―キャパ賞展で観たソマリア、紛争の歴史
          そしてブラックホーク・ダウン―


わたしがソマリア内戦というか1993年の出来事を知ったのは1年ほど前のことでした。
ソマリアのことは世界史の中で少しは触れられていますが、ほんとうに僅かなものです。
80年代のアフリカの歴史の中では、やはりアパルトヘイトが出てくるし、モザンビークも深刻な問題をかかえていました。80年代後半から続いた大干ばつや90年代にはいっての紛争によるソマリアの危機的状況も、天安門事件、ベルリンの壁崩壊、ソ連の解体、湾岸戦争、ボスニア戦争などのかげに隠れてしまうのです。

1年前、恵比寿の東京写真美術館で開催された『20世紀と人間 ロバート・キャパ賞展』を観に行きました。

ロバート・キャパ賞は1955年に創設された”特に優れた勇気と冒険心を持って海外で撮影された最高の写真作品”に対して「ライフ」誌と「アメリカ海外記者クラブ」からおくられる賞です。

会場には1936年9月スペイン内戦を伝える「崩れ落ちる兵士」、1944年”Dデー”オマハビーチに上陸する米軍先陣部隊などキャパの写真.......。

報道カメラマンたちが命をかけて伝えてきた写真の数々がそこにはありました。
たくさんの印象に残るパネル写真.......、最後の方にさしかかった時、ポール・ワトソン(Paul Watson)の「モガディシオ」がまるで異空間のように浮き上がって見え、一歩後ずさりする自分を感じました。そこにあったのは1993年10月のブラックホークの墜落現場、その時のソマリア市民の姿でした。



*.+'.2003年3月20日トマホークミサイルの発射とともに始まったイラクに対する攻撃。4月にはいって1979年に「イラン革命」でロバート・キャパ賞やピュリツァー賞を受賞したイランの写真家カビ・ゴールスタン(Kaveh Golestan)氏が取材中イラク北部で地雷を踏み殉死したというニュースが伝えられました。このイラクに対する戦争では、たくさんの民間人が死傷しました。そして、従軍記者では伝えきることが出来ないかもしれない、真実を伝えようとイラク入りしていたフリーのジャーナリストたちの犠牲も多く伝えられました。彼らが命がけで伝えてくれた真実を受け取っていきたいと思います。

ロバート・キャパ賞展とソマリアの写真

ソマリアの紛争の歴史

ブラックホーク・ダウン



ロバート・キャパ賞展とソマリアの写真


2001年4月7日〜5月13日東京都写真美術館
  『20世紀と人間 ロバート・キャパ賞展』

1955年のハワード・ソシュレク(Howard Sochurek)の「インドシナ戦線(War in Indochina)」からはじまる年代をおっての受賞作品群。

1954年、日本に滞在していたキャパは、母親の危篤の知らせをうけて一時帰国した親しい友人であるソシュレク(インドシナ戦争取材中)に代わって東京からインドシナに向かいました。そして5月24日午後3時10分、フランス軍前線基地取材中ナムディン近郊で地雷を踏んで殉職しています。

ハワード・ソシュレクはキャパの意思をつぐかのようにベトナムでの取材を続けます。
1957年の写真には1947年創設された米軍全軍を統括する『国防総省』の初代国防長官ジェイムズ・フォレスタル海軍長官の名前にちなんで命名された空母『フォレスタル』(1955年10月1日竣工)。
国防顧問アイゼンハワー元帥、初代空軍参謀長ヴァンデンバーグ元帥など空軍派との確執の中、1949年4月起工後わずか5日で建造中止になった空母『ユナイテッド・ステーツ』と運命を共にしたかのように5月22日自殺したフォレスタル元長官と、朝鮮戦争を経て復活した大型空母の名前、ベトナム戦線、その後の空母の必要性を思ったとき不思議な因縁を感じました。
1962年の写真はインド像の背に乗りジャングルの中を偵察するベトナム軍のパトロール隊や1200人の兵士を率いて戦ったホア神父など。

1956年、ジョン・サドビー(John Sadovy)の「ハンガリー動乱(Upheaval in Hungary)」

1956年10月23日ブダペストで学生、労働者らが支配政党のハンガリー共産党に対しソ連軍撤退、自由選挙要求など改革を掲げたデモ集会に治安部隊が発砲したことををきっかけに起きた『ハンガリー事件(動乱)』。共産党はソ連に応援を頼みソ連軍はブダペストに戦車隊を送りこれに対してハンガリー軍の一部が応戦。
改革派のナジ・イムレを首相とすることでいったん落ち着きを取り戻したかのようにみえた11月4日、ソ連軍は戦車2500台、装甲車1000台の大部隊をハンガリーに送り込みました。手製の火炎瓶などで応戦するハンガリー市民、この動乱では3000人のハンガリー人が犠牲になり、20万人がオーストリアなど西側に亡命しました。
政府に対抗する反乱軍が警察本部を襲撃したときに撮られた写真と、「涙が溢れ出た。3年間戦争に行っていたが、今、眼にしたものは比べものにならないものだった――。」と始まる Life 1956年11月12日号に記されたチェコスロバキア出身のザドビーの話から1950年代からの東欧の動乱をさらに知りたいという思いにかられました。

