法  話 2(その2)


   2015年 6月 1日(月)

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「兵戈無用(ひょうがむよう)」

 前回(法話2その1)で、集団的自衛権の話から表題の「兵戈無用」につきまして法話としました。少しですが、ご意見をいただきました。「わかりやすかった」「よくわからない」「政治の話が、多く仏教の話が少ない」等々のご意見をいただきました。皆様、貴重なご意見ありがとうございます。
 今回は、前回を補足する意味で「兵戈無用」についても、もう少し詳しく記したいと思います。
 現在、国会で集団的自衛権が議論されています。ところが、ニュースなどを見ると国会では、与野党問わず野次の応酬です。首相までもが、野次を飛ばすという事態です。その他にも、居眠りをする。会議室の外に出て携帯をいじっている人が多くあり、まさに学級崩壊な事態であるとの記事もありました。全員ではないと思いますが、国会議員の皆さんは私のような凡愚と違い、国民から選ばれた立派???な方々かと思っておりましたが・・・
  この国会で、集団的自衛権に関する法案が可決する見通しです。前回でも述べましたが、今回の集団的自衛権の法案は、武力行使、武器使用の危険性がますます高まります。その危険の高まったところに自衛隊の人達が派遣されます。
 将来、派遣されるであろう方々は、命がかかっています。また逆に他の人間の命を奪うこともあり得ます。そのようなところに派遣できるようにという議論をする場が、このような状態であるということです。何も考えてないんでしょうか?このような姿を見ると怖くもあり、悲しくもなります。
 さて、また政治の話になりましたが、この辺で「兵戈無用」の話にしましょう。
 仏説無量寿経には、如来が世間に出現されたのは、苦悩の衆生に真実の利益を与えて救うためであること。法蔵菩薩が、全ての衆生を救うと発願され、修行し阿弥陀如来となられその願が成就されたこと等々が解かれています。
 その中で、「兵戈無用」は仏説無量寿経の巻下 正宗分 釈迦指勧 五善五悪の終わりの方に記されています。
「仏の有履したまふところの国邑(こくおう)・丘聚(くじゅ)、化を蒙(こうぶ)らざるはなし。天下和順(てんげわじゅん)し日月清明(にちがつしょうみょうなり)なり。風雨時をもつてし、災氏iさいれい)起こらず。国豊かに民安くして、兵戈用ゐ(ひょうがもちい)ることなし」
 意訳をしますと「仏の行かれるところは、国や町などどこでも、その教えに導かれないところはない。そのため世の中は平和に治まり、日も月も明るく照らし、風も雨もよいときに降り、災害や疫病なども起こらず、国は豊かになり、皆平穏に暮らし、武器をとって争うこともない」となります。すなわち仏法の広まりしところは、争いも災害もない平和の世となるということです。
 武器を持ち武力によって相手を威嚇し恐れをもって抑えつける。それにより平和が維持されるという考え方が、今回の集団的自衛権です。その考え方の人達から見れば、「兵戈無用」は理想であり現実的でないと思われることでしょう。しかし、その方法は、歴史や過去の戦争によって通用しないと証明されています。
 そして、殺し殺されるという関係では「怨」を生みその「怨」がさらに「怨」を生むということになります。それでは、平和な世がつくられるはずもありません。
 「兵戈無用」は、「兵」(軍隊)や「戈」(ほこ、武器)の必要としない真の平和の実現を意味します。兵や武器は人間が作ったものです。人間が作ったものである以上なくせないことはないと思います。片手で武器をにぎり手をさし出しても信頼は得られません。やはり真実の平和を構築するには、お互いが信頼し合う関係を築き上げることです。そのためには、武力による脅し、脅されるところに信頼は生まれませんから、とにかく何度でも、長い時間がかかってもきちんと話し合う、それ以外には道がありません。