洵美庵  國重游のホームページ 本文へジャンプ
洵美庵 日誌
2009年5月15日(金) 「女のシューベルト」at 松方ホール(神戸)
 
 四回シリーズで四人の女性ピアニストが、シューベルトの後期のピアノ曲を演奏するシリーズの第二回目。今晩はイリーナ・メジューエワさんの登場です。曲目はピアノ・ソナタ第19番、「さすらい人」幻想曲を中心に、リスト編曲によるシューベルトの歌曲など。
 このうちハ短調のソナタは、昨年京都で聴いたものですが、スケールが一段と大きくなっているように感じました。一般にシューベルトのピアノ・ソナタは第一楽章がメインで、後半のロンドやフィナーレは流して弾かれるような印象を持っているのですが、メジューエワさんは一楽章、二楽章、三楽章と進むにつれ、しだいに巨大な建築物がその全貌を現してくるように、四つの楽章全体の構成・構造を見晴らすような巨視的な視点から各楽章の解釈やテンポの設定、楽章間のパウゼの取り方を計算しているようで、聴き終えたのちに、ただただ圧倒されるばかりでした。
 「さすらい人」幻想曲も熱演。難曲をものともせずに、さすらう若者の内面を表現していました。アンコールの即興曲作品90-3も忘れ難い演奏。
 来月の京都大学交響楽団との共演(6/23)で、どんなラフマニノフを聴かせてくれるのか、ますます楽しみになりました。


2009年4月4日(土) ラ・ベルベーヌでランチ

 さいきん一人で食事に行くことが多くなりました。しばらく前に放映していた「結婚できない男」で、阿部寛がひとりで焼肉を食べていましたが、たしかにひとりの方が、自分のペースで食べられるし、次の皿が来るまでの時間を、先の料理の余韻と、次の皿への期待で、ゆったりと、幸せに過ごすことができます。
 シェフが作る料理と向き合う。それは孤独かもしれませんが、充実しています。おしゃべりしている間にお料理が冷めてしまうのは、いやなので、マイ・ペースが向いているのでしょう。
 さて今日の前菜は、田舎風パテ。グイっとくる濃厚な味わい。主菜はタイのポワレ、サフラン・ソース。鯛の身の火の通し加減が絶妙で、サフラン・ソースが香り高くも、鯛の身の甘味を邪魔せず、完成度の高い一品。ランチ2500円で大満足でした。サービスもよかった。
 年を取るにつれ、友達は減ってきましたが、こうして気心の知れた店で、くつろいで食事ができるぜいたくを手に入れたのだから、よしとしなければなりませんね。


2009年3月27日(水) 左川ちか

 『ムーンドロップ』第11号・特集左川ちか がようやく完成しました。早くから予告しておきながら、長いあいだ、お待たせしてしまった読者の皆さんにお詫び申しあげます。
 左川ちかという詩人の名前は、そんなに親しまれていないかもしれません。昭和初期、彗星のように一瞬輝いて25歳で病没したモダニスト。北海道出身で、最初は兄の友人だった伊藤整に文学の手ほどきを受け、東京に移ってからは、北園克衛らに才能を見いだされて、活動の場を提供されています。前途嘱望される女性詩人でしたが、病を得て命を落とし、戦中、戦後を経て、一部の熱心な読者をのぞいて忘れられた存在となっていました。
 左川ちかの作品は、詩集のかたちで、遺稿集(昭森社)と昭和五十年代に全集(森開社)と、二種類刊行されていますが、いずれも少数部で、現在入手が極めて困難です。そのため、今回の特集では、なるべく左川の詩を全篇引用するようにしました。これをきっかけに左川への関心が高まることを期待しております。
 『ムーンドロップ』に関するお問い合わせは、左のタブの「詩誌ムーンドロップ」をクリックしてご覧ください。


2009年2月22日(日) ゴレンステイン/京都市交響楽団   スクリャービン「交響曲第二番」

 本日は、マレク・ゴレンステイン指揮、京都市交響楽団の定期演奏会でした。前半は南紫音を独奏者に迎えてのチャイコフスキイ「ヴァイオリン協奏曲」。そして後半がスクリャービン「交響曲第二番作品29」。
 チャイコフスキイでも、ゴレンステインはオーケストラを細かくコントロールして、ヴァイオリン独奏附き交響曲のような立体的な演奏を聴かせてくれました。そして、お目当てのスクリャービンでも、心に残る名演を残しました。クラリネットやフルートの首席奏者の表情豊かなソロも特筆すべきですが、主題の展開に乏しいこの曲を自家薬籠中のものとして、オーケストラの音色を自在に変幻させ、「スクリャービンの世界」を現出させていました。そして金管のファンファーレも勇ましい第五楽章が終わると、満場の拍手。大好きなこの曲を、生で聴けて、先週に続いて感激です。(五月にはスクリャービンの一番が演奏されます)
 ゴレンステインさんは元はヴァイオリニストだったそうですが、左手の動きは、ムラヴィンスキイを彷彿とさせました。オルゲル・バルコンで聴いていたので、バトン・テクニックも堪能させていただきました。


2009年2月13日(金) 寺岡清高/大阪シンフォニカー  ローベルト・フックス「交響曲第三番」

 フックスの三番の交響曲と出会ったのが何年前のことか忘れましたが、一聴してたちまちフックスのファンになりました。ウィーンの楽譜書店ロビチェクで、この曲のスコアを手に入れたときの興奮。ロビチェクの老姉妹は、そのときぼくに「ウィーンのロマン派はブラームスが有名だけど、ブラームスはドイツの人。ほんとうはフックスこそウィーンのロマンティックな音楽家なのよ」と力説されました。そのときはカルテットのスコアも求めましたが、「いちばんのフックスの傑作はミサ曲。シューベルトのよう」と、わざわざ楽譜のコピーを無料で授けて下さったのでした。
 そのときのウィーン滞在の最後の日に、寺岡さんに手にしたばかりのフックスのスコアを見せました。「うーん、(オーケストレーションが)厚いな」というのが、そのときの寺岡さんの第一印象。
 月日が流れ、大阪シンフォニカーの「世紀末ウィーンの知られざる交響曲」シリーズで、フックスが取り上げられることになりました。もちろん日本初演。
 さすがウィーン在住の寺岡さんらしく、第二楽章の変奏曲のニュアンス付けや、第三楽章のロンドのテンポ感など、「まさにウィーン!」。第一楽章の繊細な第一主題の呈示にはじまって、この忘れられた名曲の魅力を、あますところなく引き出していました。トロンボーン三本とテューバという編成が、ブラームスの交響曲より分厚く響きますが、ブラームスのシンフォニーに全然負けていない。頻繁に演奏されてしかるべき名作です。
 それにしても、楽譜を手にしたとき、生きてこの曲の実演に接することができるとは夢にも思いませんでした。ただただ感謝です。
 ロビチェクはグラーベンの店をたたんで、移転したそうです。今日の演奏をロビチェクの老婦人たちにお聴かせできたら、どんなに喜ばれていただろう、そう思いながら帰りました。
 次回はツェムリンスキーの交響曲第二番。乗りのいい曲だし、今から楽しみです。できればヘルツォーゲンベルクのシンフォニーも聴きたいなぁ、というのは欲張りすぎでしょうか?