以前ハンガリーの友人と言語の話をしたときに、ハンガリーではロシア語を習わされた頃もあり古い世代の人たちにはロシア語を話せる人もいると思うがけっして話そうとはしないということを言っていました。

1957年、該当作品なし。

1958年、ポール・ブラック(Paul Bruck)レバノンの市街戦(Lebanon street fighting)。

1959年、マリオ・ビアセッティ(Mario Biasetti)。

1960年、ヤン・スー・クワン(Yung Su Kwan)の「日本の安保闘争(Coverage of Japanese riots)」。

1961年、該当作品なし。

1962年、ピーターとクラゥス・デメル(Peter and Klas Dehmel)「東ベルリンからの脱出(”The Tunnel”:Escape rote from East Berlin)」

以前にインドシナ戦線と報道カメラマンについて少し書いたことがあります。

インドシナ半島におけるベトナム戦争とカンボジア内紛の歴史

地雷を踏んだらサヨウナラから見る激動のインドシナ情勢と戦場カメラマン

1963年はベトナムを撮り続けその後1965年、1971年と3回のキャパ賞を受賞した英国のラリー・バローズ(Larry Burrows)。

ラリー・バローズは1971年2月10日、乗っていた南政府軍のヘリコプターがラオスのホーチミン・ルート上空で北ベトナム軍の37ミリ高射砲の射程距離に入り撃墜され同乗していた1966年のキャパ賞受賞のAPのアンリ・ユエ、UPIのケント・ポッター、フリーランスの嶋元啓三郎とともに殉職しています。

1963年、「ベトナム報道におけるカラー写真(Color Photographs of War in Vietnam)」ナパーム弾の森を焼く色、メコンデルタのどんよりとした色彩、泥まみれの兵士、乾いた泥で灰色になった兵士たちの姿がせまってきます。
1965年、「危機に瀕したヘリコプターの勇敢な乗務員たち(Vietnam War "With a brave crew in a deadly fight”」米海兵隊第163ヘリコプター飛行大隊”ヤンキーパパ13号”に同乗した際の写真。出撃した17機のヘリコプターのうち4機が撃墜されたという激しい戦闘をジェームズ・ファーレイ機長を通して伝えてきます。
1971年、「ベトナム戦争における報道写真(Photojournalistic works covering Vietnam War)」(死後受賞)

ラリー・バローズ、アンリ・ユエの写真は、ホースト・ファース(Horst Faas)とティム・ペイジ(Tim Page)が編集したベトナム・カンボジア・ラオスの戦場に散った報道カメラマンの遺作集「REQUIEM」(1997年キャパ賞受賞)の中にも数多く編集されています。

英国映画「ウェルカム・トゥー・サイゴン(Frankie's House)」はティム・ペイジ(Tim Page)を主役にベトナム戦争と報道カメラマン描いた作品で、ハリウッド俳優エロール・フリン(Errol Flynn )の息子で1970年カンボジア領内で行方を絶ったショーン・フリン(Sean Flynn )をはじめたくさんの報道カメラマンがモデルになっています。

「REQUIEM」の表紙カバー写真は1966年にベトナムのクサン近郊で写されたラリー・バローズの作品。1950年代のフランスによるインドシナ戦争の最盛期から1975年のプノンペン、サイゴン陥落までに死亡・行方不明になった報道カメラマンの数は135人にものぼるといいます。
この写真集をおっていくと自然の豊かだったベトナム、カンボジアが長い戦争の中でどのように変わっていってしまったのか、ベトナム戦争とは何だったのか、恐怖の世界で戦い続けた米軍兵士達にとってベトナムの人々にとってこの戦争がなんだったのかを考えないではいられない気持ちになります。

1964年、ホースト・ファース(Horst Faas)の「ベトナムの戦争(War in Vietnam)」。

1965年、ラリー・バローズ(Larry Burrows)「危機に瀕したヘリコプターの勇敢な乗務員たち(Vietnam War "With a brave crew in a deadly fight”」

1966年、アンリ・ユエ(Henri Huet)の「『負傷したGIの衛生兵』などに見られる白黒写真の迫真の美しさ(Stark beauty of the black and white photographs in Vietnam:Wounded GI medic treating injured buddy)」。
ベトナム戦争の報道写真を観るとき必ず手を止めるページ、足を止めるパネルがあります。それほどアンリ・ユエの写真は危機的な状況を伝える報道写真の中にもどこかあたたかみが伝わってくるような、写真を撮ったときのアンリ・ユエの気持ちが伝わってくるような、印象的なものが多いのです。
キャパ賞を受賞した1966年6月重傷を負いながらも仲間の手当てをする米第1航空騎兵師団のトーマス・コール衛生兵を撮った作品をはじめ1967年の米第1歩兵師団のジェームズ・キャラハン衛生兵、ケサン攻防、Dゾーンで写真は忘れられない写真です。

1967年、デービッド・ダグラス・ダンカン(David Douglas Duncan)「最激戦地:コーン・テェン("Inside the one of Fire at Con Thien")」

