伝道小説『なぐさめ』

前書き

日本では、「癩(らい)」の呼び名に関して、
あまりにも差別と偏見が強いために、
ハンセン病が公用語になっていますが、
「慰め」では、歴史上の用語として、
あえて「癩(らい)」という呼び名を使用しています。
このような選択をしたことを読者の方が、
ご了承下されば幸いです。


ハンセン病は、
現在の医学では恐ろしい病気ではなく、
外来治療で完治することができます。
また、感染力も非常に弱く、
健康な成人には感染することはありません


聖書のみことばは、
新改訳聖書第二版から引用しています。

『慰め(なぐさめ)』の登場人物である、

ミス・ユニケは、ミス・エダ・ハンナ・ライトを

ミス・ロイスは、ミス・ハンナ・リデルを

ミス・ハンナは、ミス・フリースを
モデルにさせていただきました。


『慰め』 目次

第一章 マリヤ

第二章 短生園

第三章 高価で尊い

第四章 慰め

第五章 母

第一章 マリヤ

昭和11年11月10日。
瀬戸内海の孤島で、嵐の中、父に望まれずに、
一人の女の子が誕生した。

昭和36年11月24日。
熊本の小さな病院で両親の愛を受けた、
一人の男の子が産声を上げる。

1998年12月20日

快晴であった。
国際空港からパース市内へ向かうバスに揺られながらも、
信士の心は空っぽであった。
何かに追い立てられるようにオーストラリアに来た。

ただ、それだけであった。
そう思いたかった・・・。

二十歳の時、単身アメリカへ渡り、
職を転々としながらも何とか生きてきた信士であったが、
金を求めるあまり、いつしか犯罪に手を染めることとなる。

半年間の刑期を終え、運命から逃れるようにパースに来た。

マリヤの故郷であるパースに。

マリヤは、信士がお気に入りであったカフェのウェイトレスをしていた。
ダンサーになるのを夢見てアメリカに来たと。

信士は、不思議でならなかった。
初対面の時より、何かが、心の奥底にある何かが、
マリヤといると顔を出す。
それは、信士にとって、とても心地よいものであった。
刑期を終え、カフェに行ったが、マリヤの姿はなかった。
父親が急病のため故郷のパースに帰ったらしい。

― シャトルバスはパース市内に到着した。 ―

あてのない信士は、ふらふらと、足のおも向くまま歩き出した。

気が付くと、目の前に湖があった。
湖までの、道のりを全く思い出す事ができない。
信士には、ぼやけた記憶だけが残されていた。
生きる気力を失っていた信士は、
記憶の曖昧さを覚える自分を知った。

「ここは・・。」

レイク・モンガ湖という看板が見えた。
疲れを覚えていた信士は、岸辺の芝生に腰をおろした。
湖には優雅に首を延ばし、華麗に泳ぐ黒鳥の姿があった。

「・・・・・・・」

言葉にはならない思いが浮かんでは、消えた。

「俺には、なにもない。・・・なにも・・・」

そんな信士の耳に、
懐かしさを覚えるメロディが聞こえてきた。

最初は、幻聴かと思ったが、そのメロディは、
さらに大きな音で信士の耳を満たしていた。
やさしいメロディが胸の奥深く染み通っていった時、
信士は温かく包み込まれる心地よさに一瞬酔った。
そのメロディは、
銀髪の髪を後ろで束ねた上品な婦人が歌っていた。
婦人の初々しさの残る口から流れるメロディは、
信士にやすらぎを与えた。
信士の目線を感じた婦人は、
微笑みながら「観光ですか。」と信士に声をかけた。
信士は突然の質問に戸惑いながらも、

「ええ。」と、一言だけ答えた。
「今は、観光にはとてもいい季節ですよ。
クリスマスが近付いていますから、
町中が活気に溢れているでしょう。
レイク・モンガ湖は、
私の散歩コースで、天気のいい日には、
必ずパンを持って黒鳥にあげに来ますのよ。」

信士は、婦人の話にとまどっていた。観光や季節。
そんなものはどうでもよかった。ただ、あのメロディ。歌は。

「あの。先ほど口ずさんでおられた歌は、
何という曲ですか。」
「え、慰めのことですか。」

少し、驚いた様子の婦人は、

「慰めの歌は、私の一番好きな曲なんです。
私がまだ少女だった頃に、
叔母から教えてもらいましたのよ。
今は、すっかりおばあさんになってしまったけど」と、
婦人は軽やかな笑い声をあげ、
信士も久し振りに心の底から笑っていた。

「慰めの作詞は日本人の方がなさって、
作曲は私の尊敬するユニケ叔母様が
なさいましたのよ。」

「日本人の方が作詞されたのですか。
それで懐かしい気がしたのかも知れませんね。」
少女のような笑顔をもつ婦人に対して、
素直に答えている自分が信じられなかった。

「日本の方でしたら、当然日本語を理解できますわね。
ほほほほ・ほ・わたし、変なことを聞いていますわね。」
「ええ。これでも一応日本人ですから、
日本語を読み書きすることは、できます。」

それを聞いた婦人は、とても嬉しそうな顔で、
「昼食は食べましたか。まだなんでしょう。
私の家にいらして。一緒に食べましょうよ。」
と言いながら、戸惑う信士の腕をもって歩き出した。
信士は、何がなんだかわからないまま、婦人の家に来ていた。

「ここに座って待っていらしてね。」
信士に古ぼけたソファーを勧めながら、彼女は台所に去って行った。
ソファーに座って部屋を見渡してみると、
至る所に何かのことばが掲げてある。

「何だろう。」

もう一度丁寧に一つずつ読んでみたが、どうも良く分からない。
聖書にふれた事のない信士にとって、分かるはずもないが、

「神は、愛なり。」

との、ことばから目を離す事が出来なかった。
聖書に全く興味のない信士にとってこれは驚くべき事であった。
部屋中、聖書のことばを掲げて何のとくがあるのだろう。
しょせん、神なんてこの世には、いない。
そんなものを信じるのは時間の無駄だ。

信士も幼い時は、神に助けを求めた事が何度かある。
信士にとって、あじさい園での生活は、
決して幸せとは言えなかった。
あじさい園のほとんどの子供たちには、面会人がいた。
また、お正月やお盆になると、
親戚や知人の家で過ごす、子らもいた。
面会人が全くない、天涯孤独の子供は、
信士を含めて六人だけであった。
もらったおもちゃを大事にしている仲間を見ると、
信士は妬みと憎しみから、
その子供達と、ケンカをした。
信士は、いつもあじさい園で孤立していた。

「俺には、なぜ、家族がいない。
なぜ。・・・ 神様、俺にも家族を下さい。」

そう心の中で叫び続けた。
しかし、信士の叫びは神には届かなかった。
信士は、小学校の高学年になる頃には、
神はこの世にいない。
神に頼る事は弱い人間がすることだ。
俺は一人で、生きて行く。
回りの人間はすべて敵だ。との信念が、
できあがっていた。
そのような信士にとって、この部屋の飾り付けは、
全く理解できないものであった。

「食事の支度ができましたよ。さあ、こちらにいらして。
あらあら、わたしったら、名前を聞いていなかったわね。
あわてんぼうでしょう。よく友人からも言われるのよ。
あなたのそそっかしさは、天然記念物ねって。
紹介が遅れたけど、私の名前はルツ。ルツ・ドーソンです。
よろしく。おばあさんだけど、気軽にルツって呼んでね。」
「私は、信士・石田と言います。」

「シンジ・イシダ。シンジって呼んでもかまわない。」

「はい。」

「だったら決まりね。これからは、あなたは私をルツ、
私はあなたをシンジと呼ぶわ。
さあ、冷めないうちにお食事にしましょう。
シンジ。シンジが食事のお祈りをして下さいね。」

食事の祈り・・・。

「すいません。私にはお祈りする事ができません。
私は、今まで神を否定して生きてきましたから。」
シンジの言った言葉に、たちまちルツの顔が曇ってしまった。
「神様を信じていないの。いいわ、だったら私がお祈りするから、
目をとじてお祈りにあわせてね。」目を閉じる事もできません。
と言い出すまもなく、ルツは祈り出した。
「お父様、感謝します。
イエス様が私の罪のために死なれました。
イエス様を信じるだけで、地獄から救われました。
感謝します。
また、今日、シンジと知り合う事ができました。
感謝します。
主イエス様がこのように昼食を与えて下さり
感謝します。
このお祈りを主イエス・キリスト様の御名によって
感謝してお祈りいたします。アーメン」

祈り終えるとルツは、清々しい顔で、料理の説明をはじめた。

「今日の昼食は私の自慢のポテトスープよ。
そして、これは自家製のアップルパイなの。
お替りは十分にあるから、遠慮しないでね。」
とまどうシンジを気にする風もなく、
一方的にルツはシンジに話し掛けた。

「いただきます。」シンジにはそれしか言えなかった。
食事の前にお祈りする人間がいたんだ。
なぜ、このようにやさしくしてくれるのだろう。
色んな考えが浮かんだが、
それより、目の前の食事に専念する事にした。

「おいしい。おいしいかしら。お口にあう。お替りする。」
食事の間中、ルツは信士に話し掛けた。

信士は「はあ。はあ。はい。」との答えを繰り返しながらも
夢中でポテトスープを口に運んでいた。
アップルパイの香ばしさは、口の中から零れ落ちそうで、
舌に残る味は絶品であった。
今まで、
金にまかせた高級料理を食べ尽くして養った信士の舌には、
決しておいしいものではなかったが、
そこに理屈はなかった。おいしい。
それで十分であった。

「もう一杯お替りどう、シンジ」

「もう十分です。お腹いっぱいです。ごちそうさまでした。」
その返事をまっていましたとばかりにルツは、
信士に語り出した。

「シンジは私が歌っていたあの『慰め』について尋ねていたわね。
シンジは『慰め』をどこかで聞いた事があるの。」

「・・・」

信士はどう答えていいか悩んだ。
自分自身なぜ、ルツの歌っていた曲に懐かしさを覚えたのか、
理解できなかったし、
『慰め』のメロディは今も信士の頭のどこかで鳴り響いていた。
自分自身、理解できないものをルツに答える事はできなかった。

ルツは信士の答えを待つことなく、
席を立つと古びた日記を差し出した。

「シンジはこの日記を読む事ができる。」

その古びた日記は日本語で書かれていた。
表紙には、藤島恵(ふじしま・めぐみ)と、何とか読み取れる程、
墨が薄くなっていたが、
しっかりとした達筆で書かれていた。

「私はどうしても、この日記を読みたいの。
でも日本語で書かれているでしょう。
日本語を読める方に訳してもらいたいと思って、
ずっとイエス様にお祈りしていたら、シンジに出会ったの。
神様が導いて下さったのね。
とても嬉しいわ。ぜひ、この日記を訳して欲しいの。お願いします。」

「いいですよ。どうせ、ひまをもてあましていますから。」
信士は自分が言った言葉に驚いた。
なぜ、このような事を言ってしまったのだろう。

「ありがとう。シンジ。とっても嬉しいわ。
私はこの日記を屋根裏部屋で見つけたの。
叔母はこの日記を大切にしていて、
いつも私に、日記を読みたい。
早く読みたい。と言っていたわ。
なぜ、そんなに日記を読みたいの。と、尋ねると。
この日記は、
『慰め』の詩を書いた人の生涯が綴られているから。
叔母の死後日記を探したけれど、
どうしても見つからなかった。
それが先週になって、
叔母のトランクの中からひょっこり出てきたの。
驚いたわ。
何十年も経っていたけど、私がずっと探していた日記だって。
翻訳して下さる方をお与え下さい。と、お祈りしていたら。
シンジと出会って、きっと神様のお導きね。」

