Title9-3.GIF (2758 バイト) モンゴル歴代のハーン☆彡 . . . . . . . . . . . . . . . .

 

クロニクル「モンゴル帝国」 モンゴル系図  モンゴル人物解説

モンゴル帝国 歴代ハーン
1 チンギス=ハーン Chingghis Khaghan 成吉思汗 在位1206年(39才)〜1227年(60才)
即位まで 太祖。名前はテムジン。モンゴル部ボルジギン氏キヤト骨の出。13才の時父イエスゲイを失うと、部族が分散して苦難を味わうが、ケレイト部の援助の下、部下を集め、1189年モンゴル部の統一に成功し、ハーンに選ばれチンギス=ハーンの尊号を得た(第一次即位)。その後、東方のタタール部、西方のケレイト部、ナイマン部などを討滅し、モンゴル高原全体の覇権を確立し、1206年オノン・ケルレン河畔の大クリルタイでモンゴルのハーン位に就いた。
主な業績 ・周辺各地を攻略、内蒙古のオングート部、東トルキスタンのウイグル部、西北蒙古のオイラート部などが来降した。
・金を攻め、満州と華北の半ばを獲得。
・西征を行い、西遼(カラ=キタイ)、ホラズムを併合。
・スプティ、ジェベ等を派遣し、南ロシアを討伐。
・4子、4弟を分封し、長子ジュチに南ロシア(キプチャク)を、次子チャガタイに西遼およびホラズムを、第三子オゴディにナイマンの故地を与えた。(末子相続の習慣からトゥルイはカラコルム周辺を得るが、後にハーン位とともにオゴディに譲る)
最期 1227年5回目の西夏征討の陣中で病に倒れ、六盤山(現在の甘粛省清水県)付近で没。
2 オゴディ  在位1229年(43才)〜1241年(56才)
即位まで 太宗。チンギス=ハーンの第三子。兄ジュチとチャガタイが不和であったのをよくまとめるなど人徳があった。チンギス=ハーンの死後、末子相続の習慣の中で末子トゥルイが相続すべきところ、次の代ではトゥルイ家にハーン位を返すことを条件にハーン位を譲り受ける。
主な業績 ・父の遺志をよく守り、耶律楚材の輔佐を得て、内政を充実させた。
・1234年金を滅ぼす。
・バトゥに50万の軍を授けて、欧州を席捲した。
・カラコルムを首都とした。
 
最期 優秀な息子クチュを戦で亡くし、妻トゥラキナの運動もあって、トゥルイ家の動きを抑えてグユクにハーン位を継承させた。
3 グユク 在位1246年(40才)〜1248年(42才)
即位まで 定宗。オゴディの子。ロシア、キエフ征服で戦功あったが、陣中で総司令官バトゥと不和となり、父オゴディから査問にかけられる途中で父が死去。
主な業績 ・ローマ教皇の使者カルピーニ、カラコルムに至る。
  ・母トゥラキナに重用されていたラフマーン、ファーティマを母の死後に処刑。
最期 即位当初から病気がちで酒飲みであったといわれる。死後、皇后オグルガイミシュが監国となる。オゴディの子(グユクとは異母弟となるクチュの子)孫シラムン擁立派とバトゥらのモンケ擁立派が対立した。
4 モンケ 在位1251年(43才)〜1259年(51才)
即位まで 憲宗。トゥルイの長子。オゴディの時、バトゥに従ってロシア征討で戦功。グユク死後の帝位継承争いの中、バトゥ(ジュチ家)らの支援で、オゴディ家、チャガタイ家に勝ち3回目のクリルタイで即位した。
主な業績 ・1253年高麗を攻略。
・三弟フラグをペルシア地方に遠征させる。(後のイル=ハン国)
・次弟フビライを吐蕃、大理、安南を征討させる。
最期 フビライの南宋討伐に自ら出陣したが、四川に侵入し、合州(重慶)包囲中に病没。
5 フビライ Khubilai 忽必烈 在位 1260(45才)〜1294(79才)年
即位まで 世祖。チンギス=ハーンの末子トゥルイの第二子。兄のモンケ即位後、東方に封ぜられたが、モンケ及びその周辺から謀反の疑いをかけられ、その部下などを処刑される。漢族や一部皇族からの人気を背景としてフビライはモンケと和解。伐宋戦のため南下し、吐蕃から四川を攻略、雲南の大理を併せ、安南を攻略した。そこでいよいよ南宋討伐のため、モンケ自ら兵を率いて蜀に入ったが、そこで病死した。これよりフビライは末弟アリクブカとの帝位継承の戦いとなった。首都カラコルムでアリクブカが即位すると、フビライは開平府に自立し、アリクブカを破った。
主な業績 ・即位後、都を燕京に移して大都と号し、1271年国号を大元とした。
・征宋の軍を起こし、1279年宋を滅ぼした。
・統一後、政治上はモンゴル族を最上位に置き、次いで色目人を重用した。その結果として東西の往来が盛んになり、マルコポーロもフビライに謁見している。
・吐蕃に対してはラマ教を利用して統治したが、モンゴル族にもラマ教が浸透し、モンゴル人の精神の頽廃にもつながった。
・1266年ハイドゥが反乱を起こした。子の成宗のときに平定されるまで長期化した。
・高麗経略後、1274年、1281年の前後2回日本にも来寇したが、失敗している。
・一方、西南に対してはビルマのパガン朝を征服し、南は占城(チャンパー)やジャワ等を討伐して朝貢させた。それにつれてシャム、スマトラ等も来朝するようになった。
最期 1294年死去。息子のチンキムはすでに死亡しており、伯顔(パヤン)等の輔佐を得た孫のテムル(成宗)が即位した。
       
 

クロニクル「モンゴル帝国」 モンゴル系図  モンゴル人物解説