1968年はジョン・オルソン(John Olson)コエでの戦闘「戦車の負傷兵」をはじめとする「ベトナムでの緊張や戦闘の様子を迫力をもって伝える一連の写真(A series of battlefield action shots conveying vividly the stress and the struggle taking place in Vietnam)」。

1969年は「プラハの春」を取材した匿名のチェコの写真家ヨゼフ・クーデルカ(Josef Koudelka)「忘れてはならない死("A Death to Remember")」

共産党第一書記ドプチェク掲げた検閲廃止・集会の自由化などの民主化運動「プラハの春」に干渉するために50万のワルシャワ条約機構軍(ソ連や東欧4カ国)がチェコスロバキアの国境を超えてプラハに押し寄せたのが1968年8月20日深夜。ワルシャワ条約機構軍の侵略に抗議するために戦車の前に立ちはだかる市民たち。構えられた銃の前に身をていして抗議する市民。侵攻に抗議して焼身自殺をしたヤン・バラク少年の追悼デモ。わかりにくい東欧情勢を伝える貴重な写真です。

1970年、沢田教一(Kyoichi Sawada)「戦闘で家を失った老人を避難させる若者たち:カンボジア(Cambodia "Two youths helping elderly refugees who lost their homes in battle")」

1971年、ラリー・バローズ(Larry Burrows)、「ベトナム戦争における報道写真(Photojournalistic works covering Vietnam War)」

1972年、クライブ・W・リンプキン(Clive W. Limpkin)「北アイルランド:ボグサイドの戦い("Northern Ireland : The Battle of Bogside")」

1973年、レイモンド・デバルドン(Raymond Depardon)「『チリ』農地改革の進展状況(Special report entitled "Chile" : Progress of agrarian reform)」、チャス・ゲレッセン(Chas Gerretsen)「『チリ』火がつき始めたクーデター(Special report entitled "Chile" : Coup in the making)」、デービッド・バーネット(David Bernett)「『チリ』クーデターの余波(Special report entitled "Chile" : Aftermath of the Coupe)」

1974年、W・ユージン・スミス(W. Eugene Smith)「『水俣:生命―神聖なるものと冒とくするもの』("Minamata. Japan : Life-Sacred and Profane")」

1975年、ダーク・ホルステッド(Dirck Halstead)「共産主義の台頭から脱出をはかるベトナム人(The Vietnamese feeling from the Communist Advance)」

1976年、カトリーヌ・ルロワー(Catherine Leroy)「ベイルートの市街戦(A series in Time on the street fighting in Beirut)」

カトリーヌ・ルロワーはロバート・キャパ賞が創設されてからはじめての女性受賞者。受賞作品といっしょにあったAPなどの海外通信員として3年間ベトナムに滞在していた時にタイム誌に掲載された1967年4月〈881〉の丘の連続写真は生死をわけた二人の海兵隊員と砲撃、枯葉剤、ナパーム弾と焼き尽くされた丘の様子にベトナムの悲惨さが伝わってくる写真です。

1977年、エディ・アダムス(Eddie Adams)「微笑みの消えたボート(Vietnam boat people : "The Boat of No Smile")」

1978年、スーザン・メイセラス(Susan Meiselas)「ニカラグアの戦い(Fighting in Nicaragua)」

1979年、カビ・ゴールスタン(Kaveh Golestan)「イラン革命(Iranian Revolution)」

カビ・ゴールスタンはイラン人です。キャパ賞を受賞したとき、タイム誌はゴールスタンへの危害をおそれてプロフィールを紹介しなかったそうです。「プラハの春」を撮影したヨゼフ・クーデルカ、1985年の南アフリカでのアパルトヘイトを撮影し続けたピーター・マグベイン同様になかにいなければ捉えることが出来ない写真。自国でおこったことを伝えるからこそ伝わってくることもある。そんな気がした写真です。
カビ・ゴールスタン(Kaveh Golestan)氏は2003年4月、イラク北部で地雷を踏み殉死しています。

1980年、スティーブ・マッカリー(Stave McCurry)「アフガニスタン:隠された戦争("Afghanistan-the Hidden War")」

ソ連のアフガン侵攻のはじまる直前のアフガニスタンに潜入し撮影された写真。先日、スティーブ・マッカリーのこの時の回想録と思われる番組が放映されていました。この時の難民の少女の写真がタリバン政権崩壊後、現在の彼女の写真と並べて掲載された新聞や雑誌を目にした人も多いと思います。

1981年、ルディ・フレイ(Rudi Frey)「ポーランドの”連帯”(Solidarity movement in Poland)」

1982年、ハリー・マティソン(Harry Mattison)「エルサルバドルのゲリラ戦(Guerilla warfare in El Salvador)」

1983年、ジェームス・ナックウェイ(James Nachtwey)「レバノン(Lebanon)」

1980年代はじめからのレバノン内戦の主役は1970年にヨルダンを追われてレバノンに入ったパレスチナ解放機構(PLO)と1982年にPLO追放のためにレバノン侵攻をかけたイスラエル。
先日何気なくテレビを観ていてナックウェイの「レバノン(Lebanon)」を思い出させる写真に出会いました。そこに写っていたのは9月11日の米国同時多発テロ後のアフガンの戦士たち。
たくさんの紛争を撮り続けているナックウェイの写真には戦闘よりも非戦闘の戦士たちの姿から紛争を伝えてくるものが多いような気がします。
ナックウェイは翌年「エルサルバドル(Photo of El Salvador)」、1986年「戦争の島](Island at War)」、1994年「南アフリカの選挙暴力(Election Violence in South Africa)」、1998年「狂気への転落(Indonesia: Descent into Madness)」と5回のキャパ賞を受賞しています。

