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 ◆チンギス=ハーンの子の時代(概略)◆
チンギス=ハーンの死後、クリルタイによって三男オゴディがハーン位についた。しかし、モンゴル軍の主力は末子相続の習慣からトゥルイが引き継ぐこととなる。これが後にハーン位継承の争いにつながることとなる。チンギス=ハーンの長子ジュチは西方に分封され、それより西は切り取り放題となっていた。そのため、西征の司令官には亡きジュチの長子バトゥが若いながら任命された。これがバトゥの西征として、ヨーロッパ世界を震撼させることとなる。一方、東方では1234年ついに金を滅ぼし、南宋と対峙することとなる。帝国内では戸籍調査、通貨発行、首都カラコルムの完成など国家としての体裁を整えつつあった。

チンギス=ハーンの子の時代(1) 他地域の情勢
1228年 3-金の武将完顔陳和尚、モンゴル軍を大昌原で大破。 フリードリヒ2世、第6回十字軍遠征に出発。
アルモハード朝の王族アブー=ザカリヤー、チュニス総督となりハフス朝の基を開く(〜1574)
1229年 オゴディ、クリルタイでハーンとなる(太宗)。ヤサク(チンギスの定めた法令)は頒布。 インド奴隷王朝イレトゥミシュ、カリフからスルタンの称号を受ける(デリー・スルタン朝)
十字軍、イェルサレム占領;イェルサレルム王国
オゴディ、金征討を決定。10-金の慶陽に迫る。 イエメンでアイユーブ朝の君主が追われ、ラスール朝成立(〜1454)
1230年 1-金、モンゴル軍を破り、慶陽の囲みを解く。 ハフス朝アブー=ザカリヤー。チュニジア全域を支配。
7-オゴディ=ハーン、金を親征。トゥルイ、モンケ、従う。 アフリカでマリ王国勃興。
11-モンゴル、耶律楚材の建議により、初めて華北の支配漢地に十路徴収課税使を置く レオン王アルフォンソ9世没。子のカスティリヤ王フェルナンド3世、レオン王を継承し両国合併(〜1253)
1231年 モンゴル軍、金の鳳翔府、河中府を占領。 ホラズム朝ジャラール=アッディーン没、同朝滅亡。(1077〜)
8-モンゴル、中書省を設け、耶律楚材を中書令とする。
10-モンゴル武将サルタク、使者殺害を口実に高麗進攻。高宗降伏。ダルガチ72人を配置する。
1232年 モンゴル、宋と連合して金を討つことを決定。 フリードリヒ2世の帝国令;諸侯に特許状を与え、領域内の司法権と貨幣鋳造権を認める。聖地諸侯、皇帝軍を破る。
7-高麗の崔[王兎]、モンゴルのダルガチを殺してモンゴルに抵抗し、都を江華島に移す。モンゴル軍再び侵入。
1-モンゴル武将スプティ、金の[ベン]京を囲む。 グラナダにナスル朝成立(〜1273)
金の完顔陳和尚、三峯山でモンゴル軍に大敗し、自殺。 ブルガリアのイヴァン=アッセン2世、ローマ教会と断交。ブルガリア教会、ローマ教会から独立。
金、モンゴルに和を請うが失敗。哀宗、[ベン]京を脱出。 教皇勅任の異端審問官、ドミニコ教団から任命される:異端審問が組織化され、仏、独で異端者に対し死刑を採用。
トゥルイ没。
1233年 高麗の武将洪福源ら、モンゴルに降る。 インドデリースルタン朝のイレトゥミシュ、ビルマを征服。
モンゴル、金の[ベン]京を占領。哀宗、蔡州に逃走。
モンゴル、蒲鮮万奴を捕縛し、遼東の大真国滅ぶ。
1234年 モンゴル、宋連合軍、金の蔡州を攻撃。宋、三京(開封、洛陽、帰徳)を占領。 異端討伐十字軍、十分の一税支払い拒否農民をオンデンブルグで全滅させる。
モンゴル、洛陽、開封を奪還。宋の背盟を責める。 教皇グレゴリウス9世、プロイセンをドイツ騎士団に授封。
金の哀宗、承麟(末帝)に譲位し、自殺(1223〜)。 スペインのナバラでサンチョ7世死去、フランスの勢力下に入る。
モンゴル軍、宋軍と共に蔡州を占領。金滅亡(1115〜) ナスル朝のムハマンド1世、グラナダを首都とする。
1235年 カラコルム(和林)築城。 ハフス朝のアブー=ザカリヤー、アルジェを占領。アルジェリアにジャーン朝成立(〜1554)
バトゥ、グユク、モンケらは西征。クチュ、クトクらは宋、タングは高麗へ出陣。(グユク、クチュはオゴディ=ハーンの息子。モンケはトゥルイの長男。) ニケーア帝国ヨアンネス3世、クレタのヴェネツィア人を攻撃
ブルガリアのイヴァン=アッセン2世、ニケーア皇帝と結んでラテン帝国のコンスタンティノープルを攻撃。
1236年 宋に侵入し、各地で戦い。 カスティリア王フェルナンド3世、イスラム教徒の首都コルドバを占領。
モンゴル、万安宮完成。交鈔を発行。ゴデン、成都を征する。
オゴディの後継として期待されていたクチュ、湖広で陣没。モンゴル軍、淮西へ進軍。 奴隷王朝でイルトゥトゥミシュの死後、娘ラズィーヤ(女帝)即位。(*1)
バトゥ、ヴォルガのブルガル人を征服
1237年 バトゥの西征軍、キプチャク諸部を征し、モスクワ、キエフを攻撃。 西北インドでイスマイル派が反乱し鎮圧される。
ハフス朝、ムワッヒド朝から独立する。

 

 1236年(*1)  イルトゥトゥミシュは軍事・内政機構の整備やスルターン権力の強化を進め、奴隷王朝を安定政権に発展させることに成功する。イルトゥトゥミシュは元マムルークではあっても、もともと中央ユーラシアのテュルク系遊牧民であるキプチャクの有力部族イルバリーの遊牧貴族であったので、イルトゥトゥミシュの時代に「四十人(チャハルガーニー)」と呼ばれるイルバリー系のテュルク系貴族集団が形成されて、支配層となっていった。イルトゥトゥミシュはこうして絶大な君主権を背景にスルターン位の世襲制を実現したが、自らの後継者に人材を得ないことに悩み、娘のラズィーヤを王位に即けることを決めた。はじめ貴族やウラマーたちは女王ならば傀儡にできると考えて、イスラーム世界では異例の女王の誕生を容認したが、ラズィーヤはきわめて優れた政治家で自ら権力を握る意欲を見せたために、1236年、イルトゥトゥミシュの死後、スルターンと貴族たちとの争いが深まった。
資料 陳舜臣『チンギス=ハーンの一族』