地雷を踏んだらサヨウナラから見る
  激動のインドシナ情勢と戦場カメラマン


『地雷を踏んだらサヨウナラ』『SAWADA』『ウエルカム・トゥ・サイゴン』『キリング・フィールド』今年観たこの4本の映画に共通するキーワードは、”戦場カメラマン””ベトナム・カンボジア”ベトナム戦争に関連した作品に触れるとき特別の感情が沸き起こってくるのを感じます。

『プライベート・ライアン』から映画の世界にのめり込んだわたしにとって戦争に関連した作品の存在を知ると観てみたいという衝動がおきます。戦争映画は究極の人間ドラマともいえるでしょう。第一次大戦もの、そして膨大な数の第二次大戦ものもある中でなぜベトナム戦争なのか。

ボスニア戦争に関するものなどは自分が生きている裏側で実際に起こっていることだけに、ドキュメンタリー的要素が多いこともあって、とても考えさせられることが多いです。リアルタイムで送られてくる空爆の映像や、新聞をかざる写真。映画を観たときに、テレビで観た映像の奥にある、生きている感情を知ることができます。写真の背景にあった出来事をかいまみることができます。
空爆の映像を観ていたとき、あの下で生きて生活している人々がいることを思い憤りを感じました・・・。

ベトナム戦争この戦争については後から、知ったことばかりです。(生まれる前のことなので当然ですが)その時代を知らないからこそ冷静に客観的に、感慨をおぼえることができるのだと思います。

図書館で偶然見た沢田教一の『安全への逃避 Flee to Safety』『泥まみれの死 Dusty Death』この二枚の写真でベトナム戦争を意識したのかもしれません。その後、ロバート・キャパの『ちょっとピンぼけ』、青木冨貴子の『ライカでグッドバイ』br>
ベトナム戦争が生々しいのは、戦争を伝えるたくさんの写真が最前線のものだから。傷ついたひとたちを同じ体験をしたその場で写したものだから。報道規制のなかったベトナム戦争。戦争という狂気のなかで、なにかに駆り立てられるように、もっと最前線にとカメラという武器をもって、のめり込んでいったカメラマンたち、そして残された写真が、この戦争の本質を語っているように思えます。

ベトナム戦争カンボジア内紛の背景について、わたしなりにまとめてみました。
あまりよくまとまってはいないかもしれませんが、この戦争の背景について興味のあるかたは見ていってください

 インドシナ・ベトナムそしてカンボジアの戦火の背景のページへ →

 キャパ賞展で観た戦争・紛争のページへ →

 映画から観るベトナム戦争についてと、レビューのページへ →



地雷を踏んだらサヨウナラ
―One Step on a Mine, It's All Over.―

銀座 シネ・ラ・セット
監督―五十嵐 匠 プロデューサー―奥山 和由
CAST―浅野 忠信 Robert Slater Thorng Darachhaya 川津 祐介 羽田 美智子 Vo Song Huong Pinyo Janesomboon O-Pas Janesomboon 矢島 健一 市毛 良枝

お正月映画第一弾公開初日というのに、この混雑はなんなのだろう。公開2週目にもかかわらず毎回立見の人が出るほどの混雑。主演の浅野忠信さんのファンという人も多かったようです。

作品を見終わったあと、浅野さんではなく、一ノ瀬泰造という人物に対する感想を語る人、言葉を忘れたように無口に歩く人たち。いい作品だったな。中だるみもなく映像もすごくきれいだった。日本でもこんなタッチで映画がつくれるんだなと思う一方で、なにかしっくりこない。

このしっくりこない感じは一体なんなのだろう。原作を読んでみた。一ノ瀬泰造の写真を観た。パンフレッドを観る。そしてチラシを・・・・。一ノ瀬泰造の青春・・・。
そうか、そうなんだこの作品をベトナム戦争、カンボジア内紛を中心に考えるから、しっくりこないのだ。一ノ瀬泰造といういい写真を撮りたいと突き進んでいく一人の人間の生きた時間を中心にその背景にあの時代を写しだせば違和感がないんだ。

クメール・ルージュの兵士が出て来たとき、あのストールをみてクメール・ルージュだと分かった人がどの位いただろうか?それが何者であるのか・・・1972〜73年という時代がどんな時代だったかなどという説明は語られずに話は進んでいく。この時代の背景を知っている人は、そうかそうかとうなずき、そして時代背景を貼り付けて一ノ瀬泰造の生き様に感銘を受ける。知らない人は一ノ瀬泰造という人の生き様を通して、その時代の背景に触れていく。そんな二極性をもつ作品なのではないだろうか。