数秒間の沈黙後、再びルツは、
思いがけない事を言い出した。

「ところでシンジは、ホテルに泊まっているの。」

「いえ、まだ泊まるホテルは決めていないのですが。」

「シンジさえよろしければ、この家に泊まって。
一人暮らしだから、部屋は空いているわ。」

この人は人を疑わないのだろうか。
はじめて会った人間が、恐くないなんて。

ルツが『慰め』の作詞者の日記と言った時から、
信士の答えは、決まっていた。

「ぜひ、泊めて下さい。よろしくお願いします。」

ルツは笑顔を浮かべながら信士を抱きしめて。

「こちらこそ、よろしくね。シンジ。」


第二章 短生園

日記

昭和16年 5月1日

何から話そうかと悩みましたが、
簡単に私の幼い頃の想い出をお話します。
私の育った家庭は決して裕福とは言えませんでしたが、
両親は私に十分すぎるほどの愛を注いでくれました。
母の口癖は、私に誤る事でした。

「ごめんね。めぐみちゃん。全部おかあさんが悪いの。
めぐみちゃんの目が見えないのは、
すべて、おかあさんのせい。ごめんなさい。」

医学で私の目が治らない事を知った母は、
毎日、氏神様へお参りするようになり、
その信仰は側目からも、鬼気迫るものがありました。
雨の日も、雪の日も、台風の日でさえも。
お参りを欠かさなかった母の願いは、
ただ、奇跡を望む一心からだったと、思います。

「めぐみちゃん、おかあさんね、この頃よく夢に見るの。
朝、目が覚めるとめぐみちゃんの目が見えるようになっていて。
めぐみちゃんはその目で真っ直ぐにお母さんを見て言うのよ。
おかあさん、おかあさんの顔が見えるよ。」って・・・。

母は、このような私に何とか一人で生活していけるようにと、
幼い頃より、お裁縫を教えてくれました。
お陰で、私が十二歳に成った時には、
ご近所のみなさんの仕立てを頼まれるまでになっていました。

こんな私にも、好きな人がいました。
私より二歳年上の幼なじみの幸田登さんです。
幼なじみの登さんは、近所の子供たちからいじめられた時、
体を張って、その子供たちから私を守ってくれました。
私が十七歳の時に、登さんが結婚を申し込んで下さったのです。
それを聞いた私は、とても嬉しかったのですが、
私には登さんのお嫁さんになる資格がないと思い込み、

「目の見えない私が、
登さんのお嫁さんになることはできません。」

「めぐみちゃん、
僕がめぐみちゃんの目の変わりになるよ。
幼い時よりめぐみちゃんを守ってきただろう。
これからもめぐみちゃんを守り続けるよ。」といわれた時には、
涙がとまりませんでした。
あまりの嬉しさに、その後のことは、
余り覚えていません。
登さんのご両親も、
盲目である私をこころよく嫁に迎えてもいいと、
言ってくださり、私たちは、間もなく婚約しました。

私にもやっと幸せが訪れ、
夢のような日々を過ごしていたある日、
私のあごに、
二つのいぼみたいな吹き出物ができたのです。
初めは、私も、母も気にもしなかったのですが、
二週間が過ぎても吹き出物はなくなりませんでした。
母に連れられて行った、病院での診断は、
私のすべてを奪うものでした。

「この病気の者は、
療養所に入所していただくことになります。」

私には、何がなんだか理解できませんでした。
病院の帰り道、母が声を押し殺して泣いているのが、
かすかに聞こえ、
母の様子から自分の病気が普通のものでないことを、
何となく悟りました。
それからの、短生園に入所するまでの間は大変つらいものでした。
急に近所の人たちが、家に寄り付かなくなり、人が来たかと思うと
「お前は汚らわしい病気にかかっているから、
この家を消毒する。」と言われ、
消毒された後の、突き刺す臭いに目まいを覚えました。

「おとうさん、おかあさん、
私の病気はそんなに汚らわしいものなの。
お願い隠さずに教えて。」
私の必死の姿に、
ついに母が聞き取れない程のか細い声で、言いました。

「おまえの病気は、らい・・・なの。」

癩・らい・癩病・・・。

私は、癩がどのような病気か知っていました。
近所のおばさんの実家の村で、癩にかかった人がいて、
一家全員が自殺した。と聞いたのを想い出したからです。
その話を聞いた時、
この病気になった者は生きてはいけないんだと、思いました。
あまりのショックに、
声も出なかった私を母は泣きながら抱きしめて、

「なぜ、めぐみだけが、
このようなめにあわなくてはいけないの。
私の、かわいいめぐみが。」

その後のことは、あまり覚えていません。

ただ、短生園に入所する前日。

「めぐみちゃん。めぐみちゃん。」

「ごめんね、めぐみちゃん。逢いに来たかったけど、
どうしても両親が許してくれなかったんだ。」

そう言って登さんは、窓から家に入り込み、
私の隣に座りました。
「めぐみちゃんの病気が一日も早く治るように氏神様に毎日お祈りするよ。
早く病気を治して、必ず結婚しようね。」

嬉しかった。のぼるさんの言葉は、
生きる希望さえもなくしていた私にとって、何よりも嬉しかった。

「ありがとう、のぼるさん。私とっても嬉しい。
のぼるさんが来て下さるまでは、
毎日死ぬ事だけを考えていたから。」

「それじゃー。これで帰るね。めぐみちゃん。
めぐみちゃんと一緒に居ることが母さんに知れたら、
母さんは、きっと卒倒するからね。」

その言葉は、私の心を深く突き刺しました。

私は、卒倒してしまうような、忌み嫌うべき存在になったの!

改めて、汚れた者としての実感が沸いて来ました。


短生園に旅立つ日、母は涙をこらえながら、

「めぐみちゃん、おかあさんも一生懸命、
氏神様に病気が治るように願掛けするから。
めぐみちゃんも、何があってもくじけずに、がんばってね。」と、
言った母の言葉が、今も私の耳から離れません。


昭和6年秋。19歳の時に藤島恵は短生園に入所した。

短生園は、岡山県南東部、
片上湾と日生(ひなせ)湾の沖に点在する日生諸島東端の島で、
東西に約6kmと細長く、
数カ所に狭くくびれた地峡がある短島の東部にあった。
短島短生園に入所して、まず驚いた事は、
療養所と聞かされていたのに、
そこはまさに療養所とは名ばかりの収容所であった。
短生園自体は、
昭和5年に開設していたので施設自体は新しく
医療設備は整っていた。

この療養所に入所して、はじめて恵は、自分の置かれている立場を知る。
短生園の所長であった田光所長の癩病に対する予防法は完全隔離。
恵たち患者は、外の世界から完全に隔離された。
田光所長は、癩患者のいる療養所は、
天も地も汚染されているとして人も動物も中に入る事を禁じていたため、
恵も短生園には本館の裏玄関にあった通路を通って入所した。
その通路が唯一、恵たち患者の居住区と、外の世界につながっていた道である。
恵たち患者の居住区に入る門は、封鎖されていた。

私は盲目であったために、医師や看護婦の姿を見る事は、
できませんでしたが、同室であった山田良子さんの話では、
医師も看護婦も白衣の装束に帽子、目だけを出した大きなマスクをし、
履き物は雨降り用の高下駄だったそうです。
私たちの病室には、高下駄のまま入室していました。

山田良子さんは、私にとても良くして下さいました。ある時、良子さんが私に

「めぐみちゃんは、目が見えなくて幸せね。」と言いましたが、
生まれてから今まで、目が見えないことが幸せなんて、
思ってもみなかった私には、その言葉は、全く理解できないものでした。

「女にとって、だんだんと醜くなるということは。」

続けて言った良子さんの言葉に納得した私は、とても寂しかったのを覚えています。

短生園にも慣れ親しんできた頃、良子さんが夜中に突然苦しみ出し、
目の見えない私は、大きな声で助けを呼び続けることしか出来ませんでした。

「苦しい・痛い・めぐみちゃん・痛い。」

のた打ち回る音と、うめき声が部屋に響きわたり、
その声も小さくなって来た頃に、やっと職員の方が来られました。
私が良子さんをどこかに連れて行くのですか、と尋ねると

「先生の所に決まっているだろ、先生は玄関の所におられるから。
先生は急患であっても、診療日以外は決しておまえらのいる居住区には、
足を踏み入れないんだよ。」と言って、良子さんを運んで行きました。

良子さんとはそれっきりになりました。
良子さんはその日の明け方、満足な治療も受けられないままに、
この世を去られたそうです。
私は良子さんの本名を知りません。
短生園では本名を知られると、親・兄弟・親戚に迷惑がかかるからと、
ほとんどの人が偽名を使っていました。
私も一度だけ良子さんに本名を尋ねたことがありましたが
「私の名前は山田良子。」と、元気よく答えられた声が、
なぜか、とても悲しい声に聞こえたのを覚えています。
職員の方が私に、

「山田良子の身寄りの者が遺骨の引き取りを拒んだので、
ここの納骨堂に埋葬する事になった。」と連絡してこられました。

こうして良子さんは、本名ではなく、偽名のまま埋葬されました。
その時、私も同じように短生園で一生を終え、
死んで、骨になっても故郷に帰ることはできないと痛感しました。

山田良子さんが亡くなってからは、
私の療養所での日々は、淡々と過ぎて行きました。
療養所に入所してから二年が過ぎた昭和9年10月、
登さんからの手紙が届きました。
良子さんの後に、同室に入って来られたみっちゃんが、
手紙を読んで下さいました。

「療養所での生活はつらいかも知れないけれど、
一日も早く病気を治して下さい。
僕も、もう一度めぐみちゃんと再開できる日を信じています。
めぐみちゃん、
めぐみちゃんに知らせるべきかどうか悩んだのですが、
やっぱり
めぐみちゃんには知らせておきます。」

そこで、みっちゃんの手紙を読む声が止まった。

「みっちゃん、みっちゃん、どうかしたの。
なぜ、手紙を読むのをやめたの。」
みっちゃんは震える声で

「めぐみちゃんのご両親が、亡くなりました。」

打たれたような衝撃が走った。

おとうさん、おかあさんが。

みっちゃんは泣きながら、
「めぐみちゃん・めぐみちゃん」と言いましたが、

私は、「みっちゃん。先を読んで。先が知りたいの。」と、
なぜが冷静に答える事ができました。
あまりのショックに、状況を把握できなかったのだと思います。

「めぐみちゃんのご両親は、めぐみちゃんが療養所に入所した後、
すぐに引越しをされたのですが、
先月の室戸台風による土砂崩れによって生き埋めになり、
そのまま帰らぬ人となられました。
亡くなられる時まで、おとうさんもおかあさんも、
めぐみちゃんの事を心配しておられました。
どのような慰めの言葉をめぐみちゃんに、
掛けてよいのか僕にはわかりませんが、
この知らせに気を落とす事なく、治療に専念して下さい。
最後に、許して貰わなければ、ならない事があります。
僕は、結婚しました。相手は仕事の取引先のお嬢さんです。
めぐみちゃんと、結婚の約束をしながら守れなかった僕を、ゆるしてください。」
手に落ちる涙で、はじめて恵は、自分が泣いている事を自覚した。

やさしかった私の両親が。
幼い頃より、私に裁縫を教えてくれた母が。
いつも私に、明るい笑い声を聞かせてくれた父が。
亡くなった。

私が病気にならなければ、癩にならなければ、
両親が死ぬことはなかった。
登からの手紙には書かれてなかったが、
恵は両親の引越しの理由を悟っていた。
恵の故郷は小さな街である。癩の子どもを持った両親が、
そのまま暮らして行くことを世間は許さなかった。
父が母が、後ろ指をさされながら街を去って行く光景が浮かぶ。

涙は止めど無く私の頬をつたった。
私はこれから先、生きて行けるのだろうか。
恵は、自分の運命を怨んだ。
自分の病気を憎んだ。
父や母の代わりに私が死ねばよかった。
自分自身の唯一の拠り所であった希望が、
音を立てて崩れていくのを恵は感じた。