1984年、ジェームス・ナックウェイ(James Nachtwey)「エルサルバドル(Photo of El Salvador)」

1985年、ピーター・マグベイン(Peter Magubane)「『正義の叫び・平和への叫び』南アフリカ("Cry for Justice : Cry for Peace," from South Africa)」

1986年、ジェームス・ナックウェイ(James Nachtwey)「戦争の島(Island at War)」

1987年、ジャネット・ノット(Janet Knott)「民主主義:何の役に立つのか?("Democracy: What Price?")」

1988年、クリス・スティール=パーキンス(Chris Steele Perkins)「『会葬者の恐怖』北アイルランド("Graveside Terror")」

1989年、デビッド・タンリー(David Turnley)「中国とルーマニアの革命("Revolution in China and Romania")」

1990年、ブルース・ヘイリー(Bruce Haley)「ビルマの処刑(Execution in Burma)」

1991年、クリストファー・モーリス(Christopher Morris)「ユーゴスラビアの紛争(Yugoslavia)」

*ボスニア戦争については以前に少し書いたことがあります。
ボスニア戦争の背景

1992年、ルック・ドラエ(Luc Delahaye)「サラエボ:戦闘地域での生活("Sarajevo: Life in the War Zone")」

1993年、ポール・ワトソン(Paul Watson)「モガディシオ(Mogadishu)」

1994年、ジェームス・ナックウェイ(James Nachtwey)「南アフリカの選挙暴力("Election Violence in South Africa")」

1995年、アンソニー・スオウ(Anthony Suau)「ロシアの悪夢("Grozny: Russia's Nightmare")」

1996年、コリーン・ダフカ(Corinne Dufka)「リベリアの民族紛争("Liberia: From a Dead Man's Wallet")」

1997年、ホルスト・ファース/ティム・ページ(Horst Faas and Tim Page)「『レクイエム:ベトナムとインドに散った写真家たち』の出版("Requiem: By the Photographers in Vietnam and Indochina")」

1998年、ジェームス・ナックウェイ(James Nachtwey)「狂気への転落("Indonesia: Descent into Madness")」

1999年、ジョン・スタンマイヤー(John Stanmeyer)「東ティモール・デリの殺戮("The Killing of Bernardino Guterres in Dili, East Timor")」

2000年、クリス・アンダーソン(Chris Anderson)「Desperate Passage」


報道写真展を観ていくと、その写真の裏側にある歴史を知りたいという気持ちになります。写真から受けた印象、そしてなんとなくは知っていてもその奥深くは知らなかった出来事の数々、これから少しずつうめていきたいと思っています。


The Overseas Press Club of America
http://www.opcofamerica.org/

MAGNUM PHOTOS
http://www.magnumphotos.com/

MAGNUM PHOTOS Tokyo
http://magnumphotos.co.jp/

NATIONALGEOGRAPHC.COM  Chris Anderson
http://www.nationalgeographic.com/photography/anderson/qanda.html






 ソマリアの紛争の歴史



 ソマリア民主共和国
  Somali Democratic Republic

  独立―1960年
  国名―ソマリア民主共和国
  面積―637,000平方キロメートル
  人口―939万人(1999)
  首都―モガディシュ(Mogadiscio)(人口約100万人)
  住民―ソマリ族(ハム系のソマリ人)
  言語―ソマリ語(公用語)、アラビア語、英語、イタリア語
  宗教―イスラム教(スンニ派)95%以上





19世紀
単一民族であるソマリ民族はディル、イサク、ダロド、ハウィエ、ディギル、ラハンウィン6つの氏族に分かれ(さらにその下に小氏族からなる支族が続きます)、現在のソマリアからエチオピア東部(オガデン地方)、ジブチ、ケニア北部にまで居住していました。

1885年
エチオピアを近代国家にしようと拡張政策をすすめていたメニリック2世がソマリ族の支配地オガデンに軍事進攻、占領下におきます。

1887年
イエメンを支配しアラビア半島のアデンをインド航路の中継地としていたイギリスは紅海の支配(地中海からスエズ運河を通って紅海を抜けてインド洋に抜ける)をめざし、ソマリアの北部(ソマリランド)を保護領とします。
イギリスに対抗してフランスは、ソマリランドの隣の地方(現在のジブチ共和国)を保護領にします。

1889年
南部をイタリアが保護領(1905年に直接統治下)とし支配します。

1898年
ソマリ族の居住地は植民地政策によりイギリス保護領ソマリランド(現在のソマリア北部)、イタリア領ソマリア(現在のソマリア南部)、イギリス保護領東アフリカ(現在のケニア)、フランス領ソマリランド(現在のジブチ共和国)、エチオピアのオガテン地方の5つに分割され、この後21年間、サイイド・ムハンマドの指導で抵抗運動が続きます。

