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第一巻 旅立ち;序章/旅立ち/攘夷の風/底流 [1862.9(文久2)〜1863.8(文久3)]
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まず、アーネスト・サトウが英国人であることを初めて知った。その名前からして日系のハーフかと思っていた。といっても父親が東欧からアイルランドへ流れてきたということで、その地方には「サトウ」という姓があるそうである。
序章では著者の英国での関係人物の家系、生い立ちについてや、ゆかりの地を訪問したり、資料を集める経緯が記述されている。これが家系・生い立ちは後の本章において事実を記述していくときに深みを与えており、資料集めも単なる苦労話ではなく、リアリティを担保している。
サトウが日本語通訳官の応募に応じて赴任するが、他の赴任者の事情などと比較しながら記述される。そして、サトウが赴任した頃、英国大使館焼討ち事件や生麦事件が発生する。日本は一気に幕末の緊張の時代に突入する。
生麦事件以前、英仏は日本の交渉窓口である幕府が尊王攘夷の風潮の中で窮地に陥っており、交渉窓口であるがゆえに幕府を支援しようとしていた。特に反幕勢力である薩摩に対しては強行な姿勢で臨もうとしていた。そんな中で英と仏では微妙な違いがある。
また、英国が重視している“通商”という点では、それを独占していることが各大名から反幕の原因になっていることも特に英国(代理)大使たちは認識しだしていた。
英国の大使達は、幕府の事情を考慮しつつも、その揺れや次第に露呈しだした弱体化を認識し始めているが、常々日本の側から描かれる幕末を、通商や、外交という場に引き出し、本国との外交文書などにおいて、わかりやすくそこに提示してくれていると思う。
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第二巻 薩英戦争;薩英戦争/下関遠征/新しい波/乱雲 [1863.8(文久3)〜1865.7(慶応1)]
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英国は薩摩藩士による生麦事件と下関外国船砲撃の報復として、仏蘭米と四カ国連合で薩摩、ついで下関を攻撃する。
しかし、どちらも戦争後の和平条約締結やその交渉において、非常に友好的であり、かつ積極的に外国との貿易を望んでおり、海外へ留学生を送ったりしていることを知る。
幕府はこれまで、それらの藩こそ、攘夷、すなわち幕府が開国したり、外国と貿易したりすることに反対してきていると外国に説明してきたが、その説明がどうも実情とは異なると感じるようになる。
そこで、英国などは幕府が窮地にあると思い、条約の履行などに猶予を与えてきたが、幕府に対して事実の説明を求めるようになり、幕府の回答引き延ばしに対しても次第に強い態度にでるようになる。
一方、下関砲撃事件や禁門の変などの報復として長州征伐を決定したものの、長州が強行な態度を取り続けたため、幕府も外国からの圧力と国内の反抗勢力に挟まれ窮地に陥っていた。
日本の歴史としては、しばしば薩摩と長州、あるいは高杉晋作−西郷隆盛−坂本竜馬、というように国内の対立により回天、すなわち明治維新に至ったという構図で描かれるが、サトウの日記を読んでいると英国ほかの外圧も、この時期かなり幕府を窮地に追いやっている様子がわかる。
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第三巻 英国策論;パークス着任/兵庫沖/英国策論/大名 [1865.7(慶応1)〜1866.9(慶応2)]
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英仏蘭米四カ国と幕府との条約で約束した「兵庫開港」が焦点になってきた。
攘夷を頑なに守ろうとする天皇、英国と戦争をして攘夷から幕府だけに有利な開港を避けようとする薩長などの雄藩、そして外国との条約を守りたいがあくまでも幕府の力を強めたい老中などの幕閣などのせめぎ合いで、幕府も板ばさみになりなかなか動きがとれない。
アーネスト・サトウは匿名で新聞に『英国策論』を投稿し、四カ国が条約を結んだ相手である幕府は、日本全体を支配しているとは言いがたく、英国は真に日本の主権者である天皇と条約を結ぶべきである、という論を展開した。
これは後に幕府側、倒幕側双方の認知するところとなり、波紋を呼ぶ。
しかし、英国公使パークスはそれを知っていたのかどうかわからないが、条約を結んだのは幕府ではなく、日本と結んだのであり、あくまでも日本全体に条約履行の責任をとらせようとした。また、そのためであれば、幕府が主権を回復することも是としたのである。
パークスは非常にバランス感覚にすぐれていたといえる。
薩摩藩や宇和島藩は、パークスを招き、彼らを饗応して、幕府よりも外交という点で一歩先んじた観がある。
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第四巻
慶喜登場;慶喜登場/情報収集/大坂/謁見[1866.9(慶応2)〜1867.5(慶応3)]
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第二次長州戦争の敗北と将軍家茂の死。
危機の中第十五代将軍となった慶喜との謁見をめぐり、中立を掲げる英国公使パークスと幕府寄りの仏国公使ロッシュの駆け引き。慶喜はその見識と人間的魅力でパークスを強くとらえた。「情報収集将校」としてのサトウの活躍が始まる。
サトウは情報収集しながら、各地で歓待を受ける。この頃の日本人は攘夷の流れから外国人を見れば敵意を覚えそうだが、サトウの日記からも一般庶民が初めて見る外国人に興味を示しており、役員も大変親切にし、饗応に勤めている様子がわかる。