2009年2月1日(日) かりきりん&jaaja ライブat ザンパノ

        

 とても盛り上がったライブ。左は、ライブを終えた後の陽子ちゃんとあずみ嬢。

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2008年12月25日 ヴェトナム・ハノイ

 冬休みにヴェトナムに行ってきました。

      チャー・ガーです。


2008年11月24日(月) 林駒夫人形展 常寂光寺

 林駒夫さんとその一門の人形展を拝見するために、雨の嵐山を訪れた。人では予想通り多かったが、雨音と冷気が心地よく、厭ではなかった。
 常寂光寺を借りての展覧会、人形よりも、来ている衣装の方に目が行ってしまった。いいものを着てはる。屏風は三十六歌仙。観光客とは切り離されて、しばらくぜいたくな時間を味わった。
 山を降り、落柿舎の写真が下。二枚目は雨にけぶる天龍寺庭園です。

      

 この後渡月橋を渡り、青山音楽記念館バロックザールでデュパルクの歌曲のリサイタルを堪能して帰ってきました。


2008年11月16日(日) イリーナ・メジューエワ ピアノ・リサイタル

 今年のプログラムはシューベルトの即興曲と、シューベルトのピアノ・ソナタ第19番およびベートーヴェンのピアノ・ソナタ第32番を中心としたもの。
 シューベルトもよかったけれど、とくに感動したのはベートーヴェンの第二楽章。単純なメロディーから五つの変奏曲を紡ぎだすアリエッタ。途中で、ジャズのように派手な場面が終息した後も、曲はなお続く。ピアノからフォルテへとクレッシェンドしていくじっくりと立ち昇っていくプロセスに、人間ベートーヴェンの飽くなきチャレンジ精神を見た。
 ベートーヴェンといえば、敬して遠ざけてきたけれど、32曲のソナタを聴けば、一作ごとに趣向を変え、苦心に苦心を重ねてきた作曲家の執念を感じる。ソナタ形式の限界へ、そして発達中のピアノという楽器の表現力の限界へ。メジューエワの演奏は、そうした等身大のベートーヴェンの姿を浮き彫りにしていた。
 このことは、この演奏会から半月後に発売になったベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二集に収められた「ヴァルトシュタイン・ソナタ」を聴けば明らかになるだろう。ぜひみなさんの耳で確かめてほしい。


2008年10月24日(金) 長谷川健一ライブ @アヴァンギルド

 ハセケンの歌を聴くのは、半年ぶりだろうか? 思えば彼がネガ・ポジで歌っている頃からの付き合いだから、10年近い歳月が流れたことになる。その間に彼の歌声はよりまろやかに、広がりをもつようになった。詩も、初期の孤独感が迫る切羽詰まるものから、どこかしら優しい諦念をたたえたものに変わってきている。
 なにより彼の歌う表情の穏やかさはどうだろう……。今日の演奏は、これまで聴いた中でもハセケンのベスト・パフォーマンスだった。ハセケン、ありがとう。そしてみごとなサウンドを作っていたPAの茂一君の功績にも触れておきたい。
 もうじき父となるハセケンの未来が、よりいっそう輝きますように。

 


2008年9月7日(日) 続・インゲボルク・バッハマン再考

 8月20日の日誌で、バッハマンの文学における言葉の問題について触れましたが、晩年のアウシュヴィッツ訪問と関係して、次のような論点についても、考えてみる必要があるように思います。
 ヴァルター・ベンヤミンは、「経験と貧困」のなかで、第一次世界大戦からの帰還兵の姿を描いています。物言わぬ彼らの姿は、しかし戦場での惨劇を無言のうちに語っている/伝えている、と。アウシュヴィッツの表象の不可能性の議論が、しばらく前にたたかわされましたが、「表象しえぬもの」をしかし、本人(ある場合は「建物」であったり、「自然」であったりするかもしれない)が、意図せずして何をかを表象(representieren, darstellen, mitteilen)してしまっているという事態に、アウシュヴィッツを訪れたバッハマンは直面したのではないか? それは先日述べた「意味するもの/意味されるもの」という言葉の触媒作用を飛び越して、「筒抜け」のようなものではなかったか?

 これもあくまで仮説にすぎません。ただ、バッハマンが1960年冬、フランクフルト大学での詩学講義に、その最初の講師と招かれた時、アドルノとの濃密な会話があったわけですし、それ以前にツェランからアドルノの思想については聞いていたかもしれません。それを通じて、ベンヤミンの著作に触れる機会はあったと思われます。(ベンヤミンとバッハマンとの接点については、ジークリット・ヴァイゲル著『インゲボルク・バッハマン』参照)

 今日は一乗寺のラーメン店「つる橋」にて夕食。ここのご主人は元フレンチのシェフということもあって、日によっては真鴨からスープをとっています。(毎日、店の前に、その日のスープの中味が記されます) 今晩はさいわい真鴨のスープでした。濃厚で、かつ澄んだスープ。後味もさっぱりしていて、まさに絶品。「つる橋」のラーメンが、やはりいちばん好きです。この界隈には、「高安」「天天遊」という名店があって、ラーメン好きのぼくは、いつもぜいたくな悩みを抱えています


2008年9月6日(土) ボードレールとバッハマン

 バッハマンは、その修士論文『マルティン・ハイデッガーの実存哲学の批判的受容』の最後で、ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の最終命題「語りえぬものについては、人は沈黙せねばならない」と並べて、ボードレールの「深淵」(『悪の花』所収)を引用しています。たしかに「深淵」はパスカルの沈黙を題材にした詩ではありますが、『パンセ』からの直接の引用ではなく、わざわざボードレールのさして傑作ともいえぬ詩を引いて来ている理由が、ぼくには長いあいだ分りませんでした。
 もっとも「深淵」は、戦前のジョルジュ・ブランの研究以来、「創作に行き詰った詩人の苦悩」「人生の挫折を表白した作品」としては、注目されてきました。(ボードレール研究史については、山口威さんに教えていただきました)

