インドシナ半島におけるベトナム戦争と
カンボジア内紛の歴史

第二次世界大戦下、ドイツの支配下に置かれたフランスはカンボジアから撤退しますが、連合軍の攻勢でパリ奪還、開放されると再びフランスはカンボジアに戻ってきます。1945年に独立をはたしたカンボジアはさらなる戦乱に巻き込まれ300万人ともいわれる虐殺の犠牲がはらわれました。

1960年代ケネディー大統領によってはじめられたベトナム戦争は、インドシナ半島全域をアメリカ・イギリス・フランス・中国・ソ連の介入によってくりひろげられましたが、CIAがカンボジアに介入したことで、ベトナムからカンボジアへと戦争の残虐さが拡大されていきました。1973年1月に調印された「ベトナム戦争終結に関するパリ和平協定」の直後2月から8月までの半年にわたって、カンボジア全土が米軍によって爆撃されました。

カンボジア戦線では、世界の大国からの軍事投入や兵器投入があったといわれます。

カンボジア全土に埋め込まれた地雷はイギリスの特殊工作部隊 SASが、ポル・ポト派に敷設技術を指導して敷設したもので、容易には撤去できないものとなっているといわれます。

今もなお、カンボジアにはたくさんの地雷と不発弾が埋まっています
カンボジアに埋められている地雷は、200万から400万個、「カンボジアの子供一人あたり2個の地雷」とも言われています。また対戦車砲などの不発弾、アメリカ軍により大量に投下された不発弾が無数に散らばっているといわれています

ベトナム戦争当時、アメリカによる激しい爆撃は、南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が南部戦線への補給の為に通過したといわれる「ホーチミンルート」を中心にシェムリ・アップ、バッタンバンなどの西北部の都市などにも行われました。この時期投下された爆弾の15%程度が不発弾として着弾したといわれています。

またタイをベースとしていたアメリカ爆撃機が、ベトナムに爆弾を投下した帰還の途中、低空でカンボジアを通過し、余った爆弾をカンボジアに棄てて帰ったという記載もあります。米軍の爆弾で、ボール型の地雷を無数に詰めた爆弾は、投下後に上空にて爆発し、内部の地雷が上空にて飛散、地上に到達するまでの間の回転し、信管がセットされる仕組みとなっていました。この爆弾を低空で放棄した場合、信管が完全にセットされない内に、地上にこのボール型地雷が到達する可能性が高く、それがなんらかの形で信管が漸次セットされ、ある日、突然、爆発することが考えられるそうです。(子供たちがキャッチボールの球として遊んでいるうちに爆発をしたとう話もあります。

スウェーデン、ベルギー、フランス、ドイツ、中国、ソ連などから攻撃用ヘリコプター、TM、T55戦車、ミグ21戦闘機、西ドイツ製80ミリ対戦車無反動砲のアームブラスト300、フランス製89ミリSTRIMロケット発射筒、軍用トラック、装甲兵員輸送車などの供給があったといわれています。

クメール・ルージュ(フランス語)は毛沢東を信奉する共産主義者で、毛沢東が中国革命で行ったように、地主や金持ちは殺し、銀行を廃止。それまでの教育を受けたもの、特に高学歴者は資本主義に染まっている可能性があるので処刑するという徹底的な共産革命によってカンボジアをつくりかえようとした。その結果プノンペンでの300万人にもおよぶ大虐殺とつながっていった。(共産革命にともなう非人道的惨劇はロシア革命の3000万人、中国革命の6000万人が有名 カンボジアではほとんどの知識人がポル・ボト時代に抹殺されました)



カンボジアはインドシナ半島の中央部に位置し、メコン川がつくる広大な盆地とトンレサップ湖からなる 平野部が中心。南東は丘陵で、雨季と乾季に分かれます。
クメール族が大半で、チャム族など約36の少数民族、ベトナム人、中国人などが混在し、仏教が大多数、少数のカトリック、イスラム教 徒がいます。主要言語はクメール語。