自責の念と、両親を亡くしたショックから、
恵は二ヶ月近く起き上がることさえできなかった。
恵の看病は、同室の光子が受け持ってくれた。
光子の必至の看病と励ましのお陰で、藤島恵は半年程で、
日常生活を取り戻すことが出来た。

昭和10年春

なんとか一人で散歩するまでに回復した恵は、板塀越しに、
植田幸雄という名の青年に声を掛けられた。
「いつも、海を眺めておられますね。海がお好きなのですか。」

「ええ、塩の香りが、とっても好きなんです。」

「そうですか。私も塩の香りと波を眺めるのが好きで、
いつもこの場所から海を眺めています。」

初対面であるのに恵と幸雄の会話は、弾んだ。自責の念から、
慰めを求めていた恵と、幸雄の間に愛が芽生えるまでに、
時間はかからなかった。
二人は結婚を決意した。結婚といっても、通い婚である。
女性のいる居住区は、男性の居住区と板塀で区切られていた。
恋に落ちた若い男女は、男性が夜中に板塀を乗り越えて密会していたため、
田光所長は、男性が断種手術を受ける条件で通い婚を公認していた。
恵は目が見えず、幸雄には片足がなかった。
幸雄が恵の目の変わりになり、恵が幸雄の足の変わりになると二人で誓い合った。

短生園の中では、幾人かの若い男女が結婚(通い婚)をしていたが、
すべての男性は断種手術を受けていた。
国は癩患者が、子どもを産むことを許さず、断種手術を強制していた。
幸雄は結婚のために、断種手術を受けることに抵抗はなかった。
どう考えてみても、癩患者である自分と恵の子どもが幸せになれるはずはない。
また、自分と同じ様な苦しみを子どもに背負わせるのは、酷としか思えなかった。

幸雄の本名は、藤島浩介。
浩介は鳥取県広田町で、藤島家の五人兄弟の長男として産声を上げた。
浩介の家系は、藤島氏の子孫で、事業に成功した浩介の父は、
屋敷を藤島氏の居城のあった広田町に移していた。
浩介の父は、山陰地方の覇者であった藤島氏の家系にふさわしい男子に、との思いから、
長男の浩介を厳格に育て上げた。浩介も父の期待にこたえ、
東京の大学を卒業した後、藤島家の跡継ぎとして父と共に家業に励んだ。
順調に人生を歩んできた浩介であったが、25五歳の時に癩を発病する。

両親・兄弟・親戚から

「藤島氏の血を引く本家の長男が、そのような汚れた病気にかかるとは、何事か。
お前の日ごろの鍛練がなっていないから、汚れた病に取り付かれたのだ。」と、
ののしられた浩介は、藤島家の跡取りとしての資格を剥奪され、
故郷を追われるようにして短生園に入所した。
浩介は藤島家を恨み、滅びを願った。
浩介は実家の家系である藤島氏を滅ぼした宮子氏の名前を使い、
宮子幸雄と名乗りたかったが、中国地方の名家である宮子氏名は、
たとえ偽名であっても癩患者である浩介には許されなかった。
そこで浩介は、自分の運命を更に呪って、植田幸雄と名乗ることにした。
浩介の祖先である藤島氏は、宮子氏によって、
1567年に植田城で滅ぼされていた。
植田幸雄と名乗るたびに
「自分は癩になった時に滅んだ。自分を捨てた家族も藤島家も滅べ。」との思いが、
浩介を支配していた。
そのような浩介であったが、恵への思いが心の傷を癒し、
藤島家に対する憎しみを少しずつ、消し去っていった。
浩介は、恵と結婚する決意をしてからは、あえて藤島と名乗るようにしていた。
浩介にとって恵の存在が実家への憎しみ、
自分の運命に対する苦しみすべてを忘れさせてくれたからである。

断種手術の後、昭和10年9月20日、二人は結婚した。

結婚したと言っても、夜中に浩介が塀を乗り越え、
恵の所へ行くのを短生園が公認しただけのことである。
室戸台風によって島外保養院が壊滅状態になったために、
そこに居た入所者の多くが、
短生園に来たため、患者の居住スペースが極端に狭くなり、
恵と浩介が二人っきりで過ごせる日は、全くなかった。
それでも恵は、幸せであった。
部屋がせまいために、足を伸ばして寝ることもままならなかったが、
手を伸ばせば、そこにはいつも浩介がいた。
両親を亡くしてからは、夜中にうなされる事が多々あったが、
浩介と共に寝るようになって、悪夢にうなされる事もなく、眠れるようになった。
幸せな日々が続くと思っていた、昭和11年春。
恵の体に変化が現れた。
生理が止まり、つわりが始まった。
恵も最初は、自分の体の変化が信じられなかった。
断種手術を受けていた浩介との間に、子どもが出来るはずがない。
恵自身そう思っていた。
思っていたが、恵は妊娠していた。
浩介に、この事実を打ち明けた恵は、

「お腹の中の子どもは誰の子だ。
俺は断種手術を受けているのだから、子どもが出来るはずがない。
お前は目が見えないのだから、俺と他の男を間違えたに違いない。」と言った。
浩介の言葉が信じられなかった。

恵は、
「目が見えなくても、決してあなたと他の男性を間違えることはない。」と言い張ったが、
嫉妬に狂った浩介の耳に届くことはなかった。
浩介も一度は恵の言葉を信じて、断種手術を執刀した医師に確認したが、
医師は断じて手術に失敗はない、と言い切った。
後で判明することであるが、この当時の断種手術は不完全で、
恵のような事例は決して珍しいものではなかった。
医師の言葉を信じてしまった浩介は、
どうしても恵の言葉を聞く事が、できなかった。
裏切られたとの思いが、浩介を変えていった。
浩介は自らの苦しみの、はけ口として、暴力を振るっていたある日、
恵に大怪我を負わせてしまう。
恵は、妊娠し、大怪我を負ったこともあって、本館の病室に移された。

その時から、恵は言葉を失った。
言葉が、口から出なかった。
言葉を口から出すのが、恐かった。

どんなに言葉を並べてみても、恵を信じてくれる者はいなかった。
浩介に信じてもらえず、恵にやさしかった人たちからも、
姦淫の女と陰口をたたかれ、のけ者にされた。
あのやさしかった光子でさえ、恵を避けるようになっていた。
短生園は、恵のうわさで持ちきりであった。

堕胎することもできず、恵は苦しみの中、
昭和11年11月10日、一人の女の子を出産する。

その日は恵の心を反映するかのように、激しい嵐の日であった。
恵の子供は、産声を上げるとすぐに、看護婦の手で脱脂綿を当てられ窒息死した。
療養所で生まれた癩患者の子供は、すべてこのようにして闇に葬られていった。
民族浄化・無癩県運動を推進していた国は、
癩患者の子供が日本で生きて行くことを許さなかった。

私が癩にならなければ、両親は土砂に巻き込まれて死ぬことはなかった。
私が癩でなければ、私の赤ちゃんが殺されることもなかった。
恵を絶望と自責の思いが支配していた。
恵はこの苦しみから逃れたかった。
すべてを忘れ去りたかった。

何とか一人で起き上がると、海に向かって、歩きはじめた。

一歩。 一歩。

ともすれば、倒れそうになりながらも、
恵は必死に安らぎを求めて足を前に出した。
一歩。また一歩。

何とか建物の外に出ることができたが、
風が強く出産のために体力を奪われていた恵に、立って歩くことはできなかった。
それでも、はいつくばりながらも海を目指した。
おとうさん、おかあさん、私の赤ちゃん、あなたたちのもとに行きます。

恵を許して下さい。汚れた病に取り付かれた恵を許して。
海にたどり着いた恵はそのまま荒れる海の波に身をまかせた。

ああ、これでやっと苦しみから解放される。これで、やすらかになれる・・・

恵の体は、瞬く間に波にさらわれ、消えていった。


第三章 高価で尊い


藤島恵の日記の内容に愕然としながらも、
信士は癩病について調べてみようと思った。
信士自身、日本が嫌いで渡米していた。
ルツに図書館の場所を尋ねて、家を出た。

パースの図書館は、シティ駅のすぐ側にあり、
図書館の向かいには博物館。斜め向かいには美術館があった。
図書館に入ると信士は、すぐにインターネットで、癩病について調べはじめた。
信士は、癩病がハンセン病と、呼ばれていることさえ、知らなかった。
自分の無恥さにあきれながらも、
画面に映し出されるハンセン病についての説明から、目を離すことが出来なかった。

ハンセン病は、らい菌によっておこる慢性の感染症である。昔は癩、
または癩病、あるいはラテン語からレプラとも呼ばれた。
日本ではらい予防法もあり、「らい」と言われて差別を受け苦しんだ患者も多くいた。
そのため「らい」の呼び名に関しては、あまりにも偏見が強いため、
ハンセン病が公用語になっている。が、現在でも日本らい学会では、
「らい」を学術用語として残している。
らい菌は、
1873年にノルウェーのA・G・H・ハンセンによって発見された抗酸菌の一種で、
酸やアルカリに対して抵抗力が強く、結核菌によく似ているが、
たくさんあつまって塊になるのがらい菌の特徴で結核菌と、ことなる点である。
不治の病と思われてきたハンセン病であったが、
1941年アメリカのファジェットはスルファミン剤の誘導体である
「プロミン」がこの病気に有効であることを発見した。
「プロミン」の登場によって、ハンセン病は完治する時代を迎える。
1981年世界保険機関・WHOは、「リファピシン」を中心とする
「複合療法」を提唱した。
それによると、ハンセン病は2年間の治療で完治することが明らかになり、
現在この治療法が全世界で広く実践されている。
らい菌は、非常に感染力が弱い菌であるため、
80年以上の歴史を持つ日本のハンセン療養所の職員の中に、
ハンセン病に感染した者は一人もいなかった。大人は免疫をもっているからである。
現在、日本における年間の新発患者はゼロに近い数字で、自宅療法で簡単に完治する。

信士は、画面に映し出される内容が信じられなかった。
なぜ、恵たちはあのような境遇に追い込まれたのだろうか。

さらに信士は、ハンセン病を調べることにした。

国は「不治の病」であると、信じられていたハンセン病の対策として、
絶対隔離の立場を取った。
明治40年。らい予防法を制定し、ハンセン病患者を強制隔離した。
ハンセン病にかかった者は、末端神経の知覚麻痺のため、
熱さや痛みを感じなくなり、手足に傷をおっても痛みを自覚できなかった。
そのため、傷を悪化させ、手足や、顔に、変形を起こす者が多かった。
国は、ハンセン病を恐怖の伝染病と位置づけ、
患者の隔離を「祖国浄化・民族浄化」の旗印のもとに推し進めていく。
国の強制隔離政策・無癩県運動が、さらなる人々の恐怖心をあおり、
患者の人権を奪い、差別と偏見を助長させた。
その結果、ハンセン病に対する差別と偏見だけが一人歩きする。

1941年に発見された「プロミン」により、
ハンセン病は完治する病となった。
そのため、1955年ローマで開催された国際らい学会では患者の隔離を禁じている。
なぜなら、「プロミン薬」の登場によって隔離の必要性がなくなったからである。
このような事実があるにも関わらず、日本ではハンセン病患者の隔離を強制していた。

らい予防法が廃止されたのは、1996年4月。
国際らい学会が、患者の隔離を禁じてから41年の月日を経て、
はじめて日本では、らい予防法が廃止される。

もう少し、早くに日本が、らい予防法を廃止していれば、
少しは差別と偏見がなくなり、悲劇を避ける事が出来たのではと、信士は思った。
藤島恵が過ごした時代の人々は、
ハンセン病に対しての「恐怖心」だけが、支配していた事だろう。
国が制定した、らい予防法が更に民衆の「恐怖心」を煽っていたとしても、
何人かの人には、恵たちに対するやさしさを持って欲しかった。
いや、そうあって欲しかった。
信士は無意識の内に、恵に自分の姿を重ねていた。
恵の味わった苦しみに比べれば、
自分の受けた苦しみは取るに足らないものだと、わかっていたが。
恵の求めていたものは、自分の求めていたものと。そう思うようになっていた。
信士自身も、本当は無意識の内に人のやさしさを求めていた。
求めていた人のやさしさを得ることができなかった信士は、
その反動から人を信じることなく生きてきた。