 ところでモーリス・ブランショの『火の分け前』を読んでいて、その中の一章、「ボードレールの敗北」にぶつかりました。この章でブランショはくだんの「深淵」を全文掲げて、それに対するサルトルの実存主義的解釈がいかに誤っているかを論じています。さっそくサルトルの『ボードレール』を再読しましたが、このブランの著書に依拠した本に、「深淵」についての言及は見当たりません。おそらく雑誌に掲載され、『シチュアシオン』に収録されたのでしょうが、あいにく自宅には「Ⅰ巻」しかありませんので、学期が始まったら図書館で調べてみます。

 それはともかく、ツェランの後を追ってパリを訪れたバッハマンが、サルトルの論文や、ブランショの反論を目にしなかったとはいえません。このどちらか、おそらくはサルトルの方を目にしたバッハマンが、とくに「深淵」という詩に関心を持ったのではないでしょうか?
 ぼくの日誌は推測ばかりで恐縮です。まずはバッハマンのボードレール受容のその後について、今後調べてみたいと考えています。

 昨夜はYさんとHさんと、一乗寺のフランス料理店「ラ・ベルベーヌ」で舌鼓を打ちました。月に一度、「ベルベーヌ」さんで食事をし、ワインを楽しむのが習慣になりました。シェフのおかげです。


2008年9月3日(水) 正岡子規と田中亜美

 最初にお断りしておくと、田中亜美さんはぼくの知友ですので、その知友の作品についてHP上で言及することにためらいはありました。しかし、ぼくの目下のぼくの関心に鋭くスパークしているのであえて取り上げます。

 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

は人口に膾炙した子規の句です。柿を食べているのが子規自身なのか、そうでないのか。「柿を食べる」と「鐘が鳴る」の時間関係も曖昧で、この句の奥深さとも解されてきました。しかし、この句は決定的に「遅れている」。子規は鐘が鳴り終わった後、この句を事後的に書いています。もちろんそこに子規という「主体」が存在します。その意味でこの作品は近代的なものです。
 それに対して、田中亜美の近作、

 Norwegian wood 白夜の監視カメラ

は子規におけるがごとく事象に対する後づけ的な「名づけ」ではない。この句は、「すでに在った」もの、「現-在するもの」をそのまま句にしたものです。これは先日書いた「筒抜け」体験です。名詞をたんに投げ出したようにも見える田中の作品群は、ツェラン研究者の彼女らしく、「詩人のわたし」が解体した後の世界を生きています。直に事物と向き合う困難、そこに介在してくる「わたし」、「作者」という「解釈者」をいかに捨象できるか、というよりも、ツェランの場合を見ても分かるように、「ことばの伝声管」としての作者はすでに「壊れている」。そこから始まる詩の世界なのです。ツェランが植物の名前など、博物誌に強い関心を示していたことは、このことと無関係ではありません。固有名詞は、わたしが名づけるものではないからです。「すでに-あった」ものです(リンネまで遡ると話はややこしくなりますが…)
 名詞を多用する田中亜美の俳句も、おそらくはそうした心象の風景なのでしょう。句集の完成が待たれます。


2008年9月1日(月) 薄荷葉っぱ、Ett ライブinザンパノ

    

  「涙」をうたう陽子ちゃん            Ettのお二人、西本さんとKeiさん


2008年8月30日(土) インゲボルク・バッハマン再考

 ハントケとイェリネクに対する考察のつづきです。あくまでメモですが。

 バッハマンが生前最後に刊行した短篇集のタイトルは、『同時通訳』といいます。原語のSimultanは、「同時通訳」という意味のほかに、文字どおり「同時に」「時間をシンクロさせて」という意味です。表題作「同時通訳」の主人公は同時通訳で、国際会議で、さまざまな言語をドイツ語に翻訳しています。
 しかし、同時通訳が完全に「同時」であることはできません。それはつねに「遅れている」。ある言語が瞬時に別の言語に、なんの媒介なく、意味だけが伝達されることはありません。話し手が「空虚な主体」であることも不可能です。「声(フォネー)」だけが、「声」として存在することもできません。語られた言葉には、何らかの「志向性Intentionaltaet」が伴っているからです。そして主人公が憧れるのは、「純粋言語」「アダム言語」なのです。
 語り手、聞き手にかかわらず、たんに「意味(という表現を仮に用います)」が虚空に存在する状態。『論理哲学論考』のヴィトゲンシュタインは、「ことば」と「意味」が完全に一致する事態がありえると考えていました。もしくはそうした事態を想定して哲学しました。
 バッハマンは1960年の「フランクフルト詩学講義」のなかで、「モノ-言葉-ひと」の完全な一致を説きましたが、彼女の「不快」、創作上の課題は、じつはこの中から「ひと」を抹殺することではなかったか、と思いいたりました。どうしても介在してしまう「わたし」。言葉と意味の完全な一致を夢見る者にとって、邪魔でしかない「わたし」の抹殺。それが短篇「同時通訳」の「わたし」の嘆きであり、長篇『マーリナ』の「わたし」は、書きはじめた手紙を永遠に書き終えることができません。反対に、『同時通訳』所収の短篇「犬の吠える声Das Gebell」で、ヨルダン夫人は、遠くに聞こえる犬の吠え声から、瞬時に「意味(息子からの圧迫)」を聞きとりますが、フランツィスカには理解できません。この「犬の吠える声」が、純粋言語に近いのではないか?
 わたしがここまで書いてきたことは、あくまで推論、思い付きにすぎませんが、しかしだとすれば、バッハマンはヴィーン大学の哲学科の学生だったころから、晩年に至るまで、ヴィーン実証主義の忠実な弟子だったことになります。そして、ここで統合失調症における「筒抜け」という症例がただちに想起されます。「つつぬけ」に関しては、木村敏の弟子で、早世した長井真理の研究『内省の構造』がありますが、『マーリナ』の主人公は、マーリナに対して「つつぬけ」に苦しみます。
 この「つつぬけ」を転轍点として、ハイデッガーとヴィトゲンシュタインの言語観を、バッハマンは総合しようとしていたのではないか……。そんなことを考えました。

 以上の思いつきは、田崎英明さんの『無能な者たちの共同体』の、「私は見た」――声、イメージ、真理 および 非同時代性――再生産に抗して保たれるもの の二章からインスピレーションを受けました。

補足:「『思っていることがつつぬけになる』という体験は従来から思考伝播と呼ばれてきた。『つつぬけになる』ことが主に『人に知られる』という形で体験される思考察知にしろ、それが被害的色合いを帯びて体験される思考奪取にしろ、これらの体験はすべて、本来は自分に属するものであるはずのもの「何ものか」が不本意な形で他有化されるという事態である。」長井真理『内省の構造』(岩波書店、1991年) 
 「抜ける」ものが必ずしも「思考内容」ではないことから、「思考伝播(Gedankenausbreitung)」にかえて、「つつぬけ」という表現を長井は使っている



