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研究テーマ |
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大学では主にドイツ語を教えているのでよく勘違いされるのですが、わたしの専門は「ドイツ文学」ではありません。オーストリアおよび東欧(旧共産圏)の現代小説を研究対象にしています。留学していたのもヴィーン大学です。(左の写真はカフェ・ブロイナーホーフ)
現在世界をおおっている価値観の多くは、近代ヨーロッパに起源を持っています。文化や科学などその豊かな実りを認めつつも、それがはたしてどこまで「普遍的」といえるのかもという疑問もつねに抱いてきました。また近代ヨーロッパの「知」が、地球上ではかりしれぬ暴力へと動員されてきたのも厳然たる事実です。 いま「近代ヨーロッパ」と書きましたが、多くの人がイメージするのはイギリスやフランス、ドイツといった西欧の大国でしょう。それら大国の尺度に対して、オーストリアや東欧の小国がどのように抵抗してきたかがわたしの関心の中心にあります。具体的には支配的なコードに対して、「嗤い(sarcasm)」「ユーモア」「韜晦」などさまざまな手段で、自明とされるコードをずらしていく弱小国民たちの智恵―自己憐憫へと転化することもしばしばですが―を学んでいきたいと考えています。
そもそも文学は、政治、法といった支配者の圧倒的な言説に対する一種の転倒、攪乱の試みです。自明だとされる現実に揺さぶりをかけ、亀裂を走らせ、「今・ここ」ではなかったかもしれない別の潜在性をかいま見せるものです。その意味で、文学とは、すぐれて「不穏な」存在です。
とはいえリオタールが述べたように、「大きな物語」が終息したいま、知識人は社会の見取り図、未来への航海図を描くことはできなくなりました。サルトルの問いかけを繰り返すなら、文学は飢餓の前に無力です。けれども、世間がなべて「集団狂気」に陥っているとき、ひとり冷静に自己を分析し、時代の診断を書きとめることはできます。たとえ同時代からは白眼視されようとも、時代の気流には流されず、「正気」の人間がいたことを未来への記録として残すことが、文学の果たせるささやかな営みです。
わたしがオーストリア、東欧の文学を読むスタンスは以上のとおりです。
(ちなみに好きな作家はトーマス・ベルンハルト、エルフリーデ・イェリネク、エリーザベト・ライヒャルト、カトリン・レグラ(以上オーストリア)、エステルハージ・ペーテル(ハンガリー)、ドゥブラヴカ・ウグレシッチ(旧ユーゴスラヴィア)などです。日本なら、高見順でしょうか) |
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