内戦・紛争・その他
市街地が戦場と化したボスニア戦争では、子供を含めてたくさんの民間人が犠牲になりました。生活自体が危険にさらされても、他の土地に移ることができず犠牲になっていく人たち、町が崩壊し難民となっていく人たち。昨日まで、隣同士で暮らしていた人たち、婚姻によって親族となっていた人たちが民族の違いというだけで、敵同士となり戦った戦争です。
ボスニア戦争の背景
ユーゴスラビアそしてボスニア・ヘルツェゴビナは、ムスリム人、クロアチア人、セルビア人、スロベニア人、マケドニア人さらに少数民族が暮す民族混合地域です。
この複合民族地帯はその民族の多様性、相違だけではなくラテン語、ギリシャ語など言語の違い、クロアチア、スロベニアのカトリック教徒、セルビアの東方正教徒など、さらにイスラム教徒など宗教の違い、異なる文化、歴史をもった民族で構成されています。
ボスニア戦争の根底にある民族紛争の火種ははるかむかし...........
395年、テオドシウス1世の死後ローマ帝国は二分されます。その結果、ラテン語を話す西ローマ帝国は現在のクロアチア、スロベニア、ボスニアを支配下に置き、ギリシャ語を話すビザンチン帝国は現在のマケドニア、モンテネグロ、セルビアを支配下に置くことになり、バルカン半島に住むスラブ系諸民族は分断されます。
1463年、オスマン・トルコがボスニアを征服し、さらに1482年にヘルツェゴビナを征服したことによって、この二つを合体させたとこからバルカン半島の民族紛争の歴史がはじまりました。
1700年、オーストリアのハプスブルク家がクロアチア、スロベニアを支配しカトリックでラテン文字を使う北の民族と、オスマン・トルコ領として支配を受け東方正教会でキリル文字を使うセルビアなど南の民族に分裂します。
1878年、ロシア・トルコ間の戦争が終結し、サン・ステファノ条約が結ばれてセルビアは独立を達成します。トルコ軍と戦ったセルビアは、スロバニアとクロアチアを併合して統一スラブ国家を実現しようとしますが、オーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク家)は領土の割壌を拒否し、バルカン半島の利権に関するロシア・ドイツ間の合意に基づいて、ボスニアとヘルツェゴビナも支配下に置きます。セルビア王ミラン・オブレノビッチには、オーストリア=ハンガリー帝国に抵抗できる力はなく行政下に置かれることとなり1908年には併合されます。
1912年には、第一次バルカン戦争が勃発。バルカン同盟4国(ブルガリア、セルビア、モンテネグロ、ギリ シア)が勝利。翌年第二次バルカン戦争では、マケドニアがセルビアとギリシアに割譲されることとなりセルビアにマケドニア人が入ってきました。
1914年年、オーストリア=ハンガリー帝国による併合を根に悪感情をもっていたボスニア在住「青年ボスニア党」のセルビア青年がオーストリア皇太子夫妻を暗殺したのがきっかけになり、オーストリア・ハンガリー帝国はセルビアを非難し宣戦布告をしたことにより第一次世界大戦がはじまります。この大戦でセルビアでは人口の4分の1近くが戦死しています。
1918年第一次大戦終結後、オーストリア=ハンガリー帝国が解体にともなってセルビア・クロアチア・スロベニア連合王国の成立が宣言され、北部と南部が統合されボスニアもこれに加わりました。
1929年独裁を行っていたセルビア国王アレクサンダルは、この多民族王国の国名をユーゴスラビア王国とし領内の民族主義的な動きを弾圧しますが、クロアチア分離主義者の抵抗にあいます。
1934年アレクサンダルがマルセイユでマケドニア分離主義者によって暗殺されると、首相は極右クロアチア人と協力し親ナチ外交政策を展開していきます。
1939年第二次世界大戦が勃発し、41年ドイツはユーゴスラビア王国を占領。クロアチアのファシスト運動家ウスタシャが「クロアチア独立国」を宣言しボスニア・ヘルツェゴビナを合併しユーゴスラビア王国は降伏ました。
7月、ドイツ軍のソ連侵攻を機にユーゴスラビア共産党が武装蜂起(パルチザン軍)。
1941年、ユーゴスラビアはドイツに敗北。クロアチア独立国のファシスト傀儡政権はナチスのホロコーストを受けてユダヤ人、ジプシー等とともにセルビア人をも根絶させようとして、この地域で50万人以上を殺害、その内35万人がセルビア人だったと言われています。また、ユーゴのパルチザンも、ナチス・ドイツに加担するクロアチア人を容赦なく殺害し、その犠牲者は10万人と言われます。
1945年第二次大戦が終結し、パルチザンの指導者ユーゴスラビア共産党書記長ヨシプ・ブロツ・チトーが指揮をとり社会主義に移行、ユーゴスラビア連邦人民共和国が建国されます。連邦を構成する共和国の一つとしてボスニア・ヘルツェゴヴィナ人民共和国が成立。クロアチア人のチトーは、そのカリスマ性でセルビア・クロアチア間の対立を迎えることに成功します。