2008年8月26日(火) 現代ドイツ文学ゼミナール / 20世紀のオーストリアの小説 ハントケとイェリネク

 昨日、今日と信州の明日香村で現代ドイツ文学ゼミナールの合宿がありました。
 二日目の朝は、イェリネクの『恋人たち』と、ハントケの『ゆっくりとした帰郷』についての報告がありました。
 思うに、ともに「グルッペ80」に属していたこの二人、やはり20世紀オーストリア文学に通底する課題、すなわち言語懐疑と密接にかかわるかたちで創作をスタートさせたのだということを、再認識しました。

 物そのものにリアリティーがあるのか、そうではなく、ものを指す「ことば」の方によりリアリティーを見い出すのか、という問題は、古くから哲学や文学のテーマでしたし、ちょうどこの合宿に来る前に、北園克衛ら日本のモダニズムの詩を読んでいたところなので、ぼくにとってアクチュアルなプロブレマティークでした。『詩と詩論』をみると、「現実の把握」、「現実との強固な関係の構築」ということが大きな課題であったことが知れます。シュルレアリスムは、自然主義に対する、その方途だったのです。けれども、ブルトンらフランスのシュルレアリスムがそうであったように、その言語実験的な運動は、現実との乖離とすれすれのものでした。ですから、中から現実へのコミット、具体的には共産主義運動への参加に傾く詩人たちも出てきたのでした。

 さて第2次大戦後のオーストリアで起きた「ヴィーン・モデルネ」は、非政治的だといえます。ヤーンドル、マイレッカー、C.H.アルトマンらの詩は、あくまで言葉の持つ(はずの)リアリティーの探求であり、その解体でした。コンクレート・ポエジーが、チェコのハヴェルらによって、間もなく政治性を付与されたことは、ここでは割愛します。
 ハントケの『観客罵倒』や『カスパール』、イェリネクの『おれたちは囮じゃないぜ、ベイビー』(ロラン・バルトの「神話作用」に影響を受けたとされる)は、あくまでこの文脈で、まず捉える必要があるでしょう。二人はやはり、言語懐疑から出発したのです。
 その後のハントケの展開、ロード・ムービー的な『長い別れのための短い手紙』や、日常を淡々と描いた『左利きの女』などは、この原点からのハントケなりの自己の乗り越えであり、またイェリネクのインター・テクスチュアリティーや激しいナチス批判も、同様です。
 1976年生まれのカトリン・レグラさんも、去年ベルリンで会ったときに、「わたしもオーストリアの言語批判の伝統から自由でないのよ」と言っていたのを思い出します。彼女のスラングを多用したテクストは、日本語に翻訳不能なのが残念です。

2008年8月24日(日) 新しいカフカ短篇集(平野嘉彦訳、ちくま文庫)

 フランス料理の三國シェフは、「料理には塩辛さ、甘味、すっぱさ、苦味」から成る、ということを常々おっしゃっていて、そのコンビネーションが「料理」ということになるそうです。文学の楽しみとは、この四つの味覚を存分に楽しむことだと、ぼくは考えています。『ゴリオ爺さん』、『感情教育』、『アンナ・カレーニナ』などすべてそうです。ところが最近の小説は、ファスト・フードのような味つけで、刺戟はあるが、ゆっくり「味わう」には雑なように感じていました。
 ところが先日お会いしたとき平野嘉彦さんから、「ぼくはそんな料理、おいしいとは思わへん。塩味なら、ひたすら塩味しかせえへん文学の方がおもしろい」と言われて、意表を衝かれました。
 10年以上前、1990年6月、ぼくはポーランドのクラクフを旅していました。そこのカジミエージュ地区、かつてのユダヤ人街で、当時は労働者街で、ぼくは実際、本当に塩水としか思えないスープを飲んだことがあります。中には具のない水餃子のようなものが入っていました。肉体労働者には塩分補給は欠かせないのでしょうが、ぼくはそのスープを最後まで飲む乾すことができませんでした。その時の苦い体験を思い出しました。
 さて、平野さんが言っていたのは、具体的にカフカの作品のことです。これは、言い得て妙だ、と感心しました。かねてよりカフカの作品には生理的嫌悪を覚えることを公言していたぼくは、「やはりカフカは肌に合わない」と再認識し、ホッとしました。
 ところがそれからしばらくして、平野さんからちくま文庫のカフカ短篇集が届きました。これまでのアンソロジーと違って傑作選ではありません。書きかけの断片、スケッチも含め、時代順でもなく、たんに短い作品から長い作品へと按配しただけのものです。これが意外におもしろかった。それは「これがカフカ文学の本質だよ」と押し付けてくる感じがなかったからでしょう。ぼくは「ひたすら塩味だけ」の料理を堪能しました。最近読んでいるモーリス・ブランショの作品から(さらに二人の作家の名前を挙げるなら、サミュエル・ベケットとナタリー・サロート)、遡及的にカフカの作品を眺めているかもしれませんが、ようやくカフカの作品を身近に感じることができました。
 余談ながら、サロートを除き、ブランショとベケットの小説や戯曲は、二十歳前の学生時代さっぱり受けつけませんでした。今回、彼らの作品を再読し、ひどく若返ったような気分です。


2008年8月23日(土) 沼尻典幸/京都市交響楽団 ショスタコーヴィチ:交響曲第8番

 本日はあいにくの雨もよい。しかも開演の6時にかけて雨脚は強くなるばかり。そんななか、京都市交響楽団の定期演奏会に行ってきました。プログラムは、グラズノフのサクソフォン協奏曲と、ショスタコーヴィチの交響曲第8番。
 とくに後者での沼尻さんの指揮は鬼気迫るものがあり、この大曲を一気に聴かせてくれました。非常に密度の高い演奏で、緩んだところが一つもなかったのがすごい。もちろん、生演奏につきものの「傷」はありましたが、逆にこの曲をオーケストラ全体がミスなしで演奏するのがいかに難しいかをあらためて実感しました。いつもながらホルンのトップはすばらしく、また各パートもよくまとまっていたと感じました。
 終演後は、ホール近くのタイ料理・レストランで、パッタイを食べて帰ってきました。


2008年8月22日(金) 夏の終わり

 今年の夏は、梅雨らしい雨も少なく、六月から寝苦しい日がつづきましたが、ようやく少ししのぎやすくなりました。わが家の玄関に咲いた花の写真を一葉。

 