信士が人に認めてもらえる唯一の方法は成功し、資産家に成ること。
お金持ちになればなるほど周囲の人間は信士にやさしさ、思いやりを示す。
それらが、本物でないことを気付いてはいたが、
それでも人のやさしさに、思いやりに飢えていた信士はそれを求め続けた。
見せかけであっても人が信士に気を使い、意に従う姿を想像することは喜びであった。
なぜなら、信士は、お金や権力に左右されることのない、真のやさしさや、
愛情を得ていないから。
ルツの家に帰宅した信士は、ルツの呼びかけにも曖昧な返事しかしないで、
藤島恵の日記を急いで開いた。

― 恵は、生きていた。 ―

藤島恵は、短島の側で漁をしていた長野権三によって命を救われる。
権三が網を引き上げてみると、人間が見えるではないか。
港に船をつけた権三は恵を背負いながら自宅を目指して必死に走った。

「ゆき、ゆき、雪、来てくれ。ゆき。」

権三の呼びかけに、何事かと飛び出してきた雪は、
権三の背にぐったりとした若い女性が背負われているのを見た。
看護婦である雪は権三と共に応急処置をほどこした。
雪たちの懸命の看護の結果、恵は一命を取り留める。

三日間意識不明であった恵は、
誰かの手で足をさすられている感覚によって意識を取り戻す。

「う・う・うううん。」
「おとうさん、おかあさん、意識が戻ったみたいよ。」

雪の声が家中に響いた。

「えー。そりゃあ良かった。本当に良かった。
こりゃあ、奇跡だな。主に感謝しなくては。」

権三の声に恵の意識ははっきりとしてきた。
なぜ、死んでいないの。なぜ、生き残ってしまったの。
死によってすべてを終えようと思っていたのに。
左の耳に何かが詰まっているような感じがするが、
権三の奇跡と言った言葉は、はっきりと恵の耳に届いていた。

「どこか、痛い所はない。」

その声によってはじめて恵は、自分の足をさすっていたのが、若い女性なのを知った。
雪の問いかけにも、言葉を失った恵に返事はない。

「いいわ、意識を取り戻したのだから、もう大丈夫。ゆっくり休んでね。」

その言葉に導かれるように、恵は再び夢の中に落ちていった。
自分がどのように助かったかを、雪から聞かされたのは、それから二日後であった。
雪は、しきりに
「奇跡よ。神様が助けて下さったのよ。」と、何度も恵にその言葉を繰り返した。

奇跡・神様によって自分は助かったなんて。
何と皮肉なことだろう。
母は、奇跡を信じていつも氏神様にお参りしていた。
でも、起こりはしなかったのに。
母がどんなに熱心にお参りしようとも恵の目は、盲目のまま。
また、癩病が治ることもなかった。
恵自身も母の影響もあり、癩病にかかってからも氏神様にお祈りしていた。
それなのに、こんな形で奇跡が自分に訪れるとは。

認めたくない。絶対に認めたくない。
何があっても認めない。神なんて、存在しない。
奇跡なんて、起こるはずがないんだ。その事は私が一番良く知っているはず。
たまたま助かった。それだけのことだわ。
そんな恵の思いをもちろん雪は、知るはずもなく。
雪は、毎日、恵のために神様に祈っていた。
雪のお祈りの言葉から、
雪の信じている神様が「キリスト」であることを恵は、はじめて知った。

「イエス様、感謝します。あなた様のお力で一人の女性が命を取り留めました。
イエス様の恵みに感謝します。どうか、この女性を助けて下さい。この女性を救って下さい。」

雪のお祈りはそれからも延々と続いた。
毎日、毎日、このようなお祈りを聞くことは恵にとって、苦痛であった。
何度、お祈りの途中に手足をばたつかせて、雪の祈りをやめさせようと思ったか知れない。
しかし、雪の祈りが、中断されることはなかった。
雪の祈りを聞きたくなかった恵は、お祈りがはじまるといつも他のことを考えるようにした。
少なくとも他のことを考えている間は、雪のお祈りが恵の耳に届くことはなかった。

恵には、雪や雪の家族に関して、不思議に思うことがあった。
癩であることを知っているはずなのに、雪も雪の両親も恵にやさしかった。
なぜ、癩である自分に雪たちは、これほど親切にしてくれるのかしら。
恵は、雪たちの信じている神が、愛なる存在であると頭では理解していた。
その神の愛ゆえに、自分に親切にしてくれる。なんとなくそう思っていたが、
恵自身は、神が愛とは、とても思えなかった。

神が愛であるのなら、

なぜ、私が癩にならなくてはならないのかしら。
なぜ、何の罪もない両親が死ななくてはならなかったの。
なぜ、私の赤ちゃんが殺されなくてはならなかったのか。

これらの疑問を雪に問い掛けてみたかったが、恵は、言葉を失ったままだった。
恵の体が完全に回復したころ、雪が

「ひとみちゃん(雪が言葉を失った恵に付けた名前)、
ひとみちゃんにお話があるの。ひとみちゃんは、病気でしょう。
私は熊本にある慰受病院の看護婦なの。
慰受病院は、ひとみちゃんのような病気の人のための病院なのよ。
もし、ひとみちゃんさえ良かったら、私と一緒に慰受病院に行かない。
慰受病院でひとみちゃんの病気を治せばいいわ。」

生きる気力を無くしていた恵であったが、雪の問いかけに静かにうなずいた。


昭和12年2月。 恵は、慰受病院に入院した。

慰受病院は宣教師であったミス・ロイスが開設し、
昭和7年にミス・ロイスが亡くなってからは、
姪のミス・ユニケが、叔母の後を継ぎ運営していた。
慰受病院は、短生園とは全く異なっていた。何よりも恵が驚いたのは、
癩患者が隔離されることなく自由に行動していたことである。

大正5年。 国は、療養所の所長に癩患者に対する司法権・検束権を
与えたために、短生園は療養所とは、名ばかりの隔離収容所になっていた。
癩患者が短生園から無断で一歩でも外にでると、
脱走犯として逮捕され刑罰を受けた。
どのような理由があろうとも患者には、弁解の余地はなく、
裁判を受けることもできず、所長の権限で刑罰が決められていた。
そのため、短生園には、監房が設けられていた。
短生園での入所生活に慣れ親しんでいた恵にとって、
慰受病院での生活は驚きと、新たな発見の連続であった。
短生園では、癩患者の包帯は、患者同士が交換していた程に、
医師・看護婦・職員達までもが、癩病に感染するのを恐れて、
患者に近付くことを避けていた。
それに比べて、慰受病院では、癩病を全く恐れることなく、
平気な様子で医師、看護婦、職員が癩患者に接していた。

慰受病院の責任者であったユニケの日課は、恵の安否をやさしく尋ねた後、
聖書を朗読することで、入院した当初は、とまどっていた恵であったが、
いつしかユニケの訪問を楽しみにするようになっていた。
ユニケは、いつも愛犬ヨハネを連れていた。
ユニケの巡廻コースは決まっていて、ヨハネが先に病室に現れ、
ユニケの到着を恵に告げた。
ヨハネに続いて、
ハイヒールの音が廊下に響くとミス・ユニケの到着である。
最初、恵はこのハイヒールの音を聞くのがいやでたまらなかった。
なぜなら、ハイヒールの音はミス・ユニケの訪問を告げ、
ミス・ユニケの訪問は聖書の朗読、神へのお祈りを意味していたからである。

恵は神と呼ばれるものすべてを憎んでいた。
雪や雪の両親、そしてミス・ユニケには感謝していたが、
どうしても恵には素直に神を受け入れることはできなかった。
神は恵を苦しめても、助けてはくれない。との思いが、
今だに恵の心を占めていた。
恵が望んだ奇跡は起こらなかったのに、死を望んだ恵の思いに反して奇跡は起こった。
自分自身の運命を思い浮かべる時、
神に対しての憎しみだけが恵の思いを支配した。

神は、恵からすべてのものを奪う存在であった。
両親、赤ちゃん、健康、そして・・・夫。
慰受病院に入院して3年が経った頃、恵の思いを打ち破る時が来た。
その日もいつものようにヨハネに続いてハイヒールの音が、廊下に響き渡った。

コツ・コツ・コツ・コツ

いつものこと、今日もミス・ユニケの登場ね。
いやなお祈り、いやな聖書の話を聞かなくは。
ミス・ユニケとお話しするのは好きだけど、
神様のお話は恵にとって苦しいだけなのに。
もし、神様がいるとするなら、
神様は、なぜ私を死なせてくれなかったのですか。
私は、死にたい。
私は楽になりたい。
苦しみから、解放されたいのに。
「こんにちは。ひとみちゃん、お体の調子はどう。
今日は、マルコの福音書を読むわね。」

『さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。
イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。
「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」
 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、
「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。
すると、すぐに、そのらい病が消えた。』
(ルカ5章12~13節)

「ひとみちゃん、私は聖書の中でも、この個所が好きなの。
イエス様は、ひとりのらい病人を治される時、
そのらい病人を深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわられて治されたのよ。
聖書は、この世界、宇宙はイエス様のことばで造られたと教えているわ。
イエス様はらい病人をおことばだけで治すことができたのに、
なぜ、らい病人に触れられたと思う。
イエス様は、らい病人の苦しみを知っておられたから、
あえて、らい病人に触れられて治された。このらい病人にとって、
らい病が治ったことも嬉しかったかもしれないけど、
イエス様に触れられたこともそれと同じぐらいに嬉しかったと思わない。」

「ひとみちゃん、イエス様はひとみちゃんを愛しておられるのよ。
ひとみちゃんがどんなにイエス様を憎んでも、
それでもイエス様はひとみちゃんを愛しておられるのよ。
イエス様は聖書を通してひとみちゃんに語りかけておられるの。」

『わたし(イエス様)の目には、あなた(ひとみちゃん)は高価で尊い。
わたしはあなたを愛している。』
(イザヤ43章4節)

ひとみちゃん、イエス様の目にはひとみちゃんは高価で尊いのよ。

「え、癩である私が高価で尊い。」

恵には、理解できなかった。
神の目には、癩である私が高価で尊い、どういうことなのかしら。
生まれて以来、恵は自分が高価で尊いなんて、思ったこともなかった。
逆に盲目であるが為に、幼い頃よりいつも引け目を感じて生きてきた。

癩になってからは、自分の存在はまわりの人を不幸にして、苦しめるだけ、
それが自分だと思っていた。
実際に、恵のせいで両親は台風の犠牲となり、子どもは殺された。
自分がもっと早くに自殺していれば、両親も赤ちゃんも、
殺されることはなかった。

自分は愛する人を不幸にするために生きてきた。
このような恵を、神は高価で尊いと言う。
私はあなたを愛していると言う。
高価で尊い、愛している。

誰にも愛される資格はない。
自分の存在は人を不幸にするだけ、そう思っていたのに、神は私を愛している。
本当かしら。

「ひとみちゃん、イエス様は、心からひとみちゃんを愛されているのよ。
その証拠にイエス様は、ひとみちゃんを地獄から救うために十字架で命を捨てられたの。
命を捨てられたほどに、イエス様は、ひとみちゃんを愛しているのよ。」
そう言って、ミス・ユニケはいつものように祈っていた。

