コロナ禍で、どこにも行けなくて、山に行ってきました。


 友達にも会いたいですね。

 みんな中止にしています。


 でも、憲法9条の会などは、総会や記念講演は、広い場所で行う予定です。

 今、微力ながら、9条の会の事務局長をしています。
 
 

2020年8月  長野県にて
*****エッセイ*****
じゅん子のホームページ









   




















2023年8月26日(土)




       
 2021年1月25日(月)                晩年の父、そして母

 
 
 父と母は、特に仲がよいという夫婦でもなかった。と言って、仲が悪いというわけでもなかった。

 母は全くのお嬢さん育ちだった。服装から物言いまで違っていたので、若きころ、父が働く職場に母がやってきたとき、強烈な印象を振りまいたらしい。これは、父が語ったことから、また、父が書き残していた青春時代の書き物から、知ったことだ。


 母はわがままという印象を与える人ではなかったけれど、父との関係では、どこかにお嬢さん育ちが出ることがあったかもしれない。

 

 父は、父で、私が結婚するとき、私と私の結婚相手を前に「民主的な家庭をつくるように」と

 言ったけれど、父自身はどうだったのかなと、少し疑問がある。

 私は父と母のすべてを知っているわけでもないが、両親の影響を受けて育ったことに間違いはない。



 相談ごとがあると、父と母は、よく話し合っていた。

 
 思い起こしてみると、父と母は相談以外でもよく話をしていて、傍らで私はその話をきいていた。

 ときおり、口をはさむと、私は母に、

 「大人の話に子どもがはいるものではありません」

 と叱られた。


 晩年の父は、私に母のことを「この人は偉かった」と言った。

 母が認知症になり、施設に入った。その後、父が倒れて入院し、父も母と同じ施設に入所した。

 父はショートステイの利用であり、施設内での二人の部屋は離れていたので、私は父の車椅子を押して母と落ち合った。


 それは、夕方の時間に、毎日のように訪れていた私の訪問に合わせて行われた。

 母は、父を認識することができるときと、できないときがあった。月日の流れとともに、母には父が、長年連れ添った夫だということがわからなくなっていった。

 
 
 それでも、父は母に会うことを楽しみにした。晩年の父にとって、母に会うことは至福のときであったのではないかと思う。

 父は、母を慈しむように見つめ、「この人は偉かった」と繰り返し言うのだった。

 戦中、戦後の困難な時代を生き抜いてきた母を尊敬の念を抱いて見つめていたようだった。


 「この人は勉強家だった」というのは、母は、仕事が終わると、明治大学の聴講をしていたという。

 駿河台の坂を駆け上っていく母の姿を見送ったという父の話を私はきいていた。
 

 それから、結婚してから、父が戦地に行っている間に、母は、父の原稿をまとめて、出版社にもっていき、本にしたということも、私が父から知ったことだった。


 食べるお米がなくて、母は警察にいき、「食べるお米がありません」と言い、お米を手に入れた」こともあったという。

 父は、かなりの資料や原稿を遺して、この世を去った。

 膨大なノートや資料を前にのこされた者は、それをどう保管し、または処分したらよいのか、途方にくれる面もある。

 置く場所の確保も難しく、捨てざるを得ないものも少なからずあり、処分させてもらった。 


 ただ、まちの歴史のように、事実に基づいた記録のような物については、大事に保管している。

 母との出会いから、ともに過ごした日々のこと・・・これも真実の記録にあたるのだろう。

 父は、私に「お母さんのことを書いて」といいのこした。だから、近い将来、母のことを書かなければと思っている。

 タイトルは決めている。

 






  2021年12月14日(火)   会いたいな、友だち 


 コロナ禍で、マスク生活も、来年の2月頃で、3年になる。

 仕事をやめて、さあ、これからは、本当に自分だけの時間が持てる。今まで忙しくて友だちにも会えなかったので、しばらくあえないでいた友だちにも会いたい。

 でも、やめても、いろいろと雑事もあるものだ。それから、社会的な活動も加わり、そんなこんなで過ごしていると、なんと年があけて、コロナ禍となった。

 ああ、それからは、離れている友だちには会っていない、近くの友だちには、会っているがこれまでのような飲食を伴うような方法はとれていない、だから簡単にいうと、私的な話は、電話以外ではできていない。

 何かの用事など以外では、人と会わない生活になると、何となく、心が寂しくなる。
 

 自分自身に元気が湧いて来ない。





 エッセイ、お休みしてしまいました。これからは、少しずつ書いていきます。9月24日


久しぶりのエッセイです。



 2020年  1月20日 (月)           新しい時代がやってきた?