2008年8月7日(木) 地中池 「拾得」ライブ

 めくるめく変拍子。地中海を囲むさまざまな地方の音楽を取り入れた地中池の白熱のライブ。




 歌:下村陽子、サックス:亀ちゃん、アコーディオン:万里江さん、ベース: あずみ嬢


2008年7月29日(火) ふちがみとふなと 「拾得」ライブ

 今夜は「拾得」で、「ふちがみとふなと」のレコ発ライブ。アルバム名「ふなとベーカリー」にちなんで、二人ともパン屋さんの衣装で登場(あとで、「むしろ中華料理屋さんみたい」とおふうさんが言ってました)。
 やはりふちがみとふなとは生で聴くのがいいなぁ。もちろんCDだとエフェクターなど使って、声とコントラバスのデュオ以上の音楽を楽しめるのは確かだけれど、やはり舞台の上の二人を見ていると心が和む。渕上さんの声は、あのリリカルなトーンから、アップ・テンポの悪戯っぽい表情まで、ライブ会場の空気とともに味わいたいし、船戸さんの縦横無尽のベースさばきには、声も出ない。
 たっぷり二時間の充実したライブでした。アンコールに大好きな「坂をのぼる」も聴けたし。


2008年7月25日(金) 下田逸郎 「拾得」ライブ

 下田さんの声は、ほんとうに艶っぽくて惚れ惚れしてしまいます。女性客が多かったのも納得できます(? )。たしかに、下田さんの詩は、女性の側から恋心を描いたものが多いですね。もちろん男唄も素晴らしい。SEXYなど、そうしたリリカルな世界と同時に、ユーモラスな歌、また世間を痛烈に風刺する唄まで、下田さんの音楽は懐が深い。ギターもうまい。安心して聴いてられる、などと言ったら、本当に失礼なのですが…。
 この間、飲み屋さんでご一緒したとき、ぼくが40歳を前にして迷いが多いというような話をしたら、「気負っちゃダメだぞ。スルっとかわさなくちゃ」と言ってくださったのが、とてもありがたかったです。


2008年6月9日(月) 薄花葉っぱ 「まほろば」ライブ

 前日8日の「拾得」につづいて、今日はまほろばでのライブです。両日とも、最近は「ザッハトルテ」の活動で多忙なギターのウエッコが参加していることが、ファンには嬉しい。さすがウエッコが入ると、曲にメリハリが出ます。陽子ちゃんの声は、いつもながらに伸びがありした。この日は東京から岡啓太君もやって来て、気風のいい歌を聴かせてくれました。ライブが終わった後も、ほぼ徹夜でみんなで宴会をしました。楽しい一夜でした。

    


2008年4月26日(土) 「庭園」 詩の朗読会 at 駒井家住宅

 浅山泰美さんが主宰されている詩誌『庭園』に、拙詩を掲載していただいた御縁で、登録文化財である駒井家住宅での詩の朗読会に参加させていただきました。自作の朗読以外にも、参加した七人の詩人が即興で連作詩を作るという試みも行われ、緊張しました。即興詩のためのイメージをふくらませるために、開始前お庭を散歩させていただいたときに撮影した写真です。会は定員を超える30名もの方の参加を得て、なごやかに行われました。


    




2008年4月25日(金) 扉野人『ボマルツォのドングリ』出版記念会 at カフェ・ザンパノ

 尊敬する友人であり、飲み友だちの扉野さんの最初の本が晶文社から出版されたのを祝って、友人たちで出版記念パーティーを開きました。スピーチはなし。そのかわり、薄花葉っぱのメンバーたちによる音楽。とりわけ扉野さんが力を注いでこられた『きりん』(小学生の手による詩を集めた雑誌)の詩から下村陽子さんと宮田あずみさんが歌った歌が素晴らしかった。
 会場は扉野さんの詩の仲間、古本仲間、音楽仲間そして飲み友だちで溢れ、大盛況でした。
 肝腎の『ボマルツォのどんぐり』は、主に扉野さんと本との出会いを契機に書かれたエッセイからできています。冒頭の永田助太郎ら日本のモダニズム詩人への愛着、そして後半の、川崎長太郎や加納作次郎ら扉野さんの愛する作家たちの足跡をたどる旅の記述は、気取ったところが少しもなく、扉野さんの人柄そのままに謙虚な文体で、読む人を惹きつけます。
 扉野さん、おめでとう!



2008年4月20日(日) 金時鐘 『再訳 朝鮮詩集』 シンポジウム

 大阪で行われた、金時鐘先生の手による『朝鮮詩集』(岩波書店)の刊行を記念したシンポジウムに行ってきました。この『朝鮮詩集』は、もともと植民地支配下の朝鮮の詩を、金素雲が達意の日本語に訳したものが基礎になっています。植民地支配が激烈になるにつれ、朝鮮での朝鮮語の使用は禁止されていき、金素雲は「あと十年もすれば、朝鮮語を話す人がいなくなるかもしれない」そういう痛切な危機感のなかで、せめて日本語にしてでも朝鮮の詩情を後世に残そうとしたのでした。
 しかし白秋まねびのあまりにも情感豊かなその訳文は、原文本来のおもむきを殺いでしまった感があります。そこで今回、金時鐘さんが、原詩を発掘し、新たに朝鮮語から再訳されたのです。(そこにはもず工房の野口豊子さんはじめ多くの方々のご努力があったことも書き添えねばなりません)
 金時鐘さんの記念講演の内容を容易には要約することはできませんが、以下簡単にスケッチを試みます。

――8月15日、自分は何から解放されたのか?という問をずっと抱えてきた。自分にとっての解放は、自分の精神秩序を作り上げてきたいびつな日本語(金さんは1929年生まれ)から解放されることであろう。その日本語とは幼い心に沁み入ってきた動揺であり、歌であり、つまり情緒的な日本語の音韻である。
 この情感あふれる音韻による日本語の童謡は、南方で無辜の人びとを殺した兵士を慰め、罪悪感を消してきた、人を殺してもなんとも思わない、他者を疎外する唱に他ならない。
 そこで自分は、人の心をほださない歌、情感・情念がなめらかにすべらない詩を書こうとしてきたのだ。一度聴いたら、人の心に何かが居座ってしまい、聴き逃れることができないような詩を。それが現実認識の変革としての詩ではないか。

 拙い要約ですが、おおよそ上のようなことを語られました。もちろん、小野十三郎の「短歌的抒情批判」、「抒情と情感は異なるもので、抒情とは批判である」ということも語られましたが、惜しいことに時間がきてしまい、深くは語られませんでした。また金さんの評論を読むしかありません。
 今回の訳業は初出の『䜌』にさらに手を加えられた偉業です。金先生、ありがとうございます。





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2007年12月24日(月) イリーナ・メジューエワ クリスマス・コンサートin横浜