2世紀の頃,メコン川の下流域にインド文明の影響を受けた扶南朝が起こりました。7世紀に属国クメール族のカンブジャが扶南を倒し、9世紀から13世紀にかけて壮大な アンコール文明を築きました。タイの侵略により1434年アンコールの都を放棄し、その後タイ、ベトナムの支配を受け1863年フランスの保護領となります。

ベトナムはインドシナ半島東側に位置する。北部は高原地帯,中部は海岸沿いにわずかに平野が走り、南部は広大なメコンデルタ。 高地を除くと熱帯モンスーン気候です。
ベトナム人(キン族)90%,中国系3%などで、仏教、儒教、道教、ホアハオ教、カオダイ教、カトリック と宗教が混在しています。主要言語はベトナム語 。中国の支配からのがれ、939年ベトナム人による王朝がおこります。


1884年

 新保護条約にともないフランスがカンボジアを実質的支配下におきます


1887年

 カンボジアをフランス領インドシナ連邦内におきます


1885年

 ベトナムは天津条約でフランスの植民地となります


1920年

 ベトナムではホー・チ・ミンの指導下で共産主義運動が発展していきます


1930年

 インドシナ共産党が創立されます


1940年

 第二次世界大戦下、日本軍がベトナムに進駐します


1941年

 インドシナ共産党の呼びかけで、日本・フランス・ファシスト帝国打倒」を目標に抗仏軍べトミン(後のベトコン)を結成。
7月には 日本軍がカンボジアに進駐。19歳のシアヌーク殿下が国王となります。
ベトナムは独立同盟を組織して対仏,対日運動を展開していきます


1945年

 3月、日本軍が全インドシナでフランス勢力を駆逐します。
カンボジアでは日本軍の支援によってシアヌーク国王が独立を宣言します。
連合軍のフランス開放後フランス軍勢力が再びカンボジアに復帰します。
ベトナムはホー・チ・ミンの主導で独立を宣言します


1946年

 ベトナムとフランスとの間に第一次インドシナ戦争が起こります


1950年

 ホー・チー・ミン、ベトナム民主共和国の独立を宣言。中国、ソ連がこれを承認。アメリカはサイゴンに経済施設団を置きインドシナに対して武器援助をはじめます
6月に朝鮮戦争勃発。


1951年

 インドシナ共産党から分党して、クメール人民革命党が創立されます


1953年

 カンボジアがフランスから独立、クメール・イサラク左派(インドシナ共産党、カンボジア臨時地方委員会)は、べトミンの支援を受けて武装闘争を継続します。


1954年

 5月 フランス軍の降伏によってフランス植民地支配が終わりを告げます。
7月ジュネーブ国際会議で ベトナムは北緯17度の軍事境界線で2分されますが、その際「インドシナ平和回復に関するジュネーブ会議の最終宣言(2年以内にベトナムの総選挙を実施する)」という協定文書に北ベトナム、カンプチア、ラオス、フランス、イギリス、ソ連、中国は著名、これに対してアメリカとバオダイ政権の南ベトナムは著名を拒否しました。カンボジア王国独立は国際会議で承認され、人民革命党の指導者の多くは北ベトナムに亡命しました。
ゴ・ジン・ジェム政権に変わった南ベトナムはアメリカの支援を受けて、反共産政策を行なっていきます。


1955年

 米軍事顧問団がベトナム軍の軍事訓練を開始


1956年

 北ベトナム(ベトコン)は2年以内の総選挙が実施されないため、武力解放に踏み切ります。これをソ連・中国が支援します


1958年

 フランス、ド・ゴール大統領就任


1959年

 北ベトナム労働党、南部武力解放戦線を決定


1960年

 カンボジアは9月クメール人民革命党第2回大会でポル・ポトが中央党常任委員、イエン・サリが中央 委員に任命されます。ベトナムでは12月南ベトナム解放民族戦線が結成され, 反政府闘争を始めた