ミス・ユニケが病室を去ってからも

『高価で尊い。わたしはあなたを愛している。』

その言葉で頭の中が一杯になった。
ミス・ユニケの話によると、イエス・キリストはこの世界、宇宙を造られ、
私たち人間さえも造られた神であるという。
そのように計り知れない大きな存在である神が、私を愛している。
私を高価で尊いと見て下さっている。

嬉しかった。
癩である私を高価で尊いといって下さる神の愛が、嬉しかった。
恵のために命を捨てた神の愛が、恵の心を満たしていた。
どのように祈ればよいかわからなかったが、祈りたかった。
雪が、お祈りは神様とお話すること。そう言っていたのを思い出した。

恵は、祈った。

「イエス様、癩の私を愛して下さり、ありがとう。
私は、すべてに絶望して死を選ぼうと思いました。
そんな私を救って下さり、ありがとう。そんな私を愛して下さり、
ありがとう。ありがとうございます。」

次の日からはミス・ユニケのお祈り、聖書の朗読に真剣に耳を傾けるように
なっていた。ミス・ユニケも恵の変化に気付き、喜びを隠しきれなかった。
今までは、いやいやながら、仕方がないから話を聞いていた恵が、
真剣に聖書のことばに耳を傾けている。
一語も聞き逃すことがないように必死に耳を傾けている。

ミス・ユニケは感謝した。
主イエス様に感謝します。
ひとみちゃんに聞くべき耳を与えて下さったことを感謝します。

「ひとみちゃん、何度もお話ししていることだけど、もう一度言うわね。」
ミス・ユニケの言葉は、恵に幼き日の記憶を呼び覚ました。

― あれは、私が5歳の時 ―

「めぐみちゃん、今日は天気がいいから一緒に、
氏神様にお参りに行きましょう。」
母に連れられ神社を目指して歩いていると、母の足が止まった。恵の耳に、
必死に語り掛ける男性の声が聞こえてきた。
聖書はあなたに語っています。

『あなたの若い日に、あなたの創造者(神)を覚えよ。』
(伝道12章1節)

なぜ、創造者(神)を覚えなくてはいけないのでしょうか。
それは、人の運命の終着点には、死があるからです。
季節が移り変わるごとに、私たちは年を取り、
そして、誰も逃れる事が出来ない死が、必ずあなたにもやってきます。

『人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている。』
(ヘブル9章27節)

人間は死後にこの世界を造られた神(創造主)にさばかれると、
聖書はあなたに語りかけているのです。
このように言われるとあなたは
「なぜ死後の世界の事がわかるのか。」と言って反発されるかも知れません。
確かに人には、死んでから先の事はわかりません。

ならば、なぜ、私があなたに、「死後に神(創造主)にさばかれる」と
言い切ることができるのでしょうか。
それは聖書が語っているからです。
聖書はこの世界を創造された真の神様のことばだからです。
聖書の語っていることに間違いは一つもありません。
あなたは死後に必ずさばかれます。
真の神様から見れば人間は罪人でしかありません。

『義人はいない。ひとりもいない』
(ローマ3章10節)

あなたを造られた真の神様から見れば私たち人間は罪人でしかないのです。
人間は罪人です。
人を愛することより、憎むことを望むのが人間です。
ましてや、真の神様は私たちの心の中の罪までもさばかれるのです。
心の中であなたは「人を殺したい」と思ったことはありませんか。
もし、思ったことがあるなら、それだけで真の神様からみれば、人殺しです。
真の神様は心の中の罪も明らかにし、さばかれるのです。
ならば、死後にあなたはさばかれ、どうなるのでしょうか。
聖書ははっきりと、死後、あなたは真の神様にさばかれ、
地獄に行くと言っています。

『すべての人は、罪を犯したので、
神からの栄誉を受けることができず。』
(ローマ3章23節)

罪人である私たちは、火と硫黄との燃える池(地獄)で昼も夜も
永遠に苦しみを受けると、聖書はあなたに語っています。
しかし、真の神様は愛なるお方です。
罪人であるあなたを地獄から救おうとされました。
真の神様であるイエス・キリストがあなたを地獄から救うために、
人となってこの地上に来られたのです。

『キリスト・イエスは罪人(あなた)を救うためにこの世に来られた。』
(第一テモテ1章15節)

宇宙を創造し、私たちを造られた神が、あなたを地獄から救うために、
人となってこの地上に来て下さり、あなたの罪の身代わりに
十字架に掛かって死なれました。
イエス・キリストの十字架の死はあなたの罪をゆるすためであり、
あなたを地獄から救うためであったのです。

イエス・キリストはこの救いが確かであることをあなたに示すために、
葬られ、死後、三日目によみがえられました。
イエス・キリストの十字架の死が、私の罪をゆるすためであり、
また、葬られ、死後三日目に復活されたと信じるだけで、
あなたの罪はすべてゆるされ、天国へ行くことができます。
行いや努力はいりません。
だだ、信じるだけで、イエス・キリストはあなたを永遠の滅びより
救って下さるのです。

『また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、
私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、
この福音によって救われるのです。
私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、
私も受けたことであって、次のことです。
キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです。』
(第一コリント15章2~5節)

イエス・キリストは十字架でいのちを捨てられたほどにあなたを
愛しておられます。
たとえあなたが人殺しであったとしても、
言葉では言い表せないぐらいの罪を犯していたとしても、
それでもイエス・キリストは、あなたのことを愛しておられるのです。

「なぜ、こんなにも醜い罪人である私を愛して下さっているのか」と、
疑問に思われるかもしれません。

聖書はそんなあなたに

『なぜなら神は愛だからです。』
(第一ヨハネ4章8節)と、
語りかけています。

イエス・キリストの両手にはあなたを愛するしるしである、
釘のあとがあり、わき腹には槍のあとがあります。

イエス・キリストは、永遠の愛で・不変の愛で・完全な愛で、
あなたを愛しておられます。

そえゆえ聖書は語っています。

『神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに、
世(あなた)を愛された。
それは御子(イエス・キリスト)を信じる者(あなた)が、
ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』
(ヨハネ3章16節)

イエス・キリストを信じて下さい。

イエス・キリストを信じて下さい・・・

男性の声が途切れた。
その後、恵の耳に聞こえてきたのは、多くの人たちの怒号。

「キリストの話なんかするな。お前は日本人でありながら、
なぜ、外国の神を信じる。この売国奴め。
キリストを信じる者は、日本人ではない。この街から出て行け。」
聖書の話をしていた男の人が袋叩きにあっている。

母は、私が争いに巻き込まれることがないように、
私を抱きかかえ走り出した。母の胸に抱かれながら、
恵の耳には殴られながらも、大声で叫んでいた男性の声が耳に残っていた。

「主よ。彼らをおゆるし下さい。
この人たちは何をしているのか自分ではわからないのです。」

「主イエス様は、ひとみちゃんを本当に愛されているのよ。
真実の愛で、イエス様はひとみちゃんを愛されているの。」
ミス・ユニケの言葉が恵の心に響いていた。

あの男の人が、袋叩きにあっても抵抗することなく、
殴られていたのは、イエス様の愛を知っていたから。
私たちを「高価で尊い」と言って下さるイエス様の愛を知っていたからこそ、
あの男の人は必死にイエス様の救いを語り、愛を語り、
自分を殴っている人たちの救いを願っていたのだわ。
恵には、すべてが理解できた。
長野家の人たちが、癩である私になぜ、あんなにやさしく接して下さったか。が。
短生園と慰受病院の違いを。
そして、ミス・ユニケが毎日のように聖書を朗読して下さる意味が、
理解できた。

「ひとみちゃん。ひとみちゃんは、イエス・キリストを救い主と信じますか。」

ミス・ユニケの問いかけに恵は、力強くうなずいていた。
うなずいた、恵の姿を見詰めるミス・ユニケの頬には、涙が流れていた。

「ひとみちゃん、ひとみちゃん、」と叫びながら雪が病室に走りこんで来て。

「よかったわね。本当によかった。ひとみちゃんがイエス様を信じてくれて、
わたし、うれしい。とっても嬉しいわ。
ミス・ユニケからひとみちゃんがイエス様を信じた。と聞いた時は、
自分の耳を疑ったのよ。
だって、ひとみちゃんは聖書の話を聞くことをあんなに嫌がっていたでしょ。
ああ、うれしいわ。わたし。イエス様が私のお祈りを聞いて下さり、
ひとみちゃんを救って下さった。早速、私の両親に知らせるわね。」

雪は恵が聞き取れないほど、早口でまくしたてると、
両親に知らせるからと言って、走り去った。
私がイエス様を信じたことを、こんなに喜んでもらえるなんて。
雪、ミス・ユニケの喜びに恵は人のぬくもりを肌で感じつつ、
イエス様にお祈りすることができた。

昭和15年11月

藤島恵はイエス様を救い主と受け入れた。
苦しみに打ちひしがれ、死ぬことを願い続けていた恵の生活は
救われた事により、一変する。
恵は、ミス・ユニケ、雪に自分の本当の名前を身振り、手振りで何とか伝えた。

「藤島恵(ふじしま・めぐみ)これがひとみちゃんの本名なのね。
これからは、ひとみちゃん、でなくて、めぐみちゃんと呼ぶわね。」

恵は、藤島恵と名乗るか、旧姓である松本恵と名乗るかで悩んだが、
藤島恵と名乗りたかった。
浩介は嫌がるかも知れない。お前と俺は、もう関係がないと
言い張るかも知れない。それでも恵は、藤島恵でいたかった。
イエス様の愛を知った恵は、浩介をゆるし、浩介を愛していた。
恵の浩介に対する愛の証しは、
藤島の姓を名乗り続ける事だと固く決心していた。
浩介に再会することは、出来ないかも知れない。
それでも恵は、松本恵ではなく藤島恵でいたかった。
浩介に、慰受病院にいることを伝えたかったが、
言葉を失った恵にはその方法がなかった。
恵には、そのもどかしさが、いつもついてまわっていた。
恵がイエス様を信じた昭和15年。慰受病院は閉鎖寸前の状態であった。
イギリス人であったユニケにもスパイ容疑のため、
身辺に特高警察が連日張り付いた。
そんなある日、とうとうスパイ疑惑のために家宅捜索。
そして、取り調べと、拷問を受けるようになっていた。
71歳のユニケにとって、拷問は、
肉体的に到底絶えられないようなものであったが、ユニケは、耐えた。
拷問を受けても、家宅捜索を受けても決して、
ユニケは日本を離れようとしなかった。

その当時の日本は戦争に向かって猛進していた。

イギリス大使館の職員も、ミス・ユニケに帰国を勧めていたが
ユニケの意思は固く、帰国の決意は全くなかった。
ユニケは、慰受病院の患者を愛し、日本を愛していた。
そんなユニケにもどうすることもできない事件が起きる。

昭和15年11月。ユニケの代わりに慰受病院の職員であった松田洋蔵が
逮捕、警察に留置される。それだけではない、警察は慰受病院の帳簿類、
および銀行の通帳一切を押収し、慰受病院維持のための
支払い能力を奪っていった。
ユニケの残された道は、慰受病院を閉鎖し、
イギリスに帰国することしかなかった。
このような状況の中で藤島恵がイエス様を信じたことは、
ユニケにとって大きな慰めであり、喜びであった。

「イエス様は、私の苦しみを知っておられ、私がくじけることがないように、
めぐみちゃんを救って下さった。主よ、感謝いたします。」

ユニケの喜びの祈りである。

昭和15年12月。
ユニケは慰受病院の閉鎖を決意し、雪に打ち明けた。

「ゆきちゃん。驚かないで聞いて。慰受病院を閉鎖します。」
とうとうこの日が来た。雪は、知っていた。
現在の、慰受病院がどのような状況にあるかを。

「ミス・ユニケ、落ち込まないで下さい。慰受病院が閉鎖するのも、
主の導きです。今の私たちには、理解できないことでも、
主イエス様に間違いはありません。」

そう言って、雪は、持っていた聖書を開いた。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、
私たちは知っています。』
(ローマ8章28節)