一人の生身のコンバットカメラマンの背景に時代が貼りつけられているのだ。映画という限られた時間の中でベトナム・カンボジアで夢はせて写真を撮り続けたカメラマン一ノ瀬泰造という人と、26歳の人間としての一ノ瀬泰造の生き様がよく写しだされていると思いました。

なぜ、アンコールワットなのか・・・
何が彼を危険な道へとかりたてたのか・・・・
通信社の壁に貼られた沢田教一のピューリッツアー賞の”安全への逃避”の写真。
1972年というベトナム戦争の戦火が下火になってきた時代、フリーランスの道を行く青年。彼が心を通わせた子供たちの身の上や親友となったロックルーの身の上、クメールルージュの存在、聖地アンコールワット。アンコールワットの歴史・・・・。悲惨なものを見続け、遭遇しつづけて、カメラマンとして、最前線の決定的写真や死体や負傷者ではなく、撮影に成功すれば一獲千金というクメールルージュの聖地アンコールワットを撮影することで、カメラマンとしての夢の行き場を求めたのではないか?そして人間、一ノ瀬泰造の心の行き場を求めたのではないだろうか? そんな気持ちをおぼえました。

アンコールワットに続く道が写しだされて、エンドクレジットが流れ出したとき、その場にいた人たちはきっと、一ノ瀬泰造はアンコールワットにたどりつき、カメラはなかったけど、その眼のシャッターをきり、脳裏にやきつけたのだと、信じたいと思ったと思います。

友人や両親にあてた手紙を中心にまとめられた、原作本『地雷を踏んだらサヨウナラ』やこの戦争の背景を知ると、この映画の訴えてくる、平和であることの意義、生きることの意味を強く感じることができるような気がします。

一ノ瀬 泰造
いちのせ,たいぞう
1947(昭和22)年11月1日生
1972(昭和47)年11月29日没
佐賀県武雄市出身
1970年日本大学芸術学部写真学科卒(大学時代は趣味で4回戦ボクサー)
1970年UPI通信社東京支局入社
1972年1月20日東京国際空港を出発 インド、バングラディシュへ渡る
3月カンボジアに入国 フリーの戦争カメラマンとして活動
7月ベトナム戦争を取材
 Nikon F2、Nikomat、Nikonos IIを愛用
4月12日スワイトムでロケット弾の破片を浴び膝を負傷
8月ベトナム入り
1972年UPIニュース写真月間最優秀賞
1973年4月一時帰国 11月23日 アンコールワットへ単独先行を試み、行方不明となる
1982年2月1日 カンボジア・プラダック村で両親によって死亡が確認される
2月2日シムリアップ省内の寺院で葬儀
2月4日両親によって遺灰の一部がアンコールワット境内のガジュマルの木の下に埋葬される



『地雷を踏んだらサヨウナラ』が一ノ瀬泰造の青春だとしたら・・・
イギリスが創った『ウエルカム・トゥ・サイゴン』はベトナムで活躍したイギリスのコンバットカメラマン、ティム・ペイジの青春といっていい作品です

『ウエルカム・トゥ・サイゴン』 92年 英・米・豪作品
イギリス・アカデミー賞最優秀音楽賞受賞
監督…ピーター・フィスク 脚本…アンディ・アーミテージ
音楽…ジェフ・ベック、ジェド・リーバー
挿入歌…ジミ・ヘンドリックス、オーティス・レディング、ザ・ドリフターズ他
CAST
ティム・ペイジ…イアイン・グレン
ショーン・フリン…ケビン・ディロン
スティーブ・カトラー…スティーブン・ビドラー
マーチン・スチュワート=フォックス…アラン・デビッド・リー
アンソニー・ストリクランド…ステファン・ディレイン
ケイト・リチャーズ…アレクサンドラ・フォウラー
ダニエル・カラッセ…キャロライン・カー
ジョン・スタインベック四世…トッド・ボイス
メジャー・フレイ…ニコラス・ハモンド