1961年

 米、ケネディ大統領就任。
11月米軍軍事要員200人、爆撃機8機、輸送機4機サイゴンに入る。
12月米軍軍事要員400人、ヘリコプター40機、練習機15機がサイゴン入り。


1962年

 米軍、サイゴンに南ベトナム軍事援助司令部を設置。ソ連・中国はアメリカのベトナムに対する軍事介入を非難。
8月クメール人民革命党トゥー・サムット書記長が暗殺され、ポル・ポトが党員約20名を集めプノンペンで臨時党大会を開き、党をカンプチア共産党(クメール・ルージュ)とし書記長に就任します


1963年

 シアヌーク殿下が「赤狩り」を開始します。サイゴンでカン・ドク師が抗議の焼身自殺をする。南ベトナムの仏教徒1万5000人が抗議のデモを行う。アメリカは南ベトナムの仏教徒弾圧を非難。
中国、周恩来首相の説得により、後の赤いクメール政権の中心人物であるポル・ボト、イエン・サリらは地下に潜行します。
11月ケネディ大統領ダラスで暗殺されます。


1964年

 3月、南ベトナム空軍機と装甲車がカンボジアを襲撃30人が死傷。
5月には米航空機輸送船カード号15000トンはサイゴンで爆弾を仕掛けられ沈没する。フランスに変わって介入してきたアメリカは8月、トンキン湾事件(米軍艦が魚雷攻撃をうける)を口実に北爆を開始(北ベトナムは米軍艦の領海進入による攻撃と反論)、米軍爆撃機64機が北ベトナムの基地を空爆、ベトナムの巡視艇25隻、燃料施設を破壊し戦線は広大していきました。
11月には北ベトナム(ベトコン)空軍の襲撃も始まり12月にはサイゴンの米軍宿舎が爆発される事件もおきました。


1965年

 2月ベトコン軍派、ブレイク(南ベトナム)の米軍施設を襲撃7人死亡109人負傷、飛行機19機が損壊する。米軍は北ベトナムのドンホイ基地を爆撃。米国務省は北ベトナムの侵略を強調する『ベトナム白書』を発表します。
3月には米海兵隊がダナンに上陸師、直接介入を開始。米軍機100機余りが19度線を越えて爆撃を開始。3月30日にサイゴンの米大使館が爆破され200人以上の死傷者をだします
5月には南ベトナムのビエンホア基地で爆発がおこり飛行機40機が損壊、130以上が死傷。

6月にはサイゴン空港ビルが爆破され46人が負傷。
ワシントンでは反戦デモに25000人が参加。米政府はマクナマラ国防長官が米兵力を7万5000人に増強すると発表。グアム島にB52を配備。南ベトナムでは20〜30歳の全男子が徴兵されます。
7月マクナマラ国防長官が米兵力を12万5000人に増強すると発表。
9月には佐世保港に北爆に向かう米空母ポノム・リチャード号が入港。

10月には韓国軍1万人が南ベトナムに上陸。30日米軍機は、南ベトナムで誤爆、死者55人。

11月には米軍がカムラン湾で韓国軍を誤爆し死者がでます。14日から南ベトナムのブレーメで米第一騎兵師団と北ベトナムの正規軍が激戦に突入20日までに米軍戦死者は240人。
米軍は原子力空母エンタープライズ号と原子力駆逐艦ベインブリッジ号を第七艦隊に配属することを発表。ワシントンで平和行進のデモや、ヨーロッパ各地でも反戦デモがおこるようになります。
12月にはサイゴンの米宿舎が爆破され180人余りが死傷。
米軍介入後、北ベトナム軍は米軍による毒ガス攻撃を訴えていましたが、米軍は12月、南ベトナムのベトコン地区に枯葉剤を散布することを発表。



