モンゴル人物解説
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チンギス=ハーン |
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歴代ハーン 参照 |
ボルテ |
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チンギス=ハーンの妻。 |
テムゲ=オッチギン |
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チンギス=ハーンの末弟。東方に分封されたが、末子(オッチギン)相続の習慣からも最も大きな領土を与えられる。オゴディ死後に挙兵を図るが、その息子グユクが西方戦線から早く帰国していたため、オゴディの弔問に来たと言い逃れる(後に査問があり、臣下数名が処罰された)。後にオッチギン家はフビライを支援することとなる。 |
ジュチ |
1177〜1224年 |
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チンギス=ハーンの長子。母ボルテが懐妊中にメルキト部に略奪され、ワン・ハーンの尽力で帰ることができたが、生まれた長男には「客人」を意味するジュチと名づけられ、出生の秘密がつきまとった。西征に際してはホラズムを囲み、さらに南ロシアの地を征服し、二度とモンゴルに戻ることなく、この地に封ぜられ、キプチャク=ハン国の祖となった。病からモンゴルに戻らず、父チンギス=ハーンからも反乱の疑惑をかけられた、討伐軍が差し向けられそうになったが、病は本当で病没した。 |
チャガタイ |
?〜1241年 |
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チンギス=ハーンの第二子。金征伐にあたり兄ジュチ、弟オゴディと従軍。兄ジュチの出生についてからかったことからジュチと不仲になった。オゴディ即位後はよくその相談にのり、尊崇を受けた。厳格な性格で法令を司った。西遼の故地を分封地とした。その住民はトルコ系が主であったが、その文化はイル=ハン国、キプチャク=ハン国よりは遅れており、イスラム教徒は厳格な法令徴税に苦しんだという。 |
オゴディ |
1186〜1241年 |
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歴代ハーン 参照 |
トゥルイ Tului |
1192〜1232 |
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チンギス=ハーンの末子。1211年の金国侵入。1219年のチンギス=ハーンの中央アジア征討にも参加し大きな戦果をあげた。西域征討後、末子相続の慣習によりモンゴル本国の領有権を獲得。1227年チンギス=ハーン死後の空位期には監国となったが、第二代ハーンの座をオゴディに譲り、モンゴル帝国の安定に寄与した。ハーンの座は譲ったものの、モンゴルの軍隊のほとんどをトゥルイ家に継承され、その子モンケ、フビライ即位につながることとなる。 |
トゥラキナ |
?〜1246 |
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第二代ハーン、オゴディの妻であり、第三代ハーン、グユクの母。はじめメルキトの部族長トフトハの長子フトの妻となる。1204年メルキト部を掃滅したチンギス=ハーンによりその第三子オゴディの妃となる。オゴディ死後、監国となり、グユクへのハーン位継承を画策した。グユク即位後も政治に参画し、色目人のラフマーンやファーティマを登用するなどして、政治の乱れの原因となる。 |
耶律楚材 |
1190〜1244 |
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契丹人で、金に使えていたが、燕京陥落後にその名声を聞いたチンギス=ハーンから招聘された。チンギス=ハーンの西征にも随行し、チンギス死後の継承問題においても遺志を奉じてオゴディ即位に尽力。オゴディ治世中、中書令として行政徴税等に多大な貢献をした。漢文に深い理解を持ち、漢族統治について献策するなどモンゴル帝政政治の基礎を作った。オゴディ死後はトゥラキナの専横に対して先帝の遺詔を以って抗し、政治から退けられた。ウルツサハリと呼ばれた。号は湛然居士。 |
グユク |
1206〜1248年 |
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歴代ハーン 参照 |
オグルガイミシュ |
?〜1246 |
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第三代ハーン、グユクの妻。オゴディの死後はその母トゥラキナとともにグユク擁立に尽力した。グユク死後は監国となり、孫にあたるホージャ・オグルやナグを擁立しようとしたが、まとめきれず、バトゥに押さえられてモンケ擁立を許してしまった。 |
ソルカグダニ |
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トゥルイの妻。モンケ、フビライ、フラグ、アリブクカの母。オッチギン(末子)家であるトゥルイ死後はモンゴル宮廷で主要な地位を占めるが、トゥルイ家をまとめてオゴディ家との争いを避けるなどしてモンゴルの安定に寄与し、また結果としてモンケ即位にも貢献することとなる。 |
バトゥ Batu 抜都 |
1207〜1255年 |
