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第二次ポエニ戦争以降スキピオがローマを率いたが、その姿勢は「穏やかな帝国主義」であった。ギリシアやカルタゴ、マケドニアに対する対応がそれであり、戦争後もローマとの同盟国となり、軍事力などの制限は受けたが、ほぼ完全な自治を認めた。しかし、それはスキピオの人間的な寛容さであったのではなく、統治の必然性からのものであった。西のガリア、スペイン、シチリアなどまとまりのない地域では属州化を行なっている。特にカルタゴから甚大な被害を受けたにもかかわらず、賠償などもそれほど重くはない。これはローマとカルタゴが“勝者と敗者”という関係でしかなく、“正義と不正義”によって分けられていないというこの時代における戦争あるいは戦後処理の特徴でもある。
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大カトーはスキピオが属するコルネリウス一門と主導権を争うヴァレリウス一門に見出された論客であり、そのことからもスキピオを執拗に弾劾しようとした。スキピオを弁護したグラックスとは、奴隷軍団を率いてハンニバルと戦ったグラックスの息子である。この後スキピオは娘コルネリアをグラックスに嫁がせる。この2人の間の子どもがティベリウスとガイウスのグラックス兄弟である。つまり後に共和制の改革に着手するこの二人はスキピオの孫にあたることになる。
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これに対して大カトーは第一次ポエニ戦争後の寛容さがハンニバルの進攻を招いたということなどから“穏やかな帝国主義”には反対の立場であった。そしてそれはマケドニアとギリシアでも再現することとなった。このような情勢から、カルタゴに対するローマの態度も厳しいものに変わり、軍事的には弱体化していたカルタゴも滅ぼされることとなった。
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カルタゴを落城させた司令官はスキピオ・エミリアヌス(*5)は700年の間、地中海に繁栄してカルタゴの落城を見ながら涙を流し、ホメロスの叙事詩の一句を引用し、ポリビウス(*6)に次のように言った。「いずれはトロイも王プリアモスと彼につづくすべての戦士たちとともに滅びるだろう」盛者必衰の強く感じたことであろう。
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*5; |
スキピオ・エミリアヌスは、カンネの会戦のときの執政官エミリウス・パウルスの孫にあたり、スキピオの息子の養子になっていた人物で歴史家ポリビウスなどもいたギリシア文化愛好家の「スキピオのサークル」の中心。なおスキピオ一門はヌミディアの強大化を防ぐためカルタゴ温存派であった。
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*6; |
歴史家ポリビウスは、カルタゴを落城させたローマの総司令官スキピオ・エミリアヌスの親友でもあり、カルタゴ陥落に立ち会っている。その著『歴史』にも詳述されていたが、中世を経てその三分の二しか残っていない。ポリビウスを参考にしたという紀元後二世紀の歴史家アッピアヌスの引用で知るしかない。
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