1966年

 1月、フランス、ド・ゴール大統領はベトナム平和解決のためにアメリカの武力干渉を中止することを言及します。米軍はサイゴン西方で多量のガス攻撃を開始。3月には米軍機ハノイーハイフォン地区への空爆を開始。
4月、サイゴンの米軍宿舎が爆破され149人が死傷。サイゴンの反政府デモが激化する。米軍はベトコンをおって、カンボジアに進入します。駐留米軍は24万人にのぼり、グアム島からのB52による北爆も開始されます。5月には米軍による135波にも及ぶ北爆がおこなわれ、サイゴンでは仏教徒2万人によるデモが行われ尼僧が抗議のため焼身自殺。6月には米海・空軍機がハノイーハイフォン地区の石油貯蔵施設を爆撃。英・ソ連はアメリカを非難。8月には米軍機サイゴン南方で誤爆で197人が死傷、メコンデルタ地区でも誤爆で20人が死傷。
11月には駐留米軍兵士35万2000となります。
ポル・ボトとイエン・サリが訪中し毛沢東思想にそった11項目の活動原則を述べます。中国文化大革命が始まります。


1967年

 駐留米軍兵士の数は47万3000人におよびます。
2月には米第七艦隊が北ベトナムを砲撃。3月12〜18日の戦闘による米軍死傷者は2085人。4月には147波にもおよぶ最大の空爆を開始。米軍は500機を損失。
7月には南ベトナム解放軍と米軍が非武装地帯南のコンチェンで激戦。
11月には米軍戦死者数は1万5000人を突破、重傷者も5万人を越えます。
カンボジアでは中共文革派の指導のもとカンプチア共産党(クメール・ルージュ)が武装闘争を開始します。シアヌーク殿下に対する不満の声が増大していきます。


1968年

 1月ベトコン軍決死隊が米大使館を6時間占拠。南ベトナム共産軍が米軍ケサン基地を襲い、米軍はハノイーハイフォン爆撃を再開、ケサンにも猛爆を展開。ベトコン軍サイゴン空港を砲撃、空港閉鎖。米軍はハノイ放送、湾岸施設、ラオス国境地帯を爆撃、市街戦もおこるようになり、米軍の死傷者は20万人に登ります。
アメリカの呼びかけで、パリで停戦交渉が開始されます。


1969年

 各国で学生を中心(ワシントンでは反戦統一行動に30万人が参加)にベトナム反戦運動が盛んになります。
5月カンボジアが米軍ヘリコプター2機を撃墜。アメリカニクソン大統領就任。解放戦線による南ベトナム臨時政府が樹立されます。12月解放戦線はサイゴン市内を砲撃。


1970年

 解放戦線は北部の都市20ヶ所の砲撃をはじめとして全土を攻撃。ラオスにB52迎撃用ミサイルを配備。
2月には米軍400機がラオスを爆撃。ラオス戦線が激化。3月18日ロン・ノル将軍によるクーデターが成功しクメール共和国が成立します。シアヌーク殿下は北京へ亡命しました
解放戦線を追い米軍はカンボジアに越境爆撃がおこなう。カンボジア・南ベトナム解放戦線は首都プノンペンに向けて進撃。

4月、カンボジア政府軍、ベトナム系住民90人以上を収容所内で虐殺する。
15日にはカンボジア領メコン川に約400人のベトナム人の惨殺死体が放置されます。
解放戦線は非武装地帯での戦闘を展開。ニクソン大統領はカンボジア領内に対する攻撃を命令。
5月には米軍と南ベトナム政府軍9000人がカンボジアの「豹針地区」、「オウムのくちばし地区」に空陸から侵攻を開始。同時に北爆も開始。

