第二次ポエニ戦争前までの経緯 |
BC218年 |
ハンニバル、エブロ河(ローマとの協定で支配を認められていた線)を渡り、アルプスを越え、北イタリアに侵入。
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ティキヌス・トレビア川の戦い;ローマ領を目前にしたハンニバルと迎え撃とうとしていたローマの執政官コルネリウスが偵察行で出会いそのまま戦闘に至る。騎馬兵力の優秀なハンニバル側の勝利。 このとき執政官コルネリウスは重傷を負いその息子に戦場から救い出される。ハンニバルは執政官を取り逃がしたことを口惜しがったというが、本当に悔やむべきは、執政官を戦場から救い出したこの執政官の息子でもあった若い騎士を取り逃がしたことだろう。ハンニバルがこれより十六年後にザマの戦いで会戦することとなる父親と同じ名前のプブリウス・コルネリウス・スキピオである。
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BC217年 |
4-トラシメヌス湖畔の戦い;イタリア半島を南下するハンニバルは追跡していた執政官フラミニウスは、ハンニバルの待ち伏せに会い、2個軍団2万5千のうち、1万7千が戦死、6千人が捕らわれるという大敗北を喫する。リミニから南下しはさみ討ちをねらっていた他の騎兵軍団4千人も戦死した。ローマは3日の行軍距離に5万のハンニバル軍を迎えることとなった。
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BC216年 |
3-カンネの会戦;ハンニバルに対するローマのはじめての本格的な会戦となる。ヌミディア騎兵を効率的に活用したハンニバルの勝利。ハンニバル側の戦死5千5百に対し、ローマ側は80人の元老院議員を含めた7万人が戦死するという歴史的な大敗北を喫した。
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カンネにおける大敗後、南イタリアの主要都市カプアとカラーブリア地方がハンニバルの支配地域となる。
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BC215年 |
シラクサの僭主ヒエロンが没し、ハンニバル側の工作によるクーデターで親カルタゴ政権となる。
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マケドニアのフィリップス5世がハンニバルと同盟
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ローマはハンニバルとの直接の会戦は避け、周囲を固めてハンニバルをイタリア半島で孤立させる戦略をとる。
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BC214年 |
ハンニバルはカルタゴ本国からの支援を得るため、ナポリ、タレンツゥムなどの海港奪取をねらうが、グラックスの奴隷軍団などが善戦し失敗する。
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