「ゆきちゃんの言う通りね。イエス様に間違いはないわ。そうよ。
イエス様に間違いはない。ただ、患者さんには、黙っていて。
患者さんたちに不安を与えたくはないから。」

昭和16年2月

慰受病院には礼拝堂が併設されていた。
日曜日の礼拝の時間になると鐘がなり、その鐘の合図で、
礼拝に集うことになっていた。
ユニケは、礼拝を強制することをしなかった、ただ、奨励はしていた。
恵もイエス様を信じてからは、必ず礼拝に出席していた。
目の見えない恵は、同室の村田さんと、助け合いながら、鐘を合図に礼拝に
集っていた。村田さんは足が不自由であったので、恵は村田さんに肩を貸し、
村田さんを支えた。その代わり恵の目の代わりは村田さんがした。
恵たちのように、助け合って礼拝に集ってくる人たちが、
慰受病院には、多くいた。
慰受病院では、ごくあたりまえの光景であった。

「みなさんに、お伝えしなくては、いけないことがあります。」

そのように言いながら、ユニケの心は悲しみで満ちていた。
とうとう、この日が来た。
慰受病院閉鎖の日である。
表には、患者さんたちを運ぶ三台のトラックが止まっている。
患者さんたちとも、これでお別れ。
そう思うと涙が止まらなかった。

涙で顔がぐちゃぐちゃになりながら
「今日で、慰受病院は閉鎖します。」と、
何とか伝えたユニケの泣き声が礼拝堂にこだましていた。

泣き崩れてしまったユニケに代わって雪が。
「みなさん、表に三台のトラックが止まっています。
急いで荷物の整理をしてトラックに乗って下さい。
今日から、みなさんは北九州療養所に入所することになります。
私もみなさんと一緒に北九州療養所に行きますから、安心して下さい。
ミス・ユニケはここでみなさんとお別れすることになり、
イギリスに帰国されることになっています。」

そこに集まっていた者、全員が泣いていた。
恵も泣いていた。
ミス・ユニケとのお別れ。
病院も閉鎖になる。

トラックの出発の時間が迫っているというので、
恵は急き立てられるように、荷物の整理をしトラックに乗りこんだ。

恵の手を取ったユニケは、しきりにあやまっていた。

「ごめんね。ごめんね。めぐみちゃん。ごめんなさい。みなさん。
どうか許して下さいね。」

トラックの運転手が恵とユニケの手を振りほどき。
「もう出発しますから、後ろに下がって下さい。」と言った。

それを聞いてもユニケはトラックから離れようとはせず、
トラックの後ろにしがみ付いていた。
運転手は、そんなユニケの状態を知ることなく、トラックを走らせた。

誰かが、叫んだ。

「ミス・ユニケが、ぶらさがったままだ。」

トラックにしがみ付いていたユニケのハイヒールが飛んだ。

「あ、ハイヒールが、ミス・ユニケ」

その声を聞いた恵は、叫んでいた。

「とめて。トラックを止めて・・・。」

恵の声を聞いた運転手はトラックを止めた。
一瞬の静寂があたりを支配していた。

「めぐみちゃん、めぐみちゃん、こえ・声。」

トラックにしがみ付きながらもユニケが言った。
ショックから、失語症になっていた恵が、言葉を取り戻していた。

「ミス・ユニケ、もういいです。もういいです。あなたは、
十分に私たちを愛して下さいました。
家族・親戚・国に捨てられた私たち、らい患者を十分に愛して下さいました。
私たちに神様の愛を伝えて下さいました。
もう。十分です。
どうか、私たちのことはもう気にしないで、イギリスに帰って下さい。
私たちは、ミス・ユニケが無事にイギリスへ帰国できますように
お祈りしています。
たとえ、離れていても私たちは一つですもの。
離れ離れになっていようとも、私たちの結び付けられた心を引き離すことは、
誰にもできません。」

恵の言葉を聞いたユニケは、泣きながらうなずき、
トラックから手を放そうと思ったが、指が硬直していて離れなかった。

雪がユニケの指を一本、一本トラックから離していった。

ユニケはトラックが見えなくなっても、

いつまでも、いつまでも・・・その場から動こうとしなかった。


第四章 慰め


慰受病院の閉鎖の後、ユニケは残された雑事に没頭した。
病院を閉鎖してからは、特高警察に表立った取り調べを受けることはなかったが、
監視の身であることに変わりはなく、イギリス大使館からの退去命令に
従って、ユニケは日本を離れることになる。
イギリスに帰国することを望んだユニケであったが、ドイツの潜水艦である
Uボートの脅威から、オーストラリアに退去することになっていた。
オーストラリアでは、去年まで日本で一緒に伝道していたハンナが、
ユニケの到着を待っていた。


昭和16年3月12日

ユニケは、後ろ髪を引かれる思いで、日本を後にした。出発の日、
ユニケは雪と一緒に慰受病院にいた。
誰もいなくなった、空の病院。

「ゆきちゃん。71歳の私が再び日本の土地を踏むことは、
まず出来ないでしょうね。でも、私は世界のどこにいても・・・
私の心はいつも患者さんたちと、ともにあります。
ゆきちゃん、私の代わりに、患者さんたちをお願いするわね。」

ユニケのすすり泣く声が、空になった慰受病院にこだましていた。

昭和16年秋。

郵便です。日本を離れ、オーストラリアで暮らしていたユニケに手紙が届く。
差出人の名前を見たユニケの顔は喜びで満たされた。雪からの手紙であった。
日本を離れた後、
ユニケはパースから十マイルほど離れているギルフォードという小さな街で
ハンナとともに暮らしていた。
沈みがちであったユニケにとって、久しぶりの嬉しい出来事であった。
雪の手紙は検閲のために開封されていたが、
そのままの状態でユニケの手に届いていた。

― 手紙 ―

生きておられる主の御名を賛美いたします。
どのような状況にあっても、
いつも私たちを守って下さるイエス様に感謝します。
親愛なる。ミス・ユニケ。
お元気にしておられますか。
先日、ミス・ユニケからのお手紙を受け取りました。
ミス・ユニケが無事にオーストラリアに到着されたことを知り、
主に感謝いたしました。イエス様がミス・ユニケをお守り下さった。
とてもうれしく思っています。
慰受病院におられた患者さんたちは、みなさんお元気にしておられます。
最初は、北九州療養所に戸惑われている患者さんもおられましたが、
今では、すっかりここの環境に適応しておられます。
ミス・ユニケにとって、もう一つ、嬉しいお知らせがあります。
それは、めぐみちゃんのことです。
めぐみちゃんは、今では私を助けてくれる存在で、
重病患者さんたちのお世話や看護をしています。
慰受病院に入院したころのめぐみちゃんとは、別人のように明るく、
療養所にはいつも、めぐみちゃんの笑い声が聞こえています。
また、私たちは聖書を毎日のように学んでいます。嬉しいことに、
今の私は、めぐみちゃんの聖書に対する質問に追われる毎日です。
このように、私もめぐみちゃんも患者さんたちも元気で、
助け合いながら過ごしていますので、ご安心下さい。
ミス・ユニケの健康のためにお祈りしています。
再び、お会いできる日を夢見て、主イエス様にお祈りしています。

長野雪
追伸、めぐみちゃんの手紙を同封します。

― 藤島恵の手紙 ―

慰めの神であられる主の御名を賛美いたします。
お元気ですか。
ミス・ユニケが元気にしているのを知って、うれしいです。
私には手紙を書くことができないので、ゆきちゃんが代筆しています。
人に手紙を出すのは、はじめてなのでちょっと照れくさく思っています。
私は、毎日元気に暮らしています。
イエス様のために何かしたいと思っていたら、
神様が、私にもできる仕事を下さいました。
今、私のしている仕事は、重病患者さんのお世話です。お世話といっても、
目の見えない私に出来ることは限られているのですが。重病患者さんの
お話しを聞いてあげることです。私はいろいろな身の上話しを聞きました。
私だけでなく多くの患者さんが苦しんで来られたことを知り、
自殺しようとした自分を恥ずかしく思っています。
ゆきちゃんと一緒に聖書を読んでいて、

『私たちの主イエス・キリストの父なる神、
慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
神は、どのような苦しみのときにも、
私たちを慰めてくださいます。
こうして、私たちも、
自分自身が神から受ける慰めによって、
どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、
慰めもまたキリストによってあふれているからです。』
(第二コリント1章3節~4節)

との、みことばがありました。

このみことばを実践できる者になりたいと思っています。私がイエス様から
受けた慰めを一人でも多くの苦しむ人たちと分かちあいたいですから。
最後に、ミス・ユニケに私が作った詩を贈ります。
私は幼い時より、母とともに奇跡を待ち望んでいました。
目の見えない私が見えるように。不治の病であるらい病が治りますように。
奇蹟を待ち望みました。
しかし、一向に奇蹟は私の身に訪れません。
絶望して死を選んだ私を神様は救って下さいました。
私は本当の奇蹟を知りました。
癩病にかかった私は人から忌み嫌われ国から人としての尊厳を奪われ、
生きる屍のような存在でした。
私のような苦しみを味わっている者は、他にはいないと、思っていました。
このような私を救うためにイエス様が人となられたことを知りました。

『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』
(第一テモテ1章15節)

罪汚れた私を救うために人となられたイエス様。

私にはまかりなりにも住む所があり、枕する所があります。なのに、
この宇宙を造られ支配しておられるイエス様には、住む所もなく、
枕する所もなく、自分の造られた世界を渡り歩く、
さすらい人として歩んでおられました。

『イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、
人の子には枕する所もありません。」』
(ルカ9章58節)

狐や空の鳥よりも低くなられたイエス様。

私は今まで、私以上に人からののしられ、忌み嫌われた者はいないと、
思っていまたしが、神であるイエス様が、罪なきお方が、完全な愛なるお方が、
私以上に、人にののしられ、罵声を浴びせられ、けなされた事を知りました。

『道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。
「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、
イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。
イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。
そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。
もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。
「わたしは神の子だ。」と言っているのだから。」
イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、
同じようにイエスをののしった。』(マタイ27章39節~44節)

罪なきお方が、罪人として十字架の苦しみを堪え忍び、
私を地獄から救うために命を捨てられたイエス様。

私が本当に求めていたものは、ここにありました。
らいが治ることよりもさらにすばらしいものをしりました。
真実の愛を・・・変わることのない慰めを。

このような私の思いを詩にいたしました。
毎日、ミス・ユニケのためにお祈りしています。
お元気でいて下さい。
ミス・ユニケに早く会いたいです。

藤島恵

人は愛を、求め、慰めを欲する。
苦しい時、悲しい時、憂いの時、絶望の時、窮地の時に・・・
しかし、真実の愛を、決して変わることのない愛を
人から受けることはできない。
すべては、創造主(神)の御手にある。
あなたは気付いているだろうか。
真実の愛が、どのような苦しみの中にあっても癒してくれる慰めが、
すぐ側にあることを。
この宇宙を造られた神が、人となられ、
あなたの罪のために十字架で命を捨てられた。
この世界に、これ以上愛や慰めはない。


慰め(なぐさめ)

この広い宇宙、宇宙の中の小さな銀河系、銀河系の中の小さな惑星地球、
そこに住む私。
神は、なぜ宇宙から見れば、小さな、小さな私に目を止めて下さったのか。
なぜ神は、私を愛し、人となって地上に来て下さったのか。
イエス・キリストが人となられた事、
私にとってこれ以上の慰めはない。

この広い宇宙、宇宙の中の小さな銀河系、銀河系の中の小さな惑星地球、
そこに住む私。
神はなぜ、宇宙から見れば、小さな、小さな私に目を止めて下さったのか。
なぜ、イエス・キリストは私を地獄から救うためにいのちを捨てられたのか。
イエス・キリストが十字架で死なれた事、
私にとってこれ以上の慰めはない。
神はなぜ宇宙からみれば、小さな、小さな私に目を止めて下さったのか。
なぜ、私が地獄から救われたのか、
私のように、罪汚れた者が主イエスの愛によって救われた。
私が救われ主イエスの愛を知った事、
私にとってこれ以上の慰めはない。