 大学の授業が終わり、しばらく東下しました。
 その折、運良くメジューエワさんのリサイタルを横浜で聴くことができました。曲目は、前半がシューマン、ドビュッシー、チャイコフスキイ、メトネル、後半がショパンの「バラード」全四曲という、聴きごたえのあるものでした。
 あらためて感心したのは、メジューエワさんの弱音のきめ細やかさから、強い音の力強さまでの表現力の幅の広さ。そして同じピアノ(弱音)であっても、たいへん繊細なピアニッシモもあれば、えもいわれぬやさしい音色のピアニッシモまで変幻自在なのです。フォルテにおいても然り。この表現力の幅が、とくにショパンでは活きていたと思います。
 またホールの客席が半円形で舞台を包むようで、お客さんが一心にメジューエワさんの演奏を聴きいっている姿がみえ、客席の一体感という点で、いい気持で演奏を楽しむことができました。


2007年12月9日(日) 落ち葉

 ぼくの家から出町柳駅まで、下鴨神社の境内を抜けて、歩いて約20分ほどです。いまは紅葉が終わり、落ち葉の季節となりました。一面に散り敷いた落ち葉を踏みながら、出勤しています。

 

 「落ち葉」といえばリルケの『秋』という詩を思い出します。小島衛先生の名訳で掲げておきます。

  葉が落ちる、どこか遠いところから落ちてくる、
  空の奥はるかの園が涸れおとろえているように、
  拒むように身を振りながら落ちてくる。

  そして夜ごと重い大地は沈んでゆく、
  星群れのあいだから孤独の深みに落ちてゆく。

  私たち皆が落ちてゆく。この手も落ちる。
  視よ身のまわりのものを、すべてのうちに落下はある。

  しかもただ一人の者は在る、この落下を
  限りなく優しく双の掌に受止めるただ一人の者は在る。

 この詩は、リルケの作品の中でもとくに好きなひとつですが、学生時代、恩師・内藤道雄先生が、こんな「誰かEiner」なんかいるように思っているリルケは甘い、とくさしてらっしゃったのを懐かしく思い出します。若かったぼくも、リルケより、トラークルやハイムを読みましたが、この歳になると、リルケの肯定的な世界観もいいなぁ、と思うようになりました。



2007年11月28日(水) オクノ修さん

 今夜はライブハウス「磔磔」で、オクノ修さんのライブでした。修さんのライブを聴くのは7月以来。
 もとより、そんなに頻繁にライブをされない上、目下、持病の肝炎の治療中なので、治療あけの来年まで歌は聴けないかと思っていました。ですから、今回のライブをとても楽しみにしていました。
 そして期待にたがわぬ演奏になりました。スロー・テンポの曲をしみじみ歌う場面が多かったですが、これがいつにもましてすっぽりツボにはまった感じです。ベースの船戸さんのサポートもさすがです。
 この日は、レコ発ライブでもあり、今まで入手困難だった修さんの北海道でのライブをおさめたディスクをさっそく購入。きれいな音で、かつご本人もおっしゃっているように、入魂の演奏。もう一枚、過去の音源を集めた方は、修さんの声と演奏スタイルがどんな風に変化してきたのか知るうえで貴重。個人的に大好きな「ぼくは残り3マイル」が収録されているのもうれしい。


2007年11月24日(土) Ett、さかな in 名古屋

 Ettとさかなが、対バンすると知って、名古屋のライブ・ハウス、K.D.Japonにお邪魔しました。鶴舞駅の近くです。
 Ettもさかなも旧知のバンドで、Ettの西本さん、さかなのポコペンさん、それに薄花の陽子ちゃんを加えた三人は、いまぼくのなかで必ず聴いておきたい女性ヴォーカリストです。(それに男声のオクノ修さん)
 期待にたがわぬすばらしいライブでした。
 Ettは、スロー・テンポの曲を中心に、持ち前のリリカルな世界を展開していました。ケイさんのギターも最高ですね。
 西脇さんとポコペンさんのお二人のギターと、ポコペンさんのヴォーカルによるさかなの、大胆で緻密でかつ繊細な音楽には、ただただうっとり聴き入るばかり。今回、前の方に座れたので、最近のさかなのメトロノームのような音の秘密が分かりました。ポコペンさんがタップ・シューズを履いて、リズムを取っておられたのですね。この二本のギターの交差は、まるでバッハのインヴェンションを聴いているようでした。
 おおいに会場が盛り上がり、終演は10時半。なんとか新幹線の終電に間に合って、京都に帰ってきました。親切なライブ・ハウスのスタッフの方に感謝です。


2007年11月16日(金) 薄花葉っぱ in 拾得

   熱唱する陽子ちゃん in 拾得

 薄花葉っぱは、いまや京都を代表するバンドの一つになりました。今日はそんな彼女らの「拾得」でのライブです。ギターのウエッコは、東京でのレコーディング(ザッハ・トルテ)のため、お休み。したがって、「女子部」による演奏です。
 今年に入って、ヴォーカルの陽子ちゃんの声にますます艶と伸びが出てきたように感じるのはぼくだけでしょうか? この日は風邪をひいていたようですが、本番になるといつものような力のある歌声を聴かせてくれました。
 ライブが終わって、友人たちと話をしていたのですが、薄花のフルメンバーのときと、女子部(ヴォーカル・下村陽子、ピアノ・坂巻さよ、ベース・宮田あずみ)だけのときでは、別のバンドと考えた方がいいという意見にまとまりました。女子部の三人だけだと、各パートがそれぞれよく聴こえて繊細な音楽になります。ギターのウエッコが入ると、リズム感が加わり、よりパワフルになります。
 今後のいっそうの活躍に、期待が高まりました。


2007年11月11日(日) 京都のイリーナ・メジューエワ

 今日は京都にピアニストのイリーナ・メジューエワさんをお迎えしてのリサイタルです。今年で二年目になります。
 プログラムは、ベルクのピアノ・ソナタ、ブラームスのバラード 作品10、そしてシューベルトのピアノ・ソナタ第20番イ長調 D.959です。
 冒頭のベルクから、常ならぬ凝縮した宇宙が、小さなホールに広がりました。晦渋なブラームスのバラードも、固唾を呑んで聴き入りました。圧巻はプログラムの後半のシューベルトで、ともすれば構成が散漫になりがちなこの大曲を、みごとに纏め上げた手腕は尋常ではありません。
 わたしたち聴衆も、一瞬たりと途切れぬメジューエワさんの集中力に引きずり込まれたかのように、一心に音楽に耳を傾けていました。2時間の演奏会でしたが、ぼくは何年もの人生を体験したかのような、濃密で充実した時間を過ごし、演奏会が終わっても、しばらく呆けてしまいました。