第二次大戦時、イタリア軍に勝利した英国軍はイタリア領ソマリランドを支配下におきます。英国はエチオピアと協定を結び暫定統治を始めます。

1942年
民族の政治と文化の復興をスローガンにソマリ青年クラブが結成。

1947年
ソマリ青年同盟(SYL)結成。対イタリア民族主義運動が高まります。

1948年
オガデンのジジガ市でソマリ人たちがエチオピア国旗を降ろし、警官隊と闘争、25人が死亡(ジジガ事件)。エチオピアは英国にオガデンを返還するように要求。英国はソマリ族をひとつにまとめる「グレーター・ソマリア」国家の創設を提唱します。

1949年
米国、旧ソ連が英国の植民地維持への懸念を訴えます。
10月、国連決議により旧イタリア領ソマリアの行政権は10年の期限付きでイタリアが行うことになります。

1954年
オガデン地方、エチオピアに返還。
ソマリ青年同盟は民族統一戦線(NUF)を結成、大ソマリア主義のもとに反エチオピア運動を開始。反エチオピア運動弾圧のため、難民がではじめます。

1958年
エチオピアがオガデン地方に居住するソマリ族に税金の支払いを命じます。
ワコ・グツ・ショーセ・セアル・ボーレ氏の指導下に西ソマリア解放戦線(WSLF)が結成。
エリトリアで反エチオピアデモ。弾圧による死傷者500人以上。

1960年6月
6月、北部の英国領ソマリランドが独立。
7月1日、南部のイタリア信託統治領ソマリランドが独立。南北ソマリランドが合併しソマリア共和国(Somalia Republic)として独立。
ソマリ青年同盟(SYL)のアフディ・ラシド・マリ・シルマルケ連合政権が成立します。

1961年
3月、エリトリア解放戦線(ELF)が武力闘争開始。
6月、ソマリア共和国憲法が国民投票にかけられ複数政党制による国民議会を構成。
7月、アデン・アフドラ・オスマン氏が初代大統領に就任、分割され植民地化されたジブチやオガデン地方、ケニア北東部のソマリ民族居住地域も併合し、ソマリア民族を一つの国のもとにまとめようとする「大ソマリア主義」を提唱。武力衝突がはじまります。

1962年
11月、エチオピア軍とエリトリア解放戦線(ELF)の攻撃で1万4千人のエリトリア人難民がスーダンに流出。その後エチオピア軍とエリトリア解放戦線(ELF)・エリトリア人民解放戦線(EPLF)の本格的な戦闘によって70万人の難民がスーダンに逃れます。

1963年
エチオピアのハイレ・セラシエ皇帝がオガデンに一個師団の兵力を派遣。
税金の支払いを拒否したソマリ族をエチオピア軍が虐殺。WSLFは武力闘争を開始します。
ケニア北部のソマリ族も独立を要求。武力闘争を開始します。

1964年
エチオピア軍がソマリア領に侵攻。
アメリカの軍事的支援を受けるエチオピアに対抗するため、ソ連と友好条約を結び支援を受ける。
ソ連は西ソマリア解放戦線(WSLF)、エリトリア人民解放戦線(EPLF)、ケニア北部のソマリ族などの独立運動を支援。

1967年
オスマン大統領に代わりシェルマルケ氏が大統領に就任。

1969年
シェルマルケ大統領は「大ソマリア主義」を後退させ周辺国との関係を改善して行きますが、国民の不満が高まり10月クーデターにより暗殺されます。
シアド・バレ少将が率いる最高革命評議会が政権を握り、パレ氏が議長に就任(80年に大統領に就任)。国名をソマリア民主共和国(Somalia Democratic Republic)に。
新軍事政権は大ソマリア主義よりも内政のたてなおしに重点をおいたため、WSLFは支援を失いワコ・グツ・ショーセ・セアル・ボーレはエチオピア軍に投降。

1974年
エチオピアでクーデターが起き、ハイレ・セラシエ皇帝は逮捕され政局が混乱。軍事政権が樹立。 革命後のエチオピアは社会主義色を強めます。

1974年、75年と大干ばつがおこり経済不安がたかまります。

1975年
エチオピアの北部エリトリアでエリトリア人民解放戦線(EPLF)の活動が活発化。
ソマリア政府は再びWSLFの支援を始めます。

1976年
ソマリア社会主義革命党が設立。バレ議長が党書記長に就任。

1977〜78年
エチオピア東南部のディレダワで、西ソマリア解放戦線(WSLF)が鉄道を爆破。
エチオピアとのオガデンをめぐる紛争が起こります。
キューバは実戦部隊をエチオピアに派遣(1977年)、WSLFとの戦闘に突入。
米国はエチオピア社会主義政権の反政府分子弾圧を理由に武器輸出を凍結。
ソ連がエチオピアへの軍事支援を開始。
ソ連をはじめとする東側社会主義国はエチオピア側を支持支援。
ソマリアはソ連の外交官、技術者約3000人を国外追放。
ソ連との友好条約を破棄しアメリカに支援を呼びかけます(ベルベラの海・空軍基地の使用を認め、1984年に軍事条約を締結)。
77年6月、ソマリアがわからの大規模な侵攻、77年末まではソマリア軍の攻勢が続きます。
78年に入りエチオピアはソ連からの武器の大量輸送を受けて戦局は逆転します。
エチオピア軍とその同盟軍(ソ連、キューバなど)の戦車による砲撃、空からの爆撃と機銃掃射、水源の占領などによりオガデンからの難民が多数流出。
2月、ソマリアはエチオピアとのオガデンをめぐる紛争で敗北(オガデン紛争)します。