恵から贈られた「慰め」の詩を読んだユニケは、
涙を流しながらオルガンの前に座ると「慰め」に、メロディをつけた。
「慰め」のメロディを楽譜にし、ユニケは恵に送った。・・・
藤島恵に送られた手紙を最後に、ユニケからの手紙は途絶える。
第二次世界大戦に突入した日本に、ユニケからの手紙が再び届くのは、
戦後になってからである。

昭和16年11月

「めぐみちゃん、めぐみちゃん、ミス・ユニケから手紙が来た。来た。来た。きたわ。」
張りのある声が、恵の耳に響いていた。

ミス・ユニケからの手紙。

あああ・・・。

私たちの手紙が無事にミス・ユニケに届いたんだ。
検閲にもパスしたんだ。
神様感謝します。
イエス様、本当に感謝します。

ミス・ユニケからの手紙には、ギルフォードで元気に暮らしていることと、
雪と恵の手紙によって励まされたことが書かれてあった。そして、最後に
恵の詩にメロディをつけたので楽譜を送ります。と書かれていた。

「めぐみちゃん、楽譜が同封してあるわ。慰めの楽譜よ。歌ってみるね。」

雪の鼻歌が病室に流れていた・・・。
きれいなメロディ。
なんてきれいなメロディなの。
ミス・ユニケありがとう。
私の詩にメロディをつけて下さって。
だいたいの、メロディを把握した雪は、今度は「慰め」の詩に、
あわせて歌い出した。

このひろいうちゅう・・・
うちゅうのなかの・・・

繰り返し、繰り返し、雪が歌っていたため、恵も「慰め」のメロディを
覚えることができた。
雪と恵の喜びの声が、「慰め」のメロディとなって療養所に、
こだましていた。
ユニケと別れ、北九州療養所に入所した恵は、雪の勧めで、日記をつける。
雪と恵は毎晩二人で聖書の学びをした後に祈っていたが、
この日課に恵の日記が付け加わった。
恵が話す言葉を雪が書き取っていく。
このようにして、恵の生い立ちが記録されていった。
また、恵はどうしても浩介に自分が生きていることを知らせたかったが、
浩介の居場所がわからなかった。
雪の話によると、恵が海に身を投げたことを知った浩介は、
短生園からの転移願いを希望し、他の療養所に転移したらしい。
しかし、藤島浩介がどこの療養所に転移したか、その記録が紛失していたため、
恵は浩介の居所を知ることができなかった。

国は戦争中であったが、恵は幸せであった。

療養所には、医薬品が不足していた。薬も包帯もなかった。
包帯とガーゼが欠乏していたため、恵の皮膚からは膿が表面ににじみ出て、
ハエの格好の卵の産み付け場となっていた。
そのため、雪がガーゼの交換をすると、うじ虫がぼろぼろと転げ落ちた。

「めぐみちゃん、ごめんなさい。包帯とガーゼがないために、
こんなありさまになって。ごめんさい。」

「ゆきちゃん、あやまらないで。
私を救うために苦しまれた、イエス様の苦しみに比べれば、こんなの何でもないわ。」

このような状況に加えて、療養所は慢性的な食糧難に陥っていた。
それでも恵は幸せであった。

なぜなら恵には、イエス様の愛があり・恵みがあり・慰めがあった。

『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』
(詩篇23篇4節)

このような恵であったが、昭和19年夏。かぜをこじらせて寝込んでしまった。
戦争中である。日本全国が食糧難で飢えていた。
療養所の食糧事情は最悪であった。
栄養失調のために倒れる者が相次ぎ、命を落とす者も多くいた。
多くいたが、外出を禁止されていた患者たちに闇米を買うことは、許されない。
もともと体の弱かった恵の体力は、かぜと栄養失調のために瞬く間に、奪われていった。
雪は、恵のためになんとかしたかった。
なんとか闇米を手に入れようとしたが、恵がそれを許さなかった。

「わたしは、いいの。もし、ゆきちゃんが私のために闇米を手に入れたら、
雪ちゃんは罪を犯すことになるわ。
だって、栄養失調で死んだ患者さんが多くいるでしょう。
わたしだけを特別扱いしては、だめ。・・・
神様はすべてご存知だわ。もし、わたしに栄養が必要なら、
ゆきちゃんが闇米を手に入れなくてもイエス様は、わたしに必要な食料を与えて下さるわ。」

「めぐみちゃん、でもわたし・・・ めぐみちゃんが弱っていくのを黙ってみてられない。」

う・う・う・うわあんん・・・
雪の泣き声が、恵の枕元から聞こえてきた。

「ゆきちゃん。私、もうすぐ天国へ行くわ。」

「何を言っているの。めぐみちゃん。元気をだして。」

「ゆきちゃんに、聞いてほしいことがあるの。私、昨日夢を見たの。
その夢に、私の娘が登場して・・・
私が一度も抱くことさえできなかったわたしの赤ちゃん。
生まれてすぐに殺された私の赤ちゃんが、
その夢では元気に暮らしていて、とっても幸せそうだった。
もしかしたら、イエス様が私を元気づけるために、
そんな夢を見せて下さったのかも知れないわね。
私は、ゆきちゃんの家で看病されている時、
疑問に思っていたことがたくさんあって。

なぜ、何の罪もない両親が死ななくては、ならなかったのか。
なぜ、私の赤ちゃんが殺されなくては、ならなかったのか。
なぜ、私は病気にならなくては、ならなかったのか。等、
多くの神様に対する疑問があったわ。

『なぜ、私は、胎から出たとき、死ななかったのか。
なぜ、私は、生まれ出たとき、息絶えなかったのか。』
(ヨブ3章11節)

その頃の私は、ヨブと同じように自分の生まれた日を呪っていた。
そんな私に、神様は答えを下さった。
 
『わが恩恵なんぢに足れり。(文語訳聖書)
わたしの恵みは、あなたに十分である。』
(第二コリント12章9節)

このみことばを本当の意味で受け取る事ができた時、
私の疑問はすべて解決していたの。

『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、
その他のいけにえを喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、
雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。』
(第一サムエル15章22~23節)

イエス様は私の疑問にすべて答えて下さり、主に聞き従う素晴らしさを教えて下さった。

雪ちゃん。
雪ちゃんにお願いしたいことがあるの。
もし、私がミス・ユニケに再会する前に死ぬようなことがあったら、
私に代わってこの日記をミス・ユニケにお渡しして。
お願いね。
ゆきちゃんと巡り会えたことを神様に感謝しているわ。
私の人生は苦しみばかりだと、思って生きてきたけど、
ゆきちゃんのおとうさんに助けていただいてからは、幸せだった。
わたし幸せだった。
だって、ゆきちゃんのおとうさんに助けていただかなかったら、
わたし、イエス様を信じることができなかった。
イエス様の愛を知ることができなかった。
それに、ゆきちゃん、ゆきちゃんのお父さんやお母さん、
ミス・ユニケ。私を本当に愛して下さる多くの人に会えたもの。

神様の導きに感謝している・・わ・・」

最後の声はほとんど聞き取ることができなかった。
それから二日後の朝。
雪は、恵の手を握り締めながら、繰り返し、繰り返し、
「慰め」の歌を賛美していた。
雪には、恵が息を引き取る寸前、

「ありがとう、先に天国へ行っているね。」と、恵が言ったように聞こえた。

「めぐみちゃん。・・めぐみちゃん。」

雪の声は、恵には届かなかった。

昭和19年10月17日

北九州療養所の一室で、藤島恵は、静かに天に召された。


第五章 母


藤島恵の日記を読み終えた時、信士は涙を流していた。
自分の頬をつたう熱いものを感じていた。

涙・・・なみだ。

驚きであった。
信士は、幼い時より、涙を流していない。
涙は、人生の妨げである。そう思って生きてきた。
どんなに涙を流しても、誰も助けてはくれない。
そのことを知った信士は、涙を捨てた。

涙を捨てた信士にとって、自分のために人を利用しようと、
裏切ろうと、見捨てようと、平気であった。

泣くことで少しは、楽になれるかも知れないと思ったこともあったが。
そんな、俺が涙を流している。

恵の生涯を通して信士は、計り知れない神の愛を・慰めを・恵みを・実感していた。

神を信じることができれば、自分も藤島恵と同じように、なれるかも知れない。
そう思った時、信士の瞳から涙が溢れてきた。
涙は、信士のかたくなな心を打ち砕き・・・。
信士にとっての愛は、やさしさは、母であった。
「かあさん。」

そう信士がつぶやいた時、ルツが慰めを歌っていた姿と、母の姿が重なり合った。
そうだ。俺は、慰めを知っている。
母が幼い俺に、子守り歌のように慰めを歌っていた。
幼き日、記憶の奥底に封印した母の姿がよみがえろうとしていた。
母は、信士にやさしかった。
母は、無条件で、信士に愛を注いでくれた。
母は、信士の味方であった。

頼るもののなかった信士は、母の記憶を封印し、あえて、母の記憶を忘れ去っていた。
母の記憶は、信士の生き方にとって妨げであった。

「かあさんは、・・・ かあさん。」

信士のまぶたに、記憶の奥底に仕舞い込んでいた母の面影が、写っていた。
かあさんは、やさしかった。あたたかかった。
いつも「慰め」を歌っていた。いつも、祈っていた。
俺は、幼い日、母とともに慰めを歌い、祈っていた。

昭和11年11月10日

嵐の中、藤島恵は女の子を産む。
生まれた子どもはすぐに、看護婦の手によって命をうばわれる。
赤ん坊の死体をいつものように、野田彰の手に託した看護婦は、

「お願いね。」と、一言、彰に声をかけた。

命を奪われた赤ん坊の死体の処理は、野田の仕事であった。
いつものように死体を受け取った野田は、
死んだはずの赤ん坊が息を吹き返したのを知って、思わず後ずさりした。
この赤ん坊は生きている。死んでいなかった。
こんな事は、はじめての経験であった。
野田彰は、赤ん坊の死体を葬る時、小さな物体であると、思うようにしていた。
赤ん坊だと思ってしまうと、良心の呵責に耐えられなかった。

野田彰は、迷っていた。心がゆらいでいた。
看護婦にこの子を再び渡せば、今度は確実に殺されてしまう。
かといって自分では、どうすることもできない。
看護婦に子どもを渡そうと、もと来た道を帰りかけた時、野田彰に、
りえと一緒に読んだ聖書の個所が、頭に浮かんだ。
野田夫婦には、子どもがいなかった。
彰・45五歳、りえ・42二歳。
野田彰は、子どもが欲しかった。その気持ちは、りえも同じで、
いや、りえの方が子供に対する思いは強かった。
りえは、自分が不妊の女であることを悩み苦しんでいたが、両親、親戚は、
彰に、不妊の女であるりえを離縁するように勧めていた。
野田彰の実家は、資産家であり、
両親は本家の跡取りとなる孫の誕生を待望した。
そんな両親の期待に反して、りえが妊娠することは全くなく、
りえが不妊の女であることを知った両親は、りえに罵声をあびせ、
りえをいじめるようになっていった。
りえを愛していた彰には、りえと離縁する気持ちはなく、彰は、
りえのために野田家を捨てる。
二人は逃亡者のように故郷を離れ、ぎりぎりの生活ではあったけれど、
りえとの暮らしは彰にとって、なにものにも代え難い幸せな一時であった。

