのかわり、その人なりの思い入れが一人歩きする怖さも出てきますね。「あなたの曲で私の人生が変わりました。」なんて。
しかし音楽・絵画・文学など、芸術一般にそうですが、作品は作者の手から離れた瞬間、あとはどう解釈されようと文句は言えないのです。「私は、そんなつもりでこの曲を書いた訳ではない。」と作者が言っても、もうどうしようもないのですね。
でもある意味で、これも音楽の楽しみと解釈する事もできるでしょう。ある方が掲示板でこんな事を書いていました。曰く、
「聴衆には誤解する権利がある!」
これは曲のみならず、演奏にも当てはまりますね。どうしようもなくデキの悪い演奏をして、実は落ち込んでいるミュージシャンに対して観客が「今のブルース、良かったよ!泣けた!」なんてね。本当はこっちが泣きたいくらいなのに。
あのJAZZピアノの巨匠、キース・ジャレットでもメンバーとのインタープレーが全く成り立たない日があり、楽屋に帰ってしょんぼりしている時もあるらしいですが、それを知らずに観客はメンバーに盛大な拍手を送ったりなんかすると、寺島靖国氏の本に書いてありました。でも、
「聴衆には誤解する権利がある!」
中には、「この曲はオレの為に作ったんだよな。な?そうだろ?そうなんだろ?」と、あまりにも傍若無人な、いやがらせとも取れる誤解(=思い込み)もあるかもしれません。
しかし、不特定多数に対して作品や演奏を公開すると言う事は、これらの誤解を受ける覚悟と「私の曲のお蔭でアンタは元気になるんだ!感謝しな!」くらいのパワーも必要ではないでしょうか?(綾戸智絵さんのライブなんか見ると、そんな雰囲気が感じられますもんね。)
つまり、逆の立場からすると
「演奏者は、聴衆に誤解を与える権利がある!」
と言えなくもないですね。
文:
クリフォード・伊藤
スモーキン・アット・ハーフノート / ウェス・モンゴメリー&ウィントン・ケリー
このアルバムのライナーノーツにはこう書いてある。「1曲目.ノー・ブルース(前略)ウェスのソロのあまりのすごさに聞き惚れて途中でウィントン・ケリーがピアノを弾くのをやめたりしている。(後略)」
まだJAZZを聴き始めて間もない時とは言え、「おぉ!、そうなのか!」と単純に感動なぞしてみた、ウブだった当時の私。でも、実はウィントン・ケリーが店のウェイターに話しかけられて手を止めただけだと知ったのは、それから数年後の事。
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ハーフ・ノートのウェス・モンゴメリーとウィントン・ケリー・トリオ
ザ・ビギニング・アンド・ジ・エンド / クリフォード・ブラウン
このウィントン・ケリーの一件が、私をさめた目の人間にしてしまった。
私の(心の)師、天才トランペッター、クリフォード・ブラウン(通称:ブラウニー)は1956年6月26日に交通事故で突然の死を遂げるが、このアルバムには、その死の数時間前のギグの様子が記録されている。(しかも肉声も!)
最後の曲はドナ・リー。ある評論家は「死を予感しているような」とか死ぬ前の最後の閃光のような書き方をしていたが、私は信じなかった。
いつものホットなブラウニーじゃないか。きっと演奏後の上気した面持ちで次のギグに向かったに違いない。死ぬなんてこれっぽっちも考えずに。
そして私が正しかった。最近、真実が分かったのだ。「死の数時間前」と言われていた録音は、実は1年も前のギグのもので、長年の定説は覆されたのだ。ほーらみろ。思い入れだけで書くから「死の予感」なんて言葉がでるんだ。それを開き直って、「聴衆には誤解する権利がある」だなんて言うなよ!
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ザ・ビギニング・アンド・ジ・エンド
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