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BC238年 gya_l_bg.gif (1060 バイト)    gya_r_bg.gif (1063 バイト) BC213年

第二次ポエニ戦争前

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概略

第一次ポエニ戦争後、カルタゴのハミルカルはスペインを征服し、植民地として対ローマのための財源を作った。スペイン遠征の際に、息子ハンニバルに生涯ローマを敵とすることを誓わせた上でスペインへの同行を許したという。しかし、これはハミルカル独自の方針であり、カルタゴ国内やローマで相互への敵対意識が続いていたわけではない。一方、ローマはアドリア海の対岸イリュリアと戦い、その沿岸部を支配下に入れ、北部イタリアではガリア諸部族を撃破し、BC220年には国境をルビコン川からポー河へ移すなど領土の拡張はつづいた。支配した部族を同盟者として優遇し、街道などのインフラ整備を行ない、周辺を徐々にローマ化していった。この頃300年つづいた軍制改革も行なっている。ローマでは選挙権をもつローマ市民が徴兵などの面でも重い責務を負っていたが、傭兵に頼るカルタゴの軍制は変わっていない。

 
第二次ポエニ戦争前までの経緯
BC218年

ハンニバル、エブロ河(ローマとの協定で支配を認められていた線)を渡り、アルプスを越え、北イタリアに侵入。

ティキヌス・トレビア川の戦い;ローマ領を目前にしたハンニバルと迎え撃とうとしていたローマの執政官コルネリウスが偵察行で出会いそのまま戦闘に至る。騎馬兵力の優秀なハンニバル側の勝利。 このとき執政官コルネリウスは重傷を負いその息子に戦場から救い出される。ハンニバルは執政官を取り逃がしたことを口惜しがったというが、本当に悔やむべきは、執政官を戦場から救い出したこの執政官の息子でもあった若い騎士を取り逃がしたことだろう。ハンニバルがこれより十六年後にザマの戦いで会戦することとなる父親と同じ名前のプブリウス・コルネリウス・スキピオである。

BC217年

4-トラシメヌス湖畔の戦い;イタリア半島を南下するハンニバルは追跡していた執政官フラミニウスは、ハンニバルの待ち伏せに会い、2個軍団2万5千のうち、1万7千が戦死、6千人が捕らわれるという大敗北を喫する。リミニから南下しはさみ討ちをねらっていた他の騎兵軍団4千人も戦死した。ローマは3日の行軍距離に5万のハンニバル軍を迎えることとなった。

BC216年

3-カンネの会戦;ハンニバルに対するローマのはじめての本格的な会戦となる。ヌミディア騎兵を効率的に活用したハンニバルの勝利。ハンニバル側の戦死5千5百に対し、ローマ側は80人の元老院議員を含めた7万人が戦死するという歴史的な大敗北を喫した。

カンネにおける大敗後、南イタリアの主要都市カプアとカラーブリア地方がハンニバルの支配地域となる。

BC215年

シラクサの僭主ヒエロンが没し、ハンニバル側の工作によるクーデターで親カルタゴ政権となる。

マケドニアのフィリップス5世がハンニバルと同盟

ローマはハンニバルとの直接の会戦は避け、周囲を固めてハンニバルをイタリア半島で孤立させる戦略をとる。

BC214年

ハンニバルはカルタゴ本国からの支援を得るため、ナポリ、タレンツゥムなどの海港奪取をねらうが、グラックスの奴隷軍団などが善戦し失敗する。

 

資料 塩野七生『ローマ人の物語II ハンニバル戦記』(60)