  10月のある日、夫と一緒に東京に出かけることになった。

 九州に住む私の親族夫婦が、旅行で東京のホテルに宿泊しているということで会うことになった。
 
 電車に乗り込んだ。

 ところが、私は、お菓子の紙袋をもっているはずの夫の手に、紙袋がないことに気づいた。

 「お菓子、どうしたの?」

 「あれ?」

 夫も、気が付き、びっくり。

 「改札に近い台のところかな、それとも、トイレ・・・?」

 スイカに入金する時に改札に近い台の所に置いたかも?

 いや、トイレに入ったので、棚に置いたかも?

 どうも記憶が定かではないらしい。トイレか、改札近くか・・・。きっとトイレ・・・。

 さんざん考えたあげく、

 「新しい時代がやってきた!」と夫が笑って言った。



 そんなわけで、ともかく、列車の車掌さんに置き忘れの連絡を入れていただこうと、一番前の列車に。

 車掌さんも、とても忙しそう。やっと話ができた。



 手ぶらになってしまった私たちは、仕方なく、行田のお土産は無理で、東京駅で東京のお菓子を買った。

 そんなこんなで、「実は行田のお菓子をもってきたのですが、行田駅に置き忘れて・・・」
 
 という説明をしながら、親族夫婦にお土産を渡した。



 無事に用事もすませ、帰路へ。

 「ねえ、そういえば、昔、スキーに行ったときに、列車にお菓子の紙袋を忘れたこと、あったじゃない?」

 「うん、あったあった」

 「昔から、忘れ物してたのよ。だから、今始まったことじゃないのよ」


 まだ若かりし頃、懇意にしていたスキー宿へのお土産の紙袋を列車の中に置き忘れたことがあった。

 「新しい時代」がやってくると困る。あーよかった!

 新しい時代はまだまだ遠くにありにけり・・・と思いたい。

 
 帰りの駅。駅員さんにダメもとで、お菓子の紙袋について尋ねた。

 なんと、駅で保管されていました。


 届けてくれた人がいました。ありがとう。






  10月 17日(木)        衣替え


 いつまでたっても、暑い夏が過ぎず、いやだなあと思っていた。

 でも、最近は、さすがに半袖の人が少なくなってきたように思う。

 つい先日、私も夫も、それぞれ、自分の衣類の入れ替えをした。

 我が家では、基本的に、自分の持ち物は自分で責任を持つことになっているので、衣類の入れ替えもそれぞれで行う。



 いざ、衣類を目の前にすると、衣類は多いなと思う。それもつまらない服が(笑)。


 誰かが、今ある衣類で10年間は着られるといったけれど、本当にそう思う。

 そう言ったのは男性だった。

 10年どころか、永久に着られそうなくらいの量は確かにある。

 
 でも、やはり新しい季節がやってくると、買ってしまう。


 最近、服のことを書いた新聞記事に出会った。

 1年しか着ないような服はだめといったことが書かれ、服に対する心構えというような内容でもあった。

 できるだけ流行に左右されないような服で、上質の材質の物を長い間着ることが良いという。

 記事を読んだ私も、そんな風にしようかなと、ちょっと思った。


 今年は丈の長いスカートやワンピースが流行した。

 私は、夏の間、今年買った何枚かの長いワンピースばかりを着ていた。長いワンピースはちょっと優雅な気分にな

れるし、冷房対策にもなる。


 でも長く着たいという思いを抱くワンピースがどれだけあるだろうか。

 衣類を整理するたびに、つまらない?服が多くて、もう服は買わないようにしようと思う。


 それに消費税はあがったし、腹が立つので、もう、物は買わない!と思うのだ。


 目の前の夫が、家で少しくすんだピンク色のTシャツを着ている。それは、もう、20年近く前のものだ。

 夫は、いつも、私が夫の古い服を処分たいと言うと、「まだ着られるから(勝手に)捨てないで」という。

 ピンク色のTシャツは、娘がオーストラリアに留学中で、夫婦で訪れ際にそこで買った物だった。


 「(捨てたくても?)破れないね〜」と夫が言う。布は、なんて丈夫なのだろう。

 さすがに色褪せているので、外に着て行かれては困りますが。




  9月3日(水)      癖(くせ)