1965年ふらっとベトナムにあらわれたヒッピーくずれのようなティム・ペイジとショーン・フリンの出会いから彼らの友情、報道を伝える仲間たちとの触れ合い、そしてティム・ペイジが写すだけのカメラマンから事実を伝える戦場カメラマンへとかわっていくようすがわかります。
本人も言うように、何度も死んでも不思議ではない状態に巻き込まれ、奇跡の生還をし、仲間たちからはペイジと同じヘリにのると死が訪れると敬遠されたそうです。
ティム・ペイジの破天荒な生き方を描くと同時に、それぞれの重荷を背負って異常な戦場で生死をかけて生きていく男たちの生き様を伝えてくれます。
ティム・ペイジがベトコン兵を撃ってしまうシーンがあります。この時の心境、身の危険を感じて撃ったのではなく「ベトコン兵の動きがあまりに早くて写真がとれない。あの動きを止めたくて撃った」と・・・。ベトナムでのカメラマンがどんどん、最前線に最前線にと向かっていった気持ちと通じる語りともいえると思います。

全編を通して流れてくるジェフ・ベックのギターの音その裏側にあった時代は、ローリング・ストーンズの歌が聞こえてくる時代、ジミ・ヘンドリックス、ジェファーソン・エアプレーン、フランク・ザッパ、ウィルソン・ピケット、ジュニア・ウォーカー、ボブ・ディラン、ザ・ドアーズ・・・
ラジオの向こうからそんな音楽が流れてきます。

そんなティム・ペイジが同じくドイツ人ジャーナリスト ホースト・ファースと共に編集したベトナムの戦場で命を落とした戦場カメラマン135人の写真をまとめた『レクイエム』という鎮魂写真集を97年10月に出版しています。
また同じ97年には、ピューリッア賞カメラマン沢田教一のドキュメンタリー映画(監督―五十嵐 匠)『SAWADA』の中で沢田教一のこと、そしてティム・ペイジ自らのことを語っています。



ドキュメンタリー映画
『SAWADA サワダ』
監督―五十嵐 匠
CAST(証言者)
澤田サタ、ビーター・アネット、エディ・アダムス、ティム・ペイジ、グエン・ホエ他
沢田教一の声…根津甚八

当時のベトナム・カンボジアの映像と沢田教一撮影した写真を背景に証言者たちが沢田教一の生き方、心の動き、その時代のジャーナリズムのあり方を語っていくドキュメンタリー作品です。
その写真に触れたとき、心の中でなにかがぎゅっと握りこぶしをつくるのを感じます。
今でも『安全への逃避 Flee to Safety』『泥まみれの死 Dusty Death』の写真を見た時のはりつめた気持ちを憶えています。
安全への逃避に写っていた子供の当時をふりかえっての証言や、結婚のときのエピソード、写真から沢田教一という人を掘り下げて語られていきます
証言者たちが言う沢田教一がピューリッツアー賞をとってから、なにかに追われるような感じに変わっていったという言葉、死体を撮影するときの心のあり方、カメラを手に共に戦場で戦った仲間の戦火の中での異常な経験など、そして死亡が確認されるまでのことが語られていきます
先日、テレビで沢田教一のドラマ『輝ける瞬間』も放映されました。

<沢田教一>
1936年2月青森県生れ、青森高校出身
1961年 UPI東京支局に入局
1965年サイゴン支局に移り数々の激しい戦場写真を発表、世界的に知られる。「安全への逃避」で 第9回世界報道写真展大賞、1966年にピュリツァー賞、アメリカ海外記者クラブ賞、USカメラ賞を受賞。「泥まみれの死」「敵をつれて」が世界報道写真展1位、2位を独占。
1970年カンボジア内国道2号線路上にて、同僚フランク・フロッシとともに銃弾を受けて殉職。
死後、ロバート・キャパ賞、勲六等単光旭日賞を受賞します。


<ロバート・キャパ>
1913年
10月22日
ハンガリーの首都ブタペストでユダヤ人洋服屋の息子 アンドレ・フリードマンとして生まれました
1931年独裁者ホルティに抗し警察に留置。ベルリンへ脱出。
ベルリン大学に学び、写真家アイゼンシュテットの 暗室などで働く。コペンハーゲンの国際反戦会議で演説するトロツキーを撮影し、初めて写真が公開されます
1935年写真を高く売るために架空の写真家「ロバート・キャパ」を創り出します。
1936年スペインへ特派員として派遣される。コルドバの戦場で撮った「敵弾に倒れる義勇兵」が名声を得ます。
「ライフ」にキャパ名で次々と写真を発表
1954年「ライフ」のアサイメントでディエンビエンフー陥落直前のインドシナへ。
5月25日 ハイフォン南方タイ−ピン地区で地雷に触れ爆死インドシナにおいて最初の米特派員死亡者となります。