1979年
8月、難民の数が28万人を超える(月間3〜4万人)。84年には70万人を超えます。

1980年
1月バレ議長が党書記長が大統領に就任。
パレ政権は社会主義国家建設を目指し、大ソマリア主義を推進しながらも出身氏族のダロド族を優遇する独裁政権だったため他氏族の反感が高まります。
政治・経済の中心が南部にある首都モガディシュに一極集中しているため、北部では中央政府への不満もたかまっていきます。

1988年
4月、エチオピアと外交関係再開。
5月、北部でソマリ国民運動(SNM)モガディシュでは統一ソマリ会議(USC)が反政府武力闘争を開始。バレ大統領退陣と民主選挙を要求し、治安部隊を投入した政府軍との闘争が激化。

1989年
7月、首都で暴動発生。バレ政権は急激に弱体化。

1991年
ソ連崩壊により、米国からの経済援助が変化。
内戦による極度の治安悪化と干ばつにより中・南部を中心に深刻な飢餓が発生。
国連は被災民援助を行う国連ソマリア活動(UNOSOM)を派遣。
1月、統一ソマリア会議(USC)が首都を制圧し、アリ・マハディ・モハメド氏が暫定大統領に就任。バレは首都を追われます。
6月、北部はソマリ国民運動(SNM)が「ソマリランド共和国」として、独立を宣言。
統一ソマリア会議(USC)がモハメド大統領派とアイディード将軍派に対立し分裂、内戦が激化。
12月、アイディード派の攻撃で首都を脱出したモハメドは国連平和維持活動(PKO)部隊派遣を求めます。

1992年
アイディード派は武装勢力4派でソマリア国民同盟(SNA)を結成、モハメド派も11派を傘下に入れ内戦は激化。
4月、国連安全保障理事会はPKOの国連ソマリア活動(UNOSOM)設置を決議。
12月、国連ソマリア活動(UNOSOM)支援のため武力を強化した多国籍軍派遣を決議。米海兵隊を主力とするの統一タスク・フォース(UNITAF)を結成します(米軍海兵隊を中心にオーストリア、ベルギー、フランス、イタリアなど23カ国、38000人)。

1993年
統一タスク・フォース(UNITAF)の活動によりソマリアへの援助活動が安定してきます。
4月、統一タスク・フォース(UNITAF)に代わり、状況の保持・難民帰還などを目的として、国連史上初の武力行使を認めた平和執行部隊、第2次国連ソマリア活動(UNOSOM II)を派遣(軍人28000人、警察2800人)。
5月、UNOSOM IIとアイディード将軍派を中心とする現地武装勢力との間で、武力衝突が展開(国連側兵士8人が犠牲)。
6月5日、アイディード派の攻撃により国連パキスタン兵25人が死亡、10人が行方不明、54人が負傷。
6月12日、UNOSOM IIはアイディード将軍捕縛命令を出し、市内パトロールを強化、軍事行動を開始します。
7月12日、国連軍はアイディード派の部族会議会場をヘリコプターで襲撃(対戦車ミサイル攻撃)。部族の長老をはじめ死者は約50人、負傷者200人以上の被害をだしソマリア人の間の反米感情が高揚していきます。
その後、取材にかけつけたジャーナリスト4人が犠牲になる事件がおきます。
9月25日、ブラックホークが1機撃墜されます。
10月3日、首都モガディシオでアイディードの本拠地を襲撃した米特殊部隊はブラックホークを2機撃墜され、死者18人、負傷者70人以上の被害を出します(ソマリ人の死者は500〜1000人)。

1994年
3月、紛争当事者間による和平合意(停戦及び新大統領選出成立)が成立。戦闘は継続。
第二次国連ソマリア活動(UNOSOM II)より米軍撤退。
11月国連安保理はUNOSOM IIの完全撤退を決議。国連軍側の犠牲者は130人以上。国連軍兵士の市民に対する残虐行為の報道などもされます。

1995年
1月、バレ前大統領、逃亡先のナイジェリアで死去。
3月、第2次国連ソマリア活動完全撤退。
ソマリアPKOでは130人以上の要員が犠牲になりました。
3月、アディード将軍とその有力なメンバーだったアリ・アトが対立し分裂。
アリ・アト派、モハメド派、武装勢力13派などが協力関係を結び、これに対しアイディード将軍派が宣戦布告。

1996年
8月、砲弾による負傷でモガディシュの病院に入院していたアイディード将軍が死亡。
米国の海軍出身の三男、フセイン・アイディードが後継者となります。

1997年
1月、エチオピアで武装26派が会議を開き、救国評議会(NSC)を結成。
12月、内戦終結へアト派とアイディード派が調印。
エジプトでモハメッド派とアイディード派が和平基本合意文書に調印。