 最近、人と話していて、思う。

 話すのが早いかもしれない・・・と。

 どうして早くなったのだろう。もう少し落ち着いてゆっくりと話したほうがよいと、自分でも思う。


 自分でたどり着いた答えは、議員をしてからだと。

 制限時間に質問をたくさんする。しなければならない。このことが、私を早口にさせているのではないかと。

 24年間もやってきた議員生活。その中で身についたのだろうか。

 
 教員時代の友達と会うことがある。

 話題になることがある。それは給食のこと。

「教員って、食べるの、早かったわねえ・・・」


 
 子どもたちが給食の準備をしている間、ほとんどの場合、よくはないかもしれないが、

 テストの採点をしたり、ノートを見たり、仕事をしている。せざる得ない。


 「いただきます」の挨拶で、さっさと食べ始め、子どもたちより早く食べ終え、また、机の上の仕事に手をつける。

 もちろん、順番にグループに入って、子どもたちと一緒に話しながら、食べることもある。


 だが、本当に教員の生活は忙しく、食べる時間も惜しみ、仕事をするのが、現状である。


 児童生徒の給食の時間が短いので、学校の給食時間をもっと長く、などという保護者の声もあるようだ。

 その短い時間の中でさらに、食べる時間が短いのが教員かもしれない。

 相当短い時間で食べていた私だが、幸いにして、こちらのほうは、癖にはならなかったようだ。

 
 友人と食事をして、逆に教員経験者の私のほうが、遙かに遅かったりする。


 夫と食事をしていると、夫は、瞬く間に食べ終わってしまう。何を食べても早い。

 たくさん食べても早い。


 「もう食べたの?」と私。

 「うん、教員時代の癖だよ」と夫。

 人によって、仕事をやめてもなおらない癖と、なおる癖があるらしい。

 

 



    7月25日(木)  振り返り、前を向く

 

 支持者の方に、心あたたまる「お疲れさん会」をしていただいた。
 

 本当は、私からしたら、支持者の方たちのお疲れさん会ということが適切なのですが。

 お昼ごはんを食べにくればいい、と言われていたので、そのつもりだった。

 
 そうしたら、なんと事前に宿題が出された。

 24年間の中で実現できたことをまとめて、紙にして配ってと言われたのだ、


 私の心の中は・・・暗い雲が・・・

 (えっ、過ぎたことをやるの。私は、もう過去のことには、さよならして、前を向いているのよ)



 「振り返り」には、用事がなかった。時間も心ももったいないと思った。


 それでも仕方なく、24年間を振り返った。あんなこと、こんなこと、あったなあ・・・昔がよみがえった。

 自慢ではないけれど、たくさん出てきた。


 でも、本当は、「実現したこと」というのには抵抗を覚える。


 これは実現させたかったと思うことでも、いくら努力しても実現できなかったこともある。

 それは、いくら議員が努力しても市という執行部がそれを理解して実行しなければ、実現にいたらないからだ。


 本当のところは、努力の度合いが全く関係ないとはいえないかも知れないが、実現できなかったからといって、議員として至らなかったということでもない。


 本当は何が実現できたかではなく、何に力を注いだかこそが重要なのだ。結果、実現したことについては、「実現に至ったこと」いうとらえ方のほうが適切だろう。


 だから「私がやった」と表現する議員の言葉には、違和感を覚える。

 
 とにかく、「お疲れさん会」の席上、抽出して紙にまとめて配って、その場を乗り切った。


(いやで最後までやらなかったから)  当日は、寝不足(笑)のまま会場へ。


 すごい?おしゃれをしていこうと思ったけれど、そこまで余裕もなく、地味な紺色のワンピース。


 ただ、その日からしばらくすると、「いやあ、議会のこと、議員のこと、記しておくには、今しかない」と思ったから不思議だ。


 私にとって、フィクションの世界を書いていくことは、自分の人生だと思っているが、そうだ、別の世界も一緒にやっていくこともあったのだ。


 そう気づかせてくれたのも、24年間ともにやってきた仲間だった。


 内容に関しては、これでよいのかと世に問うもので、自分がやった、とか、「実現」の自慢話(?)のようなことを書こうとは思っていない。

 また、書いたことが評価されるかされないか、は考えない。


 何が人生のきっかけになるかわからない。

 いやだなあと思った「振り返り」。


 私を振り返らせた友人に感謝である。




    7月18日(木)     すいこうえん


 旧ホームページに、「教師の頃」を書きましたが、行田市にやってきて、やや同世代の教員と交流をもった。

 運動会などの行事を終えると、「すいこうえん」(漢字の文字が一部わからないのでひらがな)で、ほっと一息つき、仲間と語り合いました。

 その頃は、忙しい教員生活の中でも、それくらいの余裕はあったのです。

 仕事の話はもちろんありましたが、恋愛の話は、いつも話題にのぼりました。



 その頃、集まっていたのは、5、6人で、全員20代で、独身。

 すいこうえんでの語らいは、楽しかった青春の1ページ。


 すいこうえんは、ずいぶん前に取り壊され、今は、ハナホテルが建っているあたりのよう。


 集まりたいね・・・と言って一度集まってから、もうしばらくたつ。互いに年賀状にも書きながら、実現しないその頃の友との語らい。



 まだまだ、いろいろなことの整理がつかない日常の私。

 でも、今年は絶対に集まりたい。きっと楽しい。