『地雷を踏んだらサヨウナラ』のキーワードのひとつカンボジア内乱とクメール・ルージュのことを知り、実際の歴史に震撼し、そして人間同士の心のつながりに感動できる作品に『キリング・フィールド』があります。

『キリング・フィールド』
 ―THE KILLING FIELDS―
 1984年 英・米作品
監督 脚本…ブルース・ロビンソン
アカデミー助演男優賞…ハイン・S・ニョール、撮影賞、編集賞
CAST
シドニー・シャンバーグ/サム・ウォーターストーン
ディス・プラン/ハイン・S・ニョール
ロッコフ/ジョン・マルコビッチ
ジョン/ジュリアン・サンズ

ニューヨークタイムズ記者としてカンボジア内戦の混乱をルポしピューリッツァー賞を受賞したシドニー・シャンバーグの実体験を、デビット・パットナムとローランド・ジョフィが映画化した作品です カンボジア人の通訳兼ガイド役のディス・プランを演じたハイン・S・ニョールは1940年3月22日カンボジア生まれ。カンボジア政府の軍関係の病院で医師として働いていた彼は1975年にプノンペン陥落の際クメール・ルージュに捕らえられますが、高等教育を受けたことを隠し4年間強制労働に従事しベトナムのカンボジア侵攻の際脱出に成功しタイの難民キャンプにたどりつきます。この間にクメール・ルージュの迫害にあい、妻と子供をなくしています。アメリカに移住し人権運動にも参加します。1996年ロサンゼルスの自宅前で射殺されているのを発見されます。当初クメール・ルージュの報復説がいわれましたがストリート・ギャングの少年たちの犯行とわかりました。

作品の背景は1970年3月にシアヌークがソ連を訪問したさい、親米派のロン・ノルがクーデターをおこし南ベトナム解放戦線(ベトコン)に苦戦していたアメリカは戦局を有利に進めるためロン・ノルを支援するためカンボジアに進攻します。アメリカを見方につけたロン・ノル政権と、反米精神、国家救済を掲げる革命派勢力赤いクメール(クメール・ルージュ)は激しい闘争を繰り広げていきます。
1975年4月17日、共産主義者率いる赤いクメール(クメール・ルージュ)はロン・ノル政権を打倒、民主カンボジア政府の樹立を宣言します。ポル・ポト政権はプノンペン解放後極端な共産主義政策を遂行し住民に対する強制移住や知識人を撲滅するための大量虐殺を行います。

「Forgive me」
「Nothing to forgive you, nothing」

映画『キリンク・フィールド』は1973年8月、ニューヨークタイムズの記者シドニー・シャンバーグが特派員としてカンボジアに派遣されたところからはじまります。カンボジア人の通訳兼ガイドのディス・プランとともに取材を続けていきますが、1975年にはいりクメール・ルージュが首都プノンペンに迫りロン・ノル率いる政府軍は敗退の気配が強くなります。シャンバーグはクメール・ルージュの迫害に、知識人であるディス・プランを心配し家族とともにアメリカに脱出することを勧めますがプランは家族だけをアメリカに移住させ、自分は取材を続けるシャンバーグたちのもとにのこります。4月にロン・ノル政権が崩壊するとポル・ポト政策のためプランをはじめシャンバーグたちにも命の危険が迫ってきます・・・

この作品を観ると、当時のカンボジア、ポル・ポト政権の異常さ、クメール・ルージュとは何なのかということがよく分かります。クメール・ルージュの思想を受けて育った子供たちは、その思想に反すれば、自分の親のことでも密告します。ポル・ポトの理想国家造りのため、それまでに高等な教育を受けた人たちは抹殺される運命にありました。ハイン・S・ニョールも医師であることを隠し、強制労働者として生きる道を選び生き延びることができました。作品中のディス・プランもまた外国語が話せることやジャーナリストであることを隠し生きる道を模索します。
カンボジア人であるプランをなんとか国外に脱出させようとフランス人のパスポートを偽造しようとするシーン、「ベンツ、ナンバーワン」「Nothing to forgive you, nothing」この二つの言葉に心が感動しているのを感じました。

インドシナ半島におけるベトナム戦争とカンボジア内紛の歴史 →

BACK


Return to
Feature story
Home  



いろいろな情報を調べる際に利用させていただいているWebサイト
ならびに書籍等の一覧は Promenade のページをご覧ください。