ジェームス・P・ホーガン(James
p.Hogan)の人となりについて
生まれ…1941年6月27日、イギリスはロンドン。
父親はアイルランド系、母親はドイツ人(今はポーランドの一部になっているシレジア出身)。
父親は情熱的な男だったらしく、第一次大戦時、今はポーランドの一部になっているシレジアにイギリス占領軍兵士として駐留していた。そのときドイツ人の女性(母)と恋に落ちた。帰還後手紙を出しても連絡が取れずに途方に暮れていたところ、当時19才だった母親は彼(父)を追ってイギリスへ渡ってきた。偶然ロンドン駅頭で再会、結婚し三人の子供をもうけた。しかしながら、彼は戦争中塹壕でガスにやられた後遺症により30代半ばで死んでしまった。母親は、父ホーガンと再婚した。
ジェームスは、ロンドン西部のポートベロー・ロード地区で育った。両足がかなりひどく不自由な状態で生まれ、矯正手術に年月を要したが、腕利きの医師たちのおかげで14歳の頃にはウェールズやスコットランドの山へハイキングやキャンピングに行けるようになった。そんな頃、読書に興味を持つようになり、それは当然のごとく長続きすることとなった。このことが協調性に乏しい自分の性格をつくったのだろうと彼は書いている。学校にはあまり関心がなかったようで、16才で退屈な学校をやめ、新聞社のメッセンジャーボーイやトラックの荷役や食料品店の配達係などの仕事を転々とした後、電子技術者になろうと考え海軍に志願した。しかし、昔の病歴のせいではねられ、このときはじめて作家として立つことを考る。
母親に説得され、政府系研究機関の科学技術公務員奨学生選抜試験に応募し、今度は優秀な成績で合格。ファンボロウにある王立航空研究所(ロイヤル・エアクラフト・エスタブリッシュメント)に入る。そこで電気、電子、機械工学の実際と理論両面を学んだ。ところが程なく結婚し、20才の時には双子の父親となる。(これは3回に及ぶ結婚の最初で、その双子はやがて6人となる子供たちの最初でした。)そのため、もっと収入の多い職に移り、働きながら大学へ通って電気=電子技術師の資格をとった。
始めのうち、いくつかの会社で設計エンジニアとして、産業、学術研究機関で使用されるデータ収集/分析用のデジタル制御機器の設計に携わった。しかしそのころから、ものをつくる技術者よりもその設計セールスの仕事に魅力を感じるようになり、22歳のときに国際電信電話会社(ITT)に入って、イギリス中を旅して歩く生活が始まる。以後5年間、行く先々で接する顧客の一線級科学者や技術者たちから吸収した先端的知識、科学的は思考法、それに科学技術にたいする楽観主義などが、後のSF作家としての彼の資質に大きな影響をあたえることとなる。
1968年、「2001年宇宙の旅」に刺激されて創作意欲が再燃し、長編小説の執筆にとりかかる。そのあと間もなく妻アイリスと離婚。その後「星を継ぐもの」を脱稿。1975年になって、デジタル・イクイップメント社(DEC)に入社してセールス研修のために渡米したとき、ニューヨークのバランタイン社に見せた作品「星を継ぐもの」が認められ、出版の話が決まる。
1976年、12歳年下の妻リンと再婚する。最初の長編小説「星を継ぐもの」出版。
1977年には、DECの科学用途専門の営業スタッフ向けセールス・トレーニング・プログラムを運営するため、マサチューセッツに移住。
1978年「創世記機械」「ガニメデの優しい巨人」をあいついで出版する。一般的なSF界のみならずプロの科学者の間でもよい評判を得る。
1979年リンと離婚する。2度めの結婚の中心だったマサチューセッツの家を売却。気持ちの上ではひどく落ち込んでいた。それで、フルタイムの小説家としてやっていくためDECも辞めて、1979年の秋、ボストンを離れる。
フロリダ州、オーランドに落ち着いて一年ほど過ごし、カリフォルニアから来たジャッキーに出会い結婚する。(お互い三度目の結婚だったようだ)その年の暮れには、カリフォルニアはシェラネヴァダ山麓のかつて金鉱の町だった小都市ソノーラへ転居した。この間「未来の二つの顔」「未来からのホットライン」「巨人たちの星」と一年一冊のペースで長編を出版する。すでにいた3人の娘に加えてさらに3人の息子をもうける。
80年代後半に大西洋を再び渡り、ダブリンの南12マイルの海辺にあるノーザン・ウイックロウのブレイという町に落ち着いた。 今でもフロリダ北西のペンサコラにあるアメリカの家を維持している。
参考文献:○早川SF文庫「断絶への航海」訳者 小隅 黎さんの「訳者あとがき」