そんなりえが、彰の知らない内にキリストを信じていた。

野田彰の家は短島にない。
彰は、短生園での仕事をりえに知られることを恐れていた。
りえは、やさしさと純粋さとを兼ね備えた女性である。
そんなりえが、彰の仕事を受け入れてくれるとは、どうしても思えなかった。
生活のために選んだ仕事であったとしても、自分の仕事は間違っている。
と、彰もどこかで思っていた。
彰が、短生園での仕事に疑問を持ちはじめ、悩んでいた時に、
りえは、キリストを信じる者となった。
キリストを信じたりえは、彰に一緒に聖書を読もうと言い出したが、
彰は、聖書を読むのが嫌でならなかった。

「俺は、外国の宗教書の聖書なんか、読みたくない」と、きっぱりと言い放った。
その彰の答えを聞いたりえが、

「どうしても一緒に聖書を読んで欲しい」と、言って引き下がろうとしない。
普段は控えめで、彰に対しても他の人間に対しても、
自分の意見をほとんど主張することがない、りえの変貌に驚愕したが、
結局、妻を愛していた彰は、そのままりえの提案を飲んだ。
彰が家にいる時は、必ずりえと一緒に聖書を読むのが、野田家の日課になっていた。

『「また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。
そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。
彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、
もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、
生かしておくのだ。」
しかし、助産婦たちは神を恐れ、
エジプトの王が命じたとおりにはせず、
男の子を生かしておいた。
そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。
「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」
助産婦たちはパロに答えた。
「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って
活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
神はこの助産婦たちによくしてくださった。
それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。
助産婦たちは神を恐れたので、
神は彼女たちの家を栄えさせた。』
(出エジプト1章17~21節)

彰は、決断した。
癩の子どもと、医者は言うが、どう見てもこの赤ん坊は、
普通の子どもと変わりがない。
「俺達の、子どもとして育てよう。」

愛(めぐみ)と名づけられた恵の子どもは、野田夫婦の愛を一心に集めて育つ。
彰は、愛を連れ帰えると、すぐに短生園を辞職した。
りえの故郷での暮らしは彰にとって幸せな日々であった。
両親は愛に、イエス様に従って生きる素晴らしさを教えていた。
愛が十四歳の時に、彰は、天に召される。
それからの、りえと愛の生活は祈りの生活であった。
りえは、体が弱くまともに働くことさえ困難であった為に、
生活費は、祈りによって、支えられていた。
祈りは、りえと愛が生きていく唯一の手段であった。

『私たちすべてのために、ご自分の御子(イエス・キリスト)をさえ
惜しまずに死に渡された方が、
どうして、御子といっしょにすべてのものを、
私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
(ローマ8章32節)

『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。
患難ですか、苦しみですか、
迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。』
(ローマ8章35節)

『私たちは、私たちを愛してくださった方によって、
これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
私はこう確信しています。
死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、
今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、
そのほかのどんな被造物も、
私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、
私たちを引き離すことはできません。』
(ローマ8章37~39節)

野田愛は、このみことばが真実であることを学んでいた。
イエス様は私を決して見捨てられない。
私がイエス様をどんなに拒んだとしても、それでも、
イエス様は私を愛して下さる。
イエス様の愛から私を引き離すものはこの世の中に存在しない。
と、いつも確信して、野田愛は生きていた。

寝たきりになっていたりえが、愛を呼んでいた。

「めぐみちゃん。めぐみちゃん。」

愛を呼ぶ、りえの声は、今にも消えてしまいそうなほどに小さく、
愛はりえの死期を悟った。
「驚かないで、聞いてね。・・・めぐみちゃん。
めぐみちゃんは、私が産んだ子では・ない・の。
ごめんね。もっと早くに、話さなくてはいけなかったのに。
生まれたばかりのめぐみちゃんを、おとうさんが連れて来て下さったのよ。
私は、めぐみちゃんを見た途端に、わたしの子どもだ。
神様が与えてくださった、わたしのあかちゃんだ。と、確信したの。
めぐみちゃんの本当の両親は、おとうさんも知らないと言っていたわ。
ただ、めぐみちゃんのおかあさんは、めぐみちゃんを産んで、
すぐに亡くなったそうよ。
ごめんね。別に隠していたわけではないの。めぐみちゃんは、
私の血をわけたむすめ・・娘よ。
誰がなんと言おうと、めぐみちゃんは、おかあさんとおとうさんの、
かわいい・かわいい・む・す・・・め。」
母の声が途切れた。
母は微笑んでいた。
微笑みながら、天国へ旅立って行った。

母の死後、野田愛は主の導きで一人の青年と知り合う。
青年の名は、石田勇。
勇は、母の昇天式の準備を黙々と手伝ってくれた。

「ごくろうさまです。」

野田愛に声をかけられた勇は黙って頭を下げた。
これが、二人の出会いだった。
野田愛は、素朴で、イエス様に忠実に従おうとしていた勇に、
好意を抱くようになっていた。勇も愛に引かれていた。

昭和33年9月30日に結婚した二人は、前々から話のあった恵雨療養所で働くことになる。
野田愛は、療養所の看護助手。
夫の勇は、療養所の雑事一切をこなしていた。
野田愛は療養所の婦長であった長野雪を尊敬していた。
長野雪は婦長であるのに、婦長として、いばり散らすことなく、
人の嫌がる仕事を率先して引き受けていた。

ある日、雪が

「愛ちゃんの、笑顔は私の大好きだった人にそっくりよ。
愛ちゃんを見ているとその人を思い出すわ。
名前まで同じ、めぐみだし。
愛ちゃんと一緒にいるとわたしの大好きだった恵ちゃんが生きているみたい。」

雪は、恵の面影を持つ、野田愛を愛した。
雪から「慰め」の歌を教えてもらった愛は、いつしか雪と同じように、
「慰め」を口ずさむようになっていた。


昭和36年11月24日

熊本にある恵雨療養所内の病院で愛は、男の子を出産した。
勇と愛はその子に、イエス・キリストを信じる勇士であれとの願いから信士と名づけた。
勇と愛は信士が四歳の時に事故によってこの世を去った。
一人残された信士を雪が育てようと決心していた矢先に、
野田家の使いの者が信士を無理矢理連れ去った。
石田信士は、野田家の本家と分家の跡継ぎをめぐる争いに
、利用され、信士を利用した分家が、本家に代わり野田家の財産を管理することになると、
用無しとばかりに信士はあじさい園に預けられてしまった。
信士が、あじさい園に預けられたのは五歳の時であった。

信士はルツに、藤島恵の日記を読み聞かせた。ルツは泣いていた。
ルツは、藤島恵の生涯を知り、またどのように「慰め」の詩が生まれたかを知って、
涙が止まらなかった。
信士が日記を読み終えた時、ルツが語り出した。

「シンジ。実は私、その日記に書かれていたハンナの姪なのよ。ハンナ叔母様も、
ユニケ叔母様も主イエス様を、信じてすべてを捧げておられた。
「慰め」の歌は、直接ユニケ叔母様より、教えていただいたのよ。
ユニケ叔母様は、いつも「慰め」を歌っておられたから、
少女であった私も、叔母様がたと一緒に「慰め」をよく歌ったものだわ。
ユニケ叔母様は、戦争が終わってから、何とか日本に帰ろうとされ、走り回っておられた。」

昭和23年6月

78歳のユニケは、再び、日本の土を踏む。
雪との再会でユニケは、恵をはじめ、多くの愛する者の死を知った。

「ミス・ユニケ。お渡しするものがあります。これは、めぐみちゃんの生涯を綴った日記です。
めぐみちゃんは、日記をミス・ユニケに渡して欲しいと言って、天に召されました。」

涙が出た。恵と一緒にミス・ユニケと再会したかった。
それは、ユニケにとっても同じ思いであった。
こうして、藤島恵の日記はユニケの手に渡る。

昭和25年2月16日

雪は、寝たきりになっていたユニケの枕元に座って居ると。

「ゆきちゃん。聖書を読んで。」と、か細い声でユニケに頼まれた。

ユニケが聖書の個所を言わなくても、雪は読むべき所を知っていた。

「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」
(第一ヨハネ3章16節)

ユニケの生涯はまさに、このみことばに従って生きてきた。ユニケは、
叔母のロイスから、このみことばに従う姿勢を学んだ。
ロイスは、すべてのものを捨てて、
イエス様の愛を伝えるために日本にやってきた。

ロイスが慰受病院を開設したのは、明治28年のことであった。
慰受病院の働きのために手助けの必要を感じていたロイスは、ユニケに手紙を書く。

― ロイスの手紙 ―

私たちが普段の生活の中で、すぐに忘れてしまうことが、地獄の存在です。
滅びから救われていることをイエス様に感謝しながらも、ついその存在を忘れ、
それゆえ熱心に伝道することをしません。
しかし、私たちの周りにいるイエス様を救い主と信じていない方たちは、
確実に滅びに向かっています。
もし、このことを厳粛にとらえるならば、
私たちの伝道はもっと熱心なものになるはずです。
サタンはすぐに私たちから、地獄を忘れさせようとします。
私たちが、サタンの惑わしによって、地獄を忘れていたとしても、
それゆえ伝道しなかったとしても、確実に私たちの周りにいる人々にも、
死はやってきます。
そして、イエス・キリストの十字架の救いを信じない者は、
永遠に滅びることになります。
私は、その思いにいても経ってもいられずに、日本にやって来ました。
日本に来た私をイエス様は、導かれ福音を伝えるべき人々に、
巡り合わせて下さいました。
その人たちは、日本の国に見捨てられた方々です。
イエス様は、イスラエルの中で、もっとも嫌われていた取税人、
らい病人の友となられました。


『さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられると、』
(マタイ26章6節)

『すると、パリサイ人やその派の律法学者たちが、
イエスの弟子たちに向かって、つぶやいて言った。
「なぜ、あなたがたは、取税人や罪人どもといっしょに飲み食いするのですか。」
そこで、イエスは答えて言われた。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」』
(ルカ5章30~32節)

ユニケに私と同じ思いが与えられましたら、日本に来て下さい。
真の神を知らない、聖書を知らない、神の愛を知らない、日本人の中で、


もっとも虐げられている方々に、福音を伝えに来て下さい。

『キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。
それによって私たちに愛がわかったのです。
ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。』
(第一ヨハネ3章16節)

『あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、
「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」と言っているのだから。』
(イザヤ41章13節)

ユニケがロイスと同じ道を歩むべく日本に来日したのは、明治29年。
ユニケが26歳の時である。
二十六歳の時よりユニケは、日本のハンセン病に苦しむ人に、神の愛を・救いを伝えるために生きてきた。

昭和25年2月26日

「勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通した。」
ユニケは、80歳で天に召された。

ユニケの願いもあって、ユニケのもっていた藤島恵の日記は、
オーストラリアにいるハンナのもとに送られた。
ハンナはその日記をユニケの遺品と共に、大切に保管していた。
恵の日記と一緒に日記の翻訳書も添えられていたが、
翻訳書は紛失し、ハンナの手に届くことはなかった。
そのため、ハンナは藤島恵の日記の内容を知らずに、天に召される。

ユニケの死後、半世紀の時を経て、
ルツが屋根裏部屋にあったトランクの中から日記を発見する。

ルツからユニケの話を聞いた信士は、
自分がなぜ、あれほどマリヤにひきつけられたかを理解した。
マリヤは母の面影を持つ女性であった。

半年後。

「いろいろとお世話になりました。」

「シンジ、これからも、いつでも私の家にいらしてね。
この家はシンジの家ですから。お祈りしています。」

「ありがとう。ルツ。行ってきます。」

日本に旅立つ信士の手には、聖書が握られていた。


『私はキリストとともに十字架につけられました。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、この世に生きているのは、
私を愛し私のためにご自身をお捨てになった
神の御子を信じる信仰によっているのです。』
(ガラテヤ2章20節)


伝道小説『なぐさめ』に関するご意見、ご質問などがございましたら、
お気軽にお問合せ下さい。

E-mail:nagusamenokirisuto@gmail.com

TEL06-4862-6075