この間、セルビア人、クロアチア人は互いに隣り合って平和な暮らしを続け、婚姻による親族としてのつながりもできていました。
1980年にチトーが死去すると、分離主義の動きが再燃。翌年からアルバニア人居住地区のコソボ自治州で、セルビア人とアルバニア人との対立が深刻化していきます。
1986年セルビア民族主義派のミロシェヴィッチが、セルビア党議長に選出され、1989年クロアチア民主同盟が結成されます。東ヨーロッパで共産政権が次々と崩壊すると、1990年にはユーゴスラビア共産党組織も崩壊し、セルビア人、ムスリム人、クロアチア人の3民族政党がそれぞれの代表を選出して、独立を目指すようになります。
1991年、
4月、クロアチア共和国の首都ザグレブでマルチン・シュペゲリ国防相を弾圧する軍事裁判が開かれことをうけてザグレブ市民が軍事裁判阻止のデモを敢行。カラシニコフ自動小銃や防弾ベストなど重装備のクロアチア内務省の治安警察軍とデモ隊の衝突がおきます(ザグレブ事件)。
町には、中央にクロアチアの紋章をあしらった赤、白、青の三色旗(共和国旗)がひるがえり、『レェパ・ナーシャ・ドモビナ(美しき我が祖国)』のクロアチア国歌が歌われ軍事裁判所の窓ガラスが破壊され「シュペゲリは渡さないぞ」「セルビアへ帰れ」「赤いギャング」「軍事独裁反対」「武器をとるぞ」「独立クロアチア万歳」という叫びとともに、反セルビア感情が頂点に達していきます。
(この様子は、映画の中でもユーゴスラビア作品『ブコバルに手紙は届かない』、セルビア作品『ボスニア』の中でも再現されていました。)
このザグレブ事件は、
25000〜30000人の兵力にふくれあがってきたクロアチア治安警察軍が共和国軍として台頭してこないうちに、その中心人物であるクロアチア共和国のシュペゲリ国防相を「武装内乱罪」(90年10月にハンガリーなどから、カラシニコフ自動小銃二万丁と弾薬二〇〇万発などを密輸したことに対して)の容疑で軍事法廷で裁こうとするセルビア共和国と、共和国軍を結成し独立を目指そうとしているクロアチアのの動きが表面化した争いともいえます。
この衝突を機に、一気に民族紛争に拍車がかかり、独立を目指すクロアチア、スロベニアとセルビアの対立が深まり、ユーゴ解体とすすんでいきます。
この紛争の中でとくに政治的に利用されたのが、クロアチア共和国内に居住する約60万人のセルビア人の孤立感、危機感であったといわれています。
連邦軍と戦いを交えた、クロアチアとスロベニアですが、スロベニアは国境を接しているわけでも、国内に相当数のセルビア系住民を抱えているわけでもありませんが、クロアチアには、独立に反対する多数のセルビア系住民が住んでいたことから悲惨な戦いが続きました。
6月クロアチアとスロべニアが連邦からの離脱、独立を宣言。それに反対する連邦軍(セルビア人勢力が中心.......連邦軍はセルビア人勢力を矢面に出し、正規連邦軍を温存していたとも言われています)が戦車隊などを派遣し、戦争が勃発。
9月には、セルビア人の保護を掲げる、ユーゴスラビ ア連邦人民軍とクロアチア軍の内戦が激化しますが、10月にはセルビア政府が、ボスニア ・ヘルツェゴヴィナのセルビア人地域を併合し、新ユーゴスラビア建設を目指すと宣言します。
1992年1月ECが、クロアチア共和国の独立を承認したことにより、ユーゴスラビアは事実上解体し、3月、ボスニ ア共和国で国民投票が行われ、ムスリム人、クロアチア人の多数賛成により独立を宣言。4月、セルビア人勢力はこれに対し、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国からの独立を宣言。モンテネグロとセルビア共和国を合わせ新ユーゴ(ユーゴスラビア連邦共和国)を樹立すると宣言。6月、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は、「戦争状態」突入を宣言しボスニア戦争の勃発となります。
それぞれの勢力は死闘を繰り返す中で、民族浄化、強制収容所、近代戦争の犯罪を次々と犯し、20万の犠牲者、数百万の難民が生じています。1995年、NATOと国連軍(アメリガ軍)が本格的に介入を始 め、12月ボスニア和平合意(ディトン合意)が正式に調印されました。
内戦、紛争などについてはまだまだ未完成です、機会があるごとに少しずつ調べて補足をしたり修正をしていきたいと思っています。
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