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第五巻
外国交際;波紋/東海道/外国交際/大阪再訪/イカルス号事件[1867.5(慶応3)〜7]
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パリの万国博覧会で、英仏関係者の思惑も絡んで幕府側と薩摩側が支持獲得争いを演じる。
情報収集のため東海道の旅に出たサトウだが、たちの悪い「例幣使」に襲われるが、日本側に対しても強い態度で臨む。また、長崎で発生した英国水兵殺害事件についても英国公使パークスは幕府に対して鋭く追及し、幕府は薩摩や土佐を制御できない状況を浮彫りにしていく。
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第六巻 大政奉還;
大政奉還/動乱/内戦/京都/参朝 [1867.10(慶応3)〜1868.4(慶応4)]
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兵庫開港で外国と朝廷および反幕府勢力との板ばさみになり、幕府への攻撃をかわすため、土佐からの建白書を基に、慶喜は大政奉還を実行する。一方で、徳川の領地を防衛していこうとするが、薩長側は朝廷から幕府勢力を追い落とし、慶喜追討令を発布する。パークスやサトウは内戦の回避を望んでいたが、回天の動きはすでに外国の介入できるものではなくなっていた。サトウは幕府側、薩摩や土佐側の双方から情報を収集しながら、欧州の政治制度などについて教示していく。
新政府と英国側の努力により、ついに京都で外国公使による天皇への謁見が実現するが、その英国公使参朝をまたも尊攘派の武士が襲うなどするが、そのたびに新政府は迅速な処罰などの対応を見せ、外国側の信頼を得ていくことになる。
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第七巻 江戸開城; 江戸開城/混沌/北斗に祈る/北海の旅/越後路/戊辰の冬
[1868.4(慶応4)〜1868.12(明治1)]
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東征軍が江戸城へ迫る中で、西郷と勝の交渉により江戸開城が決まる。江戸城攻撃中止についてイギリス公使パークスの圧力があったのでは、という憶測があるらしいが、筆者はそれがパークスの希望であったとしても、タイミングとしては圧力になっとは思えないとしてい。サトウは西郷や勝とも親交を持った。一方、慶喜の弟徳川昭武とその一行がパリで現地の思惑とも戦いながら、幕府崩壊の悲報に接する。幕府に味方した仏公使ロッシュは本国の中立政策と新政府を承認する立場の本国の方針と合わず、日本を去ることになる。
1968年の暮に江戸を脱出した榎本武揚は函館に向かい、ここを占領することなる。仏の士官数名がこれに従った。
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第八巻 帰国;
局外中立問題/ウイリス(I)/廃藩置県/急激な改革[1869.1(明治2)〜1871.12(明治4)]
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榎本らは箱館にこもり、蝦夷を徳川の所領とし、徳川昭武を領主に、また徳川慶喜を天皇の側近に取り立てることを要求した。この箱館戦争にあたっては、事実上旧幕府軍との戦争は終了し、御門が主権を握ったことから岩倉具視は各国に局外中立を放棄し、新政府への協力を要請した。
サトウは賜暇により一時帰国し、ウイリスは新政府から江戸に開設される大病院を任されるが、1年も経たず、これを辞すことになる。政府がドイツ医学採用の方針に変更したため、というのが理由。ウイリスは乞われて薩摩に赴くことになる。
一方、廃藩置県の方針を決めた新政府の岩倉、木戸、大久保らは、薩摩に戻っていた西郷の力をかりるために説得にあたった。これを受けて、西郷は薩摩の親兵約4千を率いて上京し、反対の動きを封じた。このとき西郷はサトウは訪ねたそうだが、サトウに対して「いつまで東京にいるかわからない」などと語り、「受け身」の印象であったようだ。すでに薩摩士族階級の不満を抑えるには、自分が新政府の要職についているわけにはいかないと考えていたためであろうか。
さらに木戸は士族階級の廃止に意欲を燃やしており、イギリス側にも木戸が新政府の重要人物として登場してくる。イギリス側は、明治4年のこの頃には木戸から「征韓論」について聞いているようである。
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第九巻 岩倉使節団;余話/留守政府/岩倉使節団/西国巡遊[1871.1(明治4)〜1873.9(明治6)]
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諸外国との不平等条約〜特に治外法権と関税自主権〜撤廃交渉のため、岩倉使節団が派遣された。岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、森有礼などがおもなメンバー。最初の訪問国アメリカからは、日本と単独に条約を締結しようとする動きがあり、使節団もアメリカとの実績をもとに欧州で個別に契約を締結しようとした。しかし、イギリスをはじめとする欧州諸国は最恵国条項をもとにこれに強く反対し潰した。一方、岩倉らは、イギリスなどが主張する外国人の旅行(商業目的を含めた)の自由には反対していた。結局、治外法権は明治32年に撤廃、関税自主権は明治44年に認められることとなるが、岩倉らは今回の交渉でそれらの実現の困難さも認識することになる。例えば治外法権では犯罪人となった外国人を正当に扱うことのできる施設と裁判制度が整備されていないこと、キリスト教徒が依然として迫害される可能性があることなどが挙げられている。