1998年
2月、モハメド、フセイン・アイディード、アトの3人による和平協議は、アイディードが提示された条件を拒否したため中止。
3月、モハメド派とフセイン・アイディード派は、2つにかれていた首都の行政(空港、港を含む)を単一の組織で行なうことに合意します。
7月、北西部の氏族の一部が「プントランド」として自治を宣言。

2000年
8月、ア ブドゥルカシム・サラ・ハッサン氏が暫定大統領に選出され、暫定政府が発足。
北部ソマリランド、プントランドを含む対立各派は同暫定政府を批判、対立勢力による武力衝突は続いていきます。


これはソマリアのおおまかな紛争の歴史ですが、近隣のエリトリア、ケニア、エジプト、影響をあたえた英国やイタリアの植民地時代、冷戦時代の影響など、読んでいくとアフリカの事って本当に知らないなぁと実感します。ソマリアも含めて時間があったらもっと調べてみたいなと思っています。

Yahoo Somalia News
http://dailynews.yahoo.com/fc/World/Somalia/

United Nations Home Page
http://www.un.org/english/index.shtml

African Studies Center
http://www.sas.upenn.edu/

United Nations and Somalia
http://www.un.org/peace/africa/pdf/SOMALIA.pdf

SomaliNet
http://somalinet.com/

History of Somalia
http://www.countryreports.org/history//somohist.htm

TIME.com
http://www.time.com/



ブラックホーク・ダウン
   BLACK HAWK DOWN


☆ 映画を観て思ったことですが、感想や批評とは少し違うかと思います。

バカラマーケットと呼ばれるモガディシュ最大の市場から100メートルほどの場所に、今もブラックホークの残骸はサボテンにかこまれ静かに眠っているとといいます。

1993年当時9歳だったわたしには当然ソマリアのニュースを目にした記憶はありませんが、CNNやAPを通じて映像または活字でつたえられたこのニュース、当時日本人でソマリアのことに目を留めた人はどれほどいたのでしょうか?

最初に書いたように、わたしがこの映画「ブラックホーク・ダウン」の重大なワンシーンを知ったのはちょうど1年ほど前のロバート・キャパ賞展でポール・ワトソンの「モガディシオ」を観たときでした。狂気と歓喜と憎悪が伝わってくる数枚のパネル写真。何かすごく気持ちが悪い.......。リドリー・スコット監督の映画「ブラックホーク・ダウン」を観て、マーク・ボウデンの原作「ブラックホーク・ダウン ―アメリカ最強特殊部隊の戦闘記録―」(強襲部隊)を読み、ソマリアの歴史を見ていくと、その時感じた気持ちの悪さの正体がなんとなく見えてきたのでした。


昨年、リドリー・スコット監督が1993年のソマリアでの米軍特殊部隊の姿を描いた「強襲部隊」を映画化してるという話を聞いてポール・ワトソンの「モガディシオ」を思い出し、公開を心待ちにしていました。そんな時、9月11日の米国同時多発テロが起き、アフガン空爆が展開され、その中でソマリアの名前が聞かれるようになりその展開がとても気になるとともに、こんな中で公開されるこの作品を観に行くのがちょっと不安でもありました。

この映画はソマリアのこと、ソマリア人のことをうんたら考えてみていたら、この映画自体のもつ面白さが半減どころか消滅してしまう、そんな作品のような気がします。

アメリカ最強特殊部隊といえるデルタ・フォースと、精練された陸軍レンジャー部隊。その予備軍たる若きレンジャーたちからなる構成。

観ていて感じることは、画面から伝わってくるのはほとんどが若きレンジャーたちの目で観た、そして感じた15時間の戦闘なのだろうということ。そう思って観ていると自分も「アイリーン作戦」にかりだされた兵士のような気分になってその混乱の中に迷いこんでしまいます。画面から流れてくる映像が、その場にいるものの目線のような感じだからでしょうか。伝わってくる音響からその混乱がわかるような気がするからでしょうか。

マーク・ボウデンの原作の「強襲部隊」は、ジャーナリストとしてのマーク・ボウデンが取材した10月3日の作戦で生き残ったレンジャーたちから聞き出せたその日の事、文書として残っている事実、関係者から少しずつもれてきた話、ソマリアでの7日間滞在で現地の人から聞いたその日の事などを忠実に組み立てて15時間にわたる戦闘を事実に基づき書き上げたものだと思います。

デルタ・フォースからはその任務の特殊性から伝わってくることは少なかったと思うし、ソマリア人から聞き出せたことにも限りがある。だからきっと、この語り手は若きレンジャーたちの目。

彼らは自分たちが行ったこと、感じたこと考えたこと、思っていたこと、自分たちが見たこと、見えたことを語り、作り手はそれを臨場感をもってわたしたちに伝えた。

ひとむかし前の旧ソ連から入ってきた武器と米国製の武器を使うソマリ族の民兵、最新鋭の装備や武器とブラックホークをあやつる米特殊部隊、市街戦の激しさ。市街戦では、ひとつの作戦のつまずきが大混乱を起こす。(このソマリアでの失敗から地上戦への取り組みが慎重になったとも聞きます。徹底的に空爆をかさねてから地上部隊を送り込む。それでも犠牲者は出ています)