 打ち上げの席で、メンデルスゾーンの「無言歌」の録音で、マリヤ・グリンベルク、そしてメジューエワさんご自身も選曲に短調が多いですね、と申すと、ロシア人は短調の方が好きなのです、とのことでした。またロシアではシューベルトが好まれる、ともおっしゃっていました。民族性で説明することは難しいですが、シューベルトのメランコリックな要素がロシア人の琴線に触れるのかもしれません。グラズノフやタニェーイェフも息の長い旋律を書いていますし。。。これは酒席での思いつきですが。


2007年8月26日(土) カウナスにて

 レヴィナスの生家のあたりを散策してきました。もちろんナチスの侵攻、そしてソ連時代のユダヤ人迫害によって、当時の面影はまるで残っていません。レヴィナスの父が営む文具店があったカフェ・チューリップは、地元のインフォメーションで訪ねると、数年前に靴屋に変わったそうです。戦前からソ連時代、そして独立によってアメリカナイズされた歴史あるカフェも閉店に追い込まれたようです。シナゴーグの方は現役で、ユダヤ人も戻ってきているそうです。




  レヴィナスの住居があった通り


  レヴィナスの父が営んでいた文具店の跡。
一階は数年前まで、地元で有名な『カフェ・チューリップ』だった。


2007年8月24日(木) アウシュヴィッツ・ビルケナウ

 朝ワルシャワを発って、クラクフ経由でアウシュヴィッツへ。そしてビルケナウ(ブジェジンカ)。
 何もない平原に今も残るバラック、崩れたガス室跡、死体の灰を埋めた池。芝の緑、青い空。言葉を失う。


  ビルケナウ絶滅強制収容所跡。


  トレブリンカ絶滅強制収容所跡。


2007年8月22日(火) ワルシャワ

 細見和之さんと、西成彦ゼミの院生で、クラクフのヤエギウォ大学に留学している田中さんの三人で、宿泊しているホテル・マリアの近くにある Umschlagplatzからワルシャワの旅は始まりました。ここから、ワルシャワ・ゲットーに住むユダヤ人の多くがトレブリンカ絶滅強制収容所に移送されていったのです。いまは白い壁で囲まれた記念碑になっていました。
 そこから1942年のワルシャワ・ゲットー蜂起で、最後まで抵抗した人々が立てこもっていた建物、実際は武器もなくただナチスに発見されないように息をひそめていたものの、ついに地下室に毒ガスを投げ込まれ自殺に追いやられた建物まではすぐでした。
 もちろん周囲はこの蜂起で徹底的に破壊され、いまは静かな住宅街になっています。当時を偲ぶものはありません。その中から当時の地図を頼りに、ここが最後の拠点だったろう場所(ミワ通り)をつきとめたのです。はたしてその場所は、そこだけが四角く芝生で囲われた広場になっていました。しばらくぼくたち三人で佇んでいると、若者の集団がやってきました。聞けば、イスラエルから来た学生とのこと。どんな話を先生から教わるのでしょう?
 西ドイツのブラント首相がぬかずいたワルシャワ・ゲットー蜂起記念碑の前にも、大型の観光バスが何台も。イスラエルからのツアーのようでした。

 ユダヤ人の強制移送の命令書


2007年7月8日(日) 歴史/物語論争

 ある研究会で、歴史学を専攻されている方とお話する機会がありました。彼女によると、歴史学では、「過去を忠実に復元する」ことが学界の主流を占めているとのことでした。
 ところで文学研究に関していうなら、「作者の意図を忠実に再現する」ことは、もはや研究の主たる眼目ではありません。ロラン・バルトやジュリア・クリステヴァ(を通して紹介されたミハイル・バフチン)の文学理論の成果でしょう。
 「作者の意図」など再現できないし、そもそも「作者の意図」なるものが存在するかもあやしいからです。
 『読書という行為』でヴォルフガング・イーザーも主張しているとおり、作者の「正しい」意図が解明されたなら、読書という行為は終わってしまうのでしょうか? ぼくは現代文学を研究しているので、作家ご本人を前に研究発表をすることが何度かありましたが、作家に「わたしの書きたかったことは、あなたの言うとおりだ」と言われれば、それが「正解」なのでしょうか。
 文学研究では、むしろ、いかに豊かな解釈の可能性があるかを指摘することの方が、当たり前になってきています。けれども「言語論的転回」のあとも、歴史学や、文化人類学ではいかわらず「事実」が前提とされており、それを客観的に再現することが重視されているようです。歴史哲学を研究する者は異端視されていると聞きました。しかし、あるトピックを「再現する」という振る舞い自体がすでに主観的であり、言葉をもって再現する以上、それは「物語」であることを避けられません。

 だからといって、まったく好き勝手な、恣意的な読み方が許されるわけではありません。「一冊でわかるシリーズ」の『歴史』においてジョン・H・アーノルドは、「《大文字の真実》を放棄することと、正確性および細部の吟味をやめることは同じではない」、と述べていますが、そのとおりだと思います。「単一的な歴史という考え方を放棄することは、出来事についての説明が同じ正当性を持つという絶対的な相対主義につながるものではない」(新広記訳)


2007年6月16日(土)  ナチズムと「健康」

 梅雨に入りました。京都では、梅雨入りした木曜日にまとまった雨が降ったきりで、その後はまた晴れです。その前の週末に、はげしい雷雨がありましたが、そちらの方が恵みの雨となったようです。

 今週のドイツ文化史の授業では、ヴァイマール共和国の話をしました。そして映画「カリガリ博士」と「嘆きの天使」を少しずつ観ました。「カリガリ博士」は、セットが抽象美術のようで、家具や建物が装飾を排し、デフォルメされた直線によって構成されています。それは、この映画のテーマである「狂気」とも深く関係しているのでしょう。第一次世界大戦後のヨーロッパで、何が「正常」で、何が「異常」なのかが、定かではなくなり、あらためて問われていたのでした。ブルトンらのシュルレアリスム運動など、その例です。
 ナチス政権の一つの特徴は、「健康」と「異常」を峻別し、「異常なもの」を徹底的に排除したことです。肉体的健康だけでなく、精神的、思想的、人種的などさまざまな「不健康」を根絶やしにしようとしたのでした。さまざまな人に対して「断種手術」が行われたことが今日では知られています(もっとも断種手術を施した国はドイツだけではありません)。
 その意味で、「カリガリ博士」の前衛芸術の世界は、「頽廃」であったのです。