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第十巻 大分裂;方今多事/大分裂/ウイリス(II) [1873.1(明治6)〜1875.5(明治8)]
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明治5年マリア・ルス号事件(清国人苦力を南米に売ろうとしたポルトガル船を日本の港で差し押さえ、人権擁護に基づいた判決をくだした事件)、新橋−横浜間の鉄道開通(開業式に西郷が欠席していたことがイギリス側の注目を引いていた)、依然廃藩置県、士族階級の廃止に反対する島津久光が大勢の侍を連れて上京、樺太でロシアと台湾で清国と民間レベルの衝突が発生、など騒然としていたが、政府では「征韓論」をめぐって対立が表面化していた。
そして明治6年10月、西郷、板垣、後藤、江藤、副島の「征韓派」参議が下野した。
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第十一巻 北京交渉;余話(続)/余震/北京交渉 [1872.5(明治5)〜1874.11(明治7)]
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明治6年の政変後、征韓派士族の不満の捌け口のために台湾出兵が計画される。大久保利通らは勅許を得て、制止しようとするが、大久保が来る前に西郷従道は兵員を乗せた船で出航させてしまい、追認する形で台湾出兵が既成事実となる。
台湾出兵により、清国との関係が悪化し、大久保利通は自ら北京へ赴き、交渉にあたる。北京での大久保の交渉は、日本の台湾からの撤兵と清国から日本への賠償金に関するものであるが、緊迫した駆け引きを再現しており、大久保の国を背負う気概を感じられる。交渉決裂して北京を去るため出航しようとする大久保へ、英国駐清公使ウェードから再三にわたる仲裁案が提示され、妥結するに至る。ただし、サトウとの関係性もあるだろうが、大久保の粘着質の交渉について筆者の論評には、西郷隆盛や勝海舟などのすがすがしさはない。
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第十二巻 賜暇;賜暇/賜暇(続)/帰路/ウイリス(III)/鹿児島へ[1875.2(明治8)〜1877.2(明治10)]
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サトウは2年の賜暇を得て帰国し、その間に法律の勉強をして資格を取り、ヨーロッパ大陸を旅行して音楽会などを楽しむ。一方、鹿児島県に雇用されたウイリスは、医学の指導と病院運営の多忙な日々を過ごしていた。
サトウは東京へ帰任するにあたり、政情視察とウイリス訪問のため鹿児島に立ち寄るが、そこで西南戦争勃発の現場に立ち会うこととなる。サトウは兵士に囲まれた西郷の訪問を受けるが、すでに西郷は自由に自分の意をサトウに伝えることはできない様子であった。
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第十三巻 西南戦争;
反逆/ウイリス(IV)/反逆再考/ウイリス(V)/明治十年代[1877.2(明治10)〜1878.10(明治11)]
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西南戦争が勃発し、西郷軍が熊本へ北上する中、鹿児島、熊本、長崎へ抜けて、東京へもどる。サトウは常に西郷に同情的であったようだが、コメントは残しておらず、勝安芳(海舟)の同情的なコメントに対して冷静な見方をしながらも、それを書き留めているだけである。日本帰任後も精力的に旅行や山歩きをし、日本古来の文化・文学や神道などについて研究を深めていった。
一方、鹿児島から避難したウイリスは日本政府から雇われることもなく、日本を去った。その後英国でさらに資格を取得するなどして、在日英国領事館付医師の空席などによりサトウ、パークスなどから再度日本に招かれたが、英国領事館以外の日本での仕事が見つからず、満足する収入を得るに至らず、再び日本を去ることになる。これは、ウイリスが鹿児島から避難した際、日本政府に対する損害賠償請求が苛烈だったことと西郷軍から武器調達を依頼されたとの疑惑を持たれたことに起因するようである。
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第十四巻 離日;朝鮮視察/朝鮮開化派/パークス/離日 [1878.11(明治11)〜1889.4(明治22)]
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朝鮮でイギリス商船が難破した事後処理のため、サトウは朝鮮へ渡り、朝鮮開化派の人々とのつながりを持つ。サトウの朝鮮派遣に関して、パークスと本国との間で意見の食い違いがあったが、この頃から外交官としてのパークスの立場は微妙になっていた。パークスはその夫人の死により帰国したが、自らの不調もあり、日本の不在が長引いた。その後、パークスは1883年駐清公使に転出することになるが、この間、賜暇で帰国中であったサトウも、バンコクへ転出することになる。サトウもその日記で時々パークスを批判しているが、一方で、パークスはサトウの仕事ぶりを高く評価していた。サトウは日本での約20年の勤務を終え、バンコク総領事として赴任した。バンコク滞在時代も何度か休暇を利用して日本を訪れ、日本の研究者として仕事をしている。日本公使としての再度の来日を希望していたが、すぐには叶えられず、日本への帰任は日本を離れてから12年後となる。
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