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チンギス=ハーンの長子ジュチの子。キプチャク=ハン国の祖。ジュチの死後、父のウルスを継いでハーンとなる。1236年の西方遠征で総司令官となり15万の軍を率いて同年ブルガルの首都を奪い、1237年ヴォルガを渡り、1240年に至るまでロシア全土を攻略し、1241〜42年ポーランド、ハンガリー、ダルマチアを侵略し、リーグニッツに迫った。ロシアの地は完全に平定され、以後、ヴォルガ下流のサライに後のキプチャク=ハン国を構えた。西方遠征で後にハーンとなるグユクと険悪になり、グユク死後はトゥルイ家に協力してモンケ擁立に尽力した。 |
フビライ Khubilai 忽必烈 |
1215〜1294年 |
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歴代ハーン 参照 |
アリクブカ Arikbuge 阿里不哥 |
? 〜1266年 |
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トゥルイの末子。フビライの異父弟。モンケが宋とんお戦中で没すると、フビライとハーン位をめぐって争った。ともに別のクリルタイをよって即位した。アリクブカは一時チャガタイの協力を得て、優勢であったが、ついに敗れ降伏した。のち再び反した時、味方の阿魯忽に離反され、これと戦ううちに部下にも背かれて再度フビライに降伏した。処刑は許されたが、元に位はフビライに帰した。 |
ハイドゥ Khaidu 海都 |
? 〜1301年 |
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オゴディ=ハーン国の首長。元の世祖フビライと宗主権を争って、モンゴル帝国の大分裂を招いた。1266年元の西北区を侵し、世祖の新たに擁立したチャガタイ=ハーン国主バラクを討ち、世にいうハイドゥの乱をおこした。その後も世祖との争いをつづけ、成宗(元の二代皇帝)のときまでつづいた。 |
史天沢 |
1202〜1275年 |
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河北出身。1229年オゴディ即位の年、史家の私兵を率いて入朝。真定など5略の万戸となり金討伐に参戦した。さらにモンケの時、衛州を賜り、各地に転戦し大功を立てた。フビライ即位にあたっても漢族の重要人物として支援した。1274年パヤンと南宋討伐に向うが病没した。 |
海雲 |
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モンゴルの仏教を管轄した僧。フビライはモンケから嫌疑をかけられ窮地に陥ったが、海雲がフビライの背後に漢民族が結束していることを示し、フビライを救った。 |
オルガナ Organa |
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チャガタイ=ハン国の第二代ハーンハラフラグの妃で、夫の死後、ハン位を継ぐ(在位1252年〜1261年)。才色すぐれた賢婦で、その治世は平穏であったが、世祖の推したアルグに政権を奪われた。しかし、アルグと結婚し、ハン位はアルグの死後、その子ムバラク・シャーが継いだ。 |
バヤン Bayan 伯顔 |
1235年〜1294年 |
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フビライに仕えたモンゴル人。父はフラグに仕えておりイル=ハン国からフビライに引見されたが、気に入られて元に留め置かれた。伐宋軍司令官とし、臨安攻略し、恭帝を捕えた。彼の偉勲についてはマルコ・ポーロの「東方見聞禄」にも記されている。臨安攻略時には略奪を禁じ、南宋文化を保護した。そののちハイドゥの乱鎮圧にも活躍。フビライから国運を託されたが、フビライの死後まもなくして死去。 |
文天祥 |
1236年〜1282年 |
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20才にして進士(首席の“状元”)となる。1275年勤王の軍を起し、丞相も勤めるが、まとまりのない逃亡宋王朝の気勢は上がらず、海路南下する朝廷と別れ内陸部でゲリラ戦を続けるが、元に捕えられる。宋滅亡後、大都に送られ、フビライはその才を惜しみ、仕官を勧めたが、節を曲げず、3年の獄中生活の後、処刑された。獄中で「正気の歌」を作る。 |
蒲寿庚 (ほじゅこう) |
生没年不詳 |
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南宋末の富豪、アラビア人。祖先は中国に渡来し広州で蕃長を務めた富豪で、父のとき泉州に移った。蒲寿庚は海賊を撃退した功により提挙市舶となり、30年間その職にあって巨富を得た。元の南宋征討にあたって、海上勢力とともに元につき、元に重用され、南海諸国と貿易を開き福建地方に大きな勢力をふるった。 |
成宗 |
1265年〜1307年 |
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元の第二代皇帝。世祖フビライ(忽必烈)の孫。1294年フビライ死後、伯顔などの力により即位。ビルマ討伐、ハイドゥの乱の平定などが治績。この結果、長年続いたモンゴル帝国内の戦乱も終わりを告げた。 |
ドゥワ Duwa |
1274年〜1306年 |
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チャガタイ=ハン国のハーン。バラクの子、在位30年間を元との抗戦にささげた。1275年ウイグル王領に侵入。1305年元朝の成宗と講和、名実ともにチャガタイ=ハン国の支配者となり、さらにオゴディ=ハン国を併合。西トルキスタンにも進出し、中央アジアに統一をもたらした。しかし、ドゥワの死後東西に分裂した。 |
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