5月シアヌーク殿下は亡命先の北京で「カンボジア王国民族連合政府」と「カンプチア民族統一戦線」を結成します。同月米・南ベトナム軍による「カンボジア侵攻作戦」と呼ばれるカンボジアに内在する北ベトナム軍に対する掃討作戦が開始されます。ベトナム軍がカンボジア共産軍(クメール・ルージュ)の育成を支援しますが、カンボジア人はベトナム人に人種 反感を持っていました
8月南ベトナム政府軍はラオス領内の解放戦線を越境攻撃。
10月にはプノンペン南方でピューリッツァー賞カメラマン沢田教一が射殺される事件がおきます。


1971年

 1月米軍ヘリコプター部隊、カンボジア領内の捕虜収容所を攻撃。B52機400機がラオス・ベトナム国境地帯を攻撃。ラオス愛国戦線は米軍・南ベトナム政府軍のラオス侵攻を非難。ラオス愛国戦線と南ベトナム政府軍との戦闘が激化。11月には政府軍がカンボジア領内に侵入。
4月にはワシントンでベトナム帰還兵1000人が反戦デモ反戦団体による大規模集会が開かれました。


1972年

 2月、米空軍機は南ベトナム全域をはじめ、南ベトナム北部解放戦線地区、インドシナ全域に対する大規模空爆を展開。北ベトナムのミグ戦闘機はトンキン湾の米艦艇を攻撃。
ニクソン米大統領が中国訪問します


1973年

 ベトナム和平専門家会議がパリで再開。1月23日「ベトナム停戦和平に関するパリ協定」により米軍の撤退が決まりますが、解放勢力の攻撃は止まず、実施不可能な協定でした。米軍はカンボジアに向けての空爆をはじめる。8月米軍機がカンボジア爆撃で政府軍を誤爆、政府軍兵士400人以上が死傷。アメリカ軍はカンボジアでの軍事行動(爆撃)を停止します


1974年

 米フォード大統領が就任


1975年

 4月17日ポル・ポト派(クメール・ルージュ)を中心とした民族統一戦線はロン・ノル政権を打倒してプノンペンに入城し政権奪取します。4月30日南ベトナム(サイゴン…現在ホーチミン)が陥落しベトナム戦争は終結します


1976年

 南北統一総選挙が行なわれ、ベトナム社会主義共和国となりますが、親密だった中国との関係が悪化します。カンボジアはポルポト共産党書記長を首相とする「民主カンボジア」を樹立します


1978年

 ベトナムがカンボジアに侵入する。10月カンボジア東部コンポンチャムでヘン・サムリンが反乱をおこす。


1979年

 中国もベトナム北部国境に侵入し中越戦争がおこります。ベトナムの支援を受けたヘン・サムリンのカンボジア 救国民族統一戦線は、プノンペンを制圧、人民共和国の成立を宣言します。


1982年

 タイ国境に逃れた民主カンボジア側はシアヌーク派、クメール人民民族解放戦線(ソン・サン議長) 3派連合政府を樹立し内戦状態が続いきました


1985年

 人民共和国側は国土の主要拠点を支配したましたが、国連は民主カンボジアに代表権を与えました。


1989年

 ヘン・サムリン政権は国名をカンボジア人民共和国から「カンボジア」と改めます


1990年

 民主カンボジアも「カンボジア」と改め、和解へと一歩前進した。9月国連安保理は民主カンボジア3派とヘン・サムリン政府の4者からなるSNC(最高国民評議会)を設置しUNTAC(国連カンボジア暫定統治機構の枠組みを発表、4派はこれに合意します


1991年

 18カ国 「カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定」が調印。13年間の紛争が終結します。


1992年

 3月UNTAC部隊がカンボジア入りし、総選挙に向けて活動を開始しますがクメール・ルージュは武装解除には応じず、翌年の選挙もボイコットします


1993年

 5月の選挙で民族統一戦線が第一党となり、9月シアヌークを国家元首とするカンボジア王国がたんじょうしました。


地雷を踏んだらサヨウナラから見る激動のインドシナ情勢と戦場カメラマン
キャパ賞展で観た戦争・紛争
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