いちばん印象的なのはなんといっても、米軍兵士たちの目にはソマリア人が映っていない。ソマリア人の姿が人間の姿としてはっきりと映ってこないところに、米軍兵士たちの心があらわれているような気がします。

もしかしたら最初からソマリア人の人としての本当の姿を見ていなかったのかもしれません。それが失敗するはずのない作戦のつまずきからおきた混乱と思いもかけない苦戦と恐怖の中で、さらに見えなくなる。言葉も通じないし。最初から自分たちよりはるかに下の民族だときめつけている。

飲酒を禁じるイスラム教徒たちは覚せい作用のあるチャツの葉などを嗜好品として愛用する。それらを表現する彼らの話は、ある意味、夜中の繁華街で見かけるお酒を飲んで気持ちが大きくなったり大らかになったりしてテンション高く酔いをたのしんでいる大人たちを初めて見た時の子供の視点とちょっと似ている。

実話をベースに彼らに見えていなかったこと、見えなかったことなどの脚色をつけたりせずに、”米軍特殊部隊の行ったことだけ”をほぼ忠実に、その作戦にかりだされた兵士たちの勇気と真実を伝えているいい作品だなって思う。彼らの戦いは少しの脚色をのぞいては事実だし、だれにも否定はできない。ソマリア人の死傷者数と米軍の被害が最後に出る。これにはいろいろ思うところもあるけれど、ソマリア人たちは自国に攻めて来た米軍を追い返すために命をいとわずに戦ったともいえるし、米軍特殊部隊は現場にいた100人のうち18人が死亡した。重傷者も多数で身体機能を失ったものもいる。優れた武器と装備と精神力、医療のちからがなければ、その被害はさらに増大していたかもしれない。

過去の戦争からうまれた「生死にかかわらず決して仲間を置き去りにしない」という成文規約。

シナリオ通りにいかなかった作戦を最後まで遂行し、自分たちのしなければいけない使命を遂行し戦い抜いた、特殊部隊というエリート部隊を描くことによって、伝えられたこと、伝えられなかったことを観た側それぞれがうけとめる。映画の描かれ方に釈然としない気持ちをもった人は原作を読む。するとソマリア人が少し見えてくる。そこから先は観た人が考える。

それがこの映画「ブラックホークダウン」なんだなぁと........わたしは思ったのでした。


武力行使をする任務で紛争地へ赴くということは、ゆらぎない大義名分(たとえその認識がまちがっていたとしても)をかかげ、その目的を達成させることをすべての理想として、自分たちは正義なのだ正義のために行う行動に間違いはないという信念をもつことでしょうか。

厳しい訓練と適性をもとめられてきた彼らの信念は有事には必要なものなのかもしれません。



彼らには何が見えていなかったのか?

大国、文明国という大きなかさの中にあって、自分たちがどこで何をしようとしていて、それをその国の人たちがどう感じどう思っていたのか.........

さらには、その国の人々にも家族があり友人がいて感情があって自分たちよりも長い民俗の歴史や文化宗教観があることに対しての認識に少しあやまりがあったのではないか。

新大陸に渡ってきた先人が先住の人々の宗教観や文字を持たないことや彼らの言語、生活、習慣を理解しようとせず、その長い民俗の文化や文明を見ようともせずに、未開の野蛮な民ときめつけるかのように追ったように。自分たちの信じる文明をおしつけたのと少し似ている。

かたちは違ってもベトナムのときのように、小競り合いの中でソマリア人が犠牲になっていくたびにソマリア人の中にも少しずつ反米感情がわきたってきて、そして7月12日の作戦でのソマリア人の犠牲で火がついた。10月3日の長い戦い、アイディード派の民兵どころかソマリア人すべてを敵にまわしたかのような戦いの根底にはそんな憎悪がうずまいている。ポール・ワトソンの「モガディシオ」を観たときの気味の悪さはこの憎悪なのだと思った。

7月12日のアイディード派の部族会議会場をヘリコプターで襲撃し多数の死傷者を出した現場を取材するために集まったジャーナリスト4人が犠牲になる事件がおきて報道関係者のほとんどはモガディシオから避難していたそうです。トロント・スターのポール・ワトソンは北米系の記者としてはただひとり現地にのこり10月のソマリア市民の様子をカメラにおさめキャパ賞、ピュリツァー賞などを受賞しています。


CNN.com
*1993年10月3日の作戦に参加したKeni Thomas(チョーク3)の2001年CNNのインタビュー
http://www.cnn.com/2001/US/10/27/ret.thomas.somalia.cnna/

African_Studies/
*1994年12月、Paul Watsonのソマリアからのレポート
http://www.sas.upenn.edu/African_Studies/Newsletters/SNU_28.html<

CIA--The World Factbook--Somalia
http://www.cia.gov/cia/publications/factbook/geos/so.html

Guardian Unlimited
http://www.guardian.co.uk/



*参考文献、参考サイトなどはpromenadeのページへ
promenade


2002.4.26
ADU
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