伝蔵荘日誌

【伝蔵荘日誌】2020年2月14日: 言語能力と知性、知能の相関 T.G.

 例えば「一炊の夢」という喩えがある。この古い支那の故事をいつどうやって憶えたのか記憶にない。

 つらつら思い出すに、小学6年生の時、学芸会の劇で芥川龍之介の「杜子春」をやった。なぜか小生が主人公役の杜子春に選ばれた。別に演技が上手かったわけではなく、成績が良い優等生だったからだろう。演劇の経験はこれが最初で最後である。物語のあらすじは、唐の都洛陽の若者、杜子春が、仙人から幻術を授かる条件に無言の行を言い渡される。ありとあらゆる苦難に耐えて無言を貫くが、最後に地獄に落とされ、閻魔大王の前に引き出された亡き父母が、目の前で切り刻まれ、苦しむ姿を見て、思わず「お母さん」と叫んでしまい、幻術修行不合格になる。落胆して目が覚め、一炊の夢の中の出来事だったと悟る話である。

 与えられた杜子春役の練習中、幾分マザコン気味だった自分が、皆の前で「オカアサン」と叫ぶのが気恥ずかしくて、なかなか声が出なかったのを憶えている。学芸会の当日、片親で普段は仕事が忙しく、学校などに足を運んだことがなかった母が見に来た。舞台で演技する息子が「お母さん」と大声で叫ぶシーンを、涙を流して喜んだと姉から聞かされた。劇の主役をするくらいだから、当然「杜子春」は芥川の原作を読んでいたのだろう。70年ぶりにインターネットの青空文庫 で読んでみたが、いくら昔話とは言え、文豪芥川龍之介の洒脱な名文と言い、物語の寓意と言い、小学6年生にはかなり難解な作品である。今より昔の義務教育の方がレベルが高かったのだろうか。この物語はまさしく「一炊の夢」の故事をテーマにしたものだが、おそらく自分はこの難しい言語表現をこのときに憶えたに違いない。

 この日誌でも、子供の頃からそうやって習い覚えた難しい熟語や文章表現をしばしば使う。先だっての日誌でも、コロナ肺炎中国のいかがわしさ、妖しさを「魑魅魍魎が跋扈する不気味な国」と書いたが、こんな難しい単語や漢字の読み方をいつどうやって憶えたか記憶にない。少なくとも学校では教わらなかった。おそらくなにかの本で読んだのだろうが、「チミモウリョウ」や「バッコ」などという読み方はどうやって知ったのだろう。誰かが口に出して話してくれたものを聞き覚えたのだろうか。もちろんこんな難しい漢字を書いて憶えたわけでもないし、今でもパソコンのATOKがなければ書けない。そうだとするとこの難度の高い書き言葉をどうやって憶えたのだろうか。

 ほかにも子供の頃憶えた好きな言い回しが沢山あって、しばしば日誌にも使う。例えば「栴檀は双葉より芳し」と言う格言である。栴檀という香木は芽が出たばかりの双葉の頃からいい香りがすると言う意味で、可愛い孫娘が赤ちゃんの頃から美人の相があるという喩えに使った。しかしこの蘊蓄のある格言をいつどうやって憶えたのか記憶にない。栴檀という木も知らないし、そもそも「センダン」という読み方も知らなかった。なにかの本に書いてあったのだろうが、その意味や読み方を誰かに教えてもらった記憶がない。ほかにも「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」と言う古い孝経の教えがある。好きな言い回しの一つだが、どこでどう憶えたのか記憶にない。

 話し言葉や書き言葉はすべて模倣である。人の話し言葉を聞き、書き言葉を読んで憶える。まったくオリジナルな言葉や文章表現はない。赤ん坊は母親が語りかける声を聞いて言葉を覚える。幼児は絵本で文字と書き言葉を憶える。会話力や文章力、ボキャブラリはすべて模倣で蓄積される。人間の思考や論理はすべて文章化出来る。文章化出来ない知能や知性はない。文章力が知性そのものである。そういう意味で子供の頃からの読書や会話の蓄積が人の知性、知能を左右する。自分は読書好きだが、元来が理科系の数学科で、読書量はあまり多い方ではない。ほとんどは小学校の図書室の少年少女文学全集から始まり、中高時代に好んで読んだ文学全集で終わっている。大学以降は専門書や仕事のマニュアル以外ほとんど読んでいない。せいぜいが新聞と雑誌である。つまり当方の言語蓄積は小中高時代に終わっていて、文章力もボキャブラリも知能レベルもそれに準じている。

 最近の子供は(大人も)ほとんど本や新聞を読まない。だから文章を書かせると実にへたくそだ。本が売れないから町の本屋がどんどん潰れ、スマホショップになっている。やる事がないので誰しも日がなスマホをいじっている。以前は電車の通勤客は例外なく新聞や本を読んでいたが、今はスマホしかみかけない。スマホで読む文章はたかが知れている。短くて内容や論理ががほとんどない。だから最近の子供は(大人も)3行以上の文章で書かれた文章や試験問題を理解出来ない。子供にスマホを与えると偏差値が10下がるという。マニュアルも長ったらしい文章で書くと誰も読まないので、短く箇条書きにしている。だから手違いがそこら中で起きる。今の新型肺炎騒動がそれだろう。世の中が進歩すると人間の知能、知性も向上すると思っていたが、どうやらそうではないらしい。

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