チンギス=ハーンの孫の時代(2) |
他地域の情勢 |
1260年 |
3-フビライ、開平府でハーン位につく(世祖〜1294)。 4-アリクブカ、カラコルムでハーン位につき、フビライと対立。 |
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10-チベット僧パスパ、帝師となる。 |
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1261年 |
5-史天沢(してんたく)、中書右丞相に、耶律鋳(やりつちゅう:耶律楚材の子)左丞相となる。 |
5‐教皇アレクサンデル4世、ヘンリー3世にオックスフォード条項(1258年)の無効を認める。英国王と諸侯の対立激化。 |
7-フビライ、南宋征討を宣言。 |
7‐ニケーア帝国皇帝ミカエル8世、ジェノヴァの支援を受け、コンスタンティノープルを回復し、ビザンツ皇帝に復位。 |
11-フビライ、シムルト=ノールの戦いでアリクブカを撃破 |
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チャガタイ=ハン国でアルグ即位(〜1266) |
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1262年 |
山東の漢人世侯李壇、宋に通じ反乱。平章政事の王文統、李壇と共謀した罪で殺害される。史天沢、李壇を追討し、乱平定。 |
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皇子チンキム、燕王、宋中書令となる。 |
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1263年 |
5-開平府、上都となる。 8-元帥府を大理に置く。 |
1263年 英シモン・ド・モンフォール、貴族の反国王闘争を指導。 |
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1263年 ヴェネツィア海軍、ジェノヴァとビザンティンの連合軍を撃破。 |
1264年 |
宋の理宗没(1224〜)、度宗即位(〜74) |
1264年 リューイスの戦い;モンフォール率いる貴族軍、ヘンリー3世を捕虜とする。 |
アリクブカ、フビライに降る。 8-燕京、中都となる。 |
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12-モンゴル、諸侯の世襲をやめ、遷転法を実施。 |
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1265年 |
モンゴル人を各路ダルガチに、漢人を総管に、イスラム教徒を同知に充てることを定制とする。 |
1265年 4-モンフォール、議会を召集。8-イーヴシャムの戦い;皇太子エドワード、モンフォールを敗死させる。 |
8-アントンが中書右丞相に、バヤンが中書左丞相に。 |
1265年 教皇クレメンス4世、仏王の末弟シャルルにシチリアを譲渡。 |
イル=ハン国のフラグ没(1258〜)。子のアバカ即位(〜1282) |
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1266年 |
高麗王、モンゴル使者黒的を日本に送る(巨済島から引き返す) |
1266年(*1) 奴隷王朝のマムルーク出身の有力貴族ギヤースッディーン・バルバンが自らスルターン位に就き、イルトゥトゥミシュ家から王位を奪う。即位後バルバンは軍制を改革してモンゴルのインド侵攻を防ぎ、スパイ網を整備したり、スルターンの神聖化に務めるなど、君主権の更なる強化を推し進めた。 |
アリクブカ没。 ハイドゥの乱起きる。 |
1267年 |
大都建設始まる。 |
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賈似道(かじどう)、平章軍国重事となる。呂文煥、知襄陽府兼京西安撫副使となる。 |
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モンゴル軍に強請され、高麗の潘阜、使者として日本へ派遣される。 |
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1268年 |
モンゴル、諸路の女真、契丹、漢人のダルガチを廃止。(モンゴル人のみ) |
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シリギ(モンケの子)河平王となる。 |
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高麗の潘阜、使命失敗し日本の太宰府より帰国。 |
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モンゴルの黒的、再度日本へ派遣される(対馬に至り引き返す) |
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1269年 |
高麗の林衍、元宗を廃し、王弟を擁立。崔坦、林衍征討を名目に挙兵し西北部60余城とともにフビライに降る。林衍、モンゴル軍の圧力に屈し、元宗を復位させる。 |
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パスパ文字頒行される。 |
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1270年 |
趙良弼(ちょうりょうひつ)、秘書監となり日本へ派遣される。 |
インド、デリースルタン朝のバルバン、1241年にモンゴルに占領されたラホールを奪回。パンジャーブ支配を確立。 |
イル=ハン国、ファールスのサイグル朝を滅ぼす(1148〜) |
1271年 |
国号を大元と改める。 |
1271年 ノヴゴロド公アレクサンドル・ネフスキーの末子ダニール・アレクサンドロヴィチ、初代モスクワ大公となる。 |
チャガタイ=ハン国のバラク=ハーン、ハイドゥに殺される。 |