2007年6月12日(火) 散歩

 授業のない日、大学教員は家で何をしているかというと、本を読んでいるか、論文を書いているかです。長時間、机に向かうぼくにとって、散歩は欠かせない日課です。散歩、といっても家の近所をまわるだけですが。下鴨神社も散歩コースです。
 一仕事終えた夕暮れ時の散歩では、どこかの家から夕飯のにおいがただよってくる。それは子供の頃から変わりません。また、あるお宅ではピアノの練習をしていて、何年前かはベートーヴェンの簡単なソナタを練習しているのがよく聴かれましたが、今はシューベルトの即興曲第三番 変ニ長調と格闘中。
 下の写真はあるお宅の土塀をこえて咲き誇っていたバラの花の写真です。


     


  さらに近づいてみると……


    


 背の高いバラの花です。



2007年5月23日(水) 現代オーストリア文学、ハンガリー文学

 先日(「東欧史研究会」)の補足です。参考までに、オーストリアとハンガリーのケースも挙げたいと思います。
 友人の作家レオポルト・フェーダマイヤーに以前、「どうしてオーストリアの作家はみんなシュティフターが好きなんだろうね?」と訊ねたところ、「ほかに19世紀にオーストリアに小説家はいなかったから」との答え。たしかにシュニッツラーやツヴァイク、ムーシルやブロッホ、ホーフマンスタール、ヨーゼフ・ロートは20世紀の小説家です。そしてハプスブルク帝国が崩壊し、旧帝国内のドイツ人居留地域(南ティロルを除く)が「オーストリア共和国」という、人工的な国家として成立しました。
 現代のオーストリア文学の担い手、トーマス・ベルンハルトやペーター・ハントケ、一昨年のノーベル賞受賞作家エルフリーデ・イェリネクの作品は、オーストリアで読まれているとは言えません。彼女らの作品を「オーストリアを代表する文学作品」として日本に紹介することには矛盾があります。

 ハンガリーについても、エステルハージ・ペーテルやケルテス・イムレ(彼もノーベル賞受賞者)が傑出した書き手であるにせよ、エステルハージはそのペダンチックな文体によって、ケルテスはユダヤ系であることが理由で、ハンガリー国内では冷遇されているのが現実です。(しかし彼らは「西欧」で絶大な評価を受けている)



2007年5月21日(月) 東欧史研究会

 昨日は、東京・本郷で開かれた東欧史研究会に参加してきました。先日亡くなった、ユーゴスラヴィア研究のパイオニア、田中一生さんのお仕事を振り返りながら、東欧文学の紹介のあり方について熱い議論がかわされました。
 日本の多くの人にとって、東欧の国々はなじみの薄いものでしょう。それらの多様な文化を、いかに日本に翻訳・紹介すべきか? いきおい東欧諸国の「国民文学」と目される作品をまず紹介することになるのでしょうが、はたしてそれでいいのか。
 というのも、19世紀来のナショナリズムの勃興の中で紡がれた作品、たとえばポーランドのミツキエヴィチやハンガリーのペテフィ、モンテネグロのニェゴシュの詩は、母国で愛唱されるのと同じ共感をもって日本で読まれることは、歴史的バックグランドを欠いている日本では不可能でしょう。
 また二十世紀に入ってから「近代化」がはじまったバルカンでは、西欧のリアリズム小説に影響された作品もその頃現れましたが、バルカン諸国に近代的/西欧的な「国民」という概念はそぐわないものである上、「国民文学」という発想が、多分に「西欧的」なイデーである以上、バルカンでそもそも「国民文学」が成立しえたのか? という問は残ります。
 事情をさらに複雑にしたのは、第二次世界大戦後の共産主義体制です。そこで「建国物語」とリンクして文壇を席捲した「社会主義リアリズム」の文学が、はたして東欧の実情をどれだけ反映したものかどうか……。
 土着的な「国民文学」(近代的発想による)あるいは「伝承文学」(前近代に連なる)を、地域文化紹介として地道に翻訳していく作業も必要でしょう。けれども文学作品は、その国の「アイデンティティー」を示しているわけではありません。
 現代の作家たちは民族や言語を飛び越えたところで、先鋭な仕事をしています。東欧の作家たちは、近代西欧から押しつけられた規範を、逆に解体しているともいえます。だからウグレシッチを「クロアチアの作家」に還元して読めば貧しい結果しか生まれません。ダニロ・キシュの作品もナショナルな視点を超えたところに立つ傑作です。
 こうしたアンビヴァレンスをいかに乗り越えていくかが、現在の日本の東欧研究の課題の一つではないでしょうか。田中一生さんはユーゴ文学の「王道」、アンドリッチの翻訳・紹介に努められました。東欧の紹介の難しさを実感した一日でした。



2007年5月5日(土) 祝 カフェ・ドレクスラー 再開

 ウィーンの友人からうれしい知らせが届きました。
 ナッシュ・マルクト近くの老舗カフェ、ドレクスラーが営業を再開したというのです。
 二年前の秋にウィーンを訪れた際は、ちょうど閉店したばかりだったようで、たいそうがっかりしたものです。
 それというのも、このカフェはコーヒーもさることながら、お昼の食事がたいへん美味しかったからです。
 供されるのは、どれも地元ウィーンの素朴な家庭料理。手書きのメニューに書かれているお料理の名前を読み取るのも一苦労でしたが、味は文句なしでした。(ただし、濃い料理が多いので、好き嫌いが分かれると思います。)
 ここのオーナーは、ずいぶんお年を召した方で、よく店内に仕事をするでもなく掛けておられました。
 テアター・アン・デア・ヴィーンからも近く、またマリアヒルファー通からも遠くないのですが、観光客は滅多に来ません。もちろん英語のメニューなどもありませんが、本場のウィーン料理をためしてみたい方は、一度訪れてみてはいかがでしょう。
 下の写真は閉店前のものですが、新規開業してどんな風になっているか、次にウィーンに行ったときは、まっ先に出かけてみたいと思います。

    ビリアード台もありました。値段も良心的です。



 2007年4月30日(月)

 京都生まれで京都育ちのわたしは、幼い頃から海への憧れを抱いていました。
 福永武彦は、「海の想い」というエッセイのなかで次のように書いています。
              *
 海のイメージは名状しがたい憧れを伴って、私の魂に巣くっていた。無限なもの、人間の力の及ばないもの、あらゆる汚濁を洗いしずめるもの、――そしてまた不可知なもの、それはひょっとすると人間的な絶望とあまりにも隔たりがあり、あまりに大きすぎるが故に、私を慰めてくれたのかもしれない。
              *
 福永武彦の「海の想い」と、わたしも同じ想いを抱いています。

 何年か前の連休中、ひとり丹後・網野町に旅したことがあります。ひねもす本を読んだり、原稿を書いたり、それに飽きると海岸を散歩しました。下の写真はそのときのものです。


 今年の連休は、自宅で原稿を書いています。また、いつか雄大な海(日本海)の見える宿で、ゆっくりと時間をすごしたいものです。