Title9-3.GIF (2758 バイト) アーネスト・サトウ日記..............................

1839

アヘン戦争始まる(〜1842)

1841 6月

ハリー・パークス(13歳)英国を出発しマカオへ

三巻1
1844

オールコック、厦門に領事として着任(パークスは通訳)

1856

アロー戦争(〜1860)

1860

パークス、中国の捕虜となり、獄中から北京進駐を止める働きかけを強要されるが、これを拒否し続けたことが彼を有名にした

三巻1
10月

13日英仏連合軍が北京に進駐し、アロー戦争が終結

1864 3月

賜暇を終えたパークスは上海領事に着任

三巻1
1865 5月

将軍家茂は第二次長州征伐のため大阪へ入る(兵5万)

三巻1
6月

イギリス極東艦隊司令長官キング海軍中将がキューパー提督にかわり日本へ着任

三巻1
7月

4日視察のため長州を訪れたバロッサ号ボーイズ艦長に対し桂(小五郎)は下関の再軍備化を打診したが、拒否される。ただし、仲介の労をとることを提案される

三巻1
1865 7月

第二代駐日イギリス公使ハリー・パークス着任(37歳)

三巻1
ca

長州藩の伊藤(俊輔)と井上(聞多)は桂の命により、薩摩藩の名義を借りて、英グラバー商会から武器を調達

三巻1
10月

パークス、キング提督、サトウら箱館へ(ロシア艦隊の偵察など)

三巻1
1867 7月

西郷、「イギリスはフランスの使われ者」とサトウを挑発し、討幕の賛同を得る。

五巻
1868 2月

3日朝廷から「討幕令」発令される

七巻
2月

15日東征大将軍有栖川宮熾仁親王が京都を出発

七巻
3月

13日西郷・勝第一回会談14日西郷・勝第二回会談

七巻
10月

4日榎本武揚、艦隊を率いて品川沖を脱出

七巻
10月

26日榎本武揚、箱館を占領

七巻
11月

6日会津が官軍に降伏

七巻
1869 1月

1日江戸開市

八巻
1月

英仏、箱館の榎本軍を交戦団体と認めず

八巻
1月 19日ウイリス、賜暇を利用し、明治政府の医学教授となる 八巻
1月 27日箱館にて「榎本政権」発足 八巻
2月 24日サトウ、賜暇によりイギリスに帰国 八巻
5月 18日榎本軍が降伏し、箱館戦争終了。 八巻
10月 明治政府はドイツ医学を採用することを決定し、ウイリスとの契約を解除。ウイリスは薩摩と契約する。
1870 2月 1日ウイリス、鹿児島で医学指導を開始。動物性食物のために、牛の殺し方も指導
2月 「常備兵編成規則」公布。1万石につき、一小隊60名。77万石の鹿児島藩は77小隊4,620名となる
7月 薩摩藩横山正太郎、首相の驕奢、官員腐敗など指摘した建白書を提出し、切腹
9月 薩摩、藩兵二大隊と二砲隊を引き揚げ
10月 西郷従道、兄隆盛の政府出仕説得
1871 2月 岩倉具視と大久保利通が鹿児島へ赴き、西郷の新政府への出仕を要請。西郷の提唱により、薩長土の親兵を東京に派遣することに決する
12月 23日岩倉使節団、米欧へ向け出発
ca サトウ、兼(かね)と結婚。ウイリスは八重と結婚。
1877 2月 西南戦争勃発   
  2月 11日西郷がサトウとウイリスを訪問 、18日サトウ鹿児島発(九州から脱出)  
  3月 31日サトウ、勝海舟と会う。勝はパークスの仲裁を望む  
  4月 西郷軍の熊本城包囲解ける  
  9月 24日西郷が自刃し、西南戦争終わる  
1878 5月 14日大久保利通暗殺される  
1877 3月

ハリー・パークス(駐清公使)北京にて57歳で死去

1881 3月 『中部・北部日本旅行案内』(ホーズとの共著)を出版)
1882 1月 〜7月条約改正予議会議に事務局として参加
  12月 賜暇旅行で帰国(滞在20年の日本を離れる)
1884 1月

サトウ、バンコク代表兼総領事に任命される/3月バンコク着任

  10月 〜11月サトウ、休暇で来日
1885 3月

ハリー・パークス(駐清公使)北京にて57歳で死去

1887 サトウ、シャム外相に同行し英国に帰国。日本帰任を希望するが南米赴任を示唆される。
1889 5月 5月ウルグアイの首都モンテヴィデオに着任
1893 2月 モロッコ特命全権公使に任命され、タンジールに着任。  
1894 2月 ウイリス死去  
1893 8月 日清戦争始まる  
1895 4月 日清講和条約 三国干渉。  
1895 5月 サトウ、日本駐在特命全権公使に任命され英国帰国。6月英国女王からサーの称号を授かる。7月日本に着任(12年ぶり)。  
1900 5月 日本勤務を終え、帰国。8月清国駐在特命全権公使に任命され、10月北京着任。  
1901 9月 義和団事件、最終議定書調印(議定書作成で活躍)。  
1904 2月 日露戦争始まる  
1906 5月 モロッコ清国駐在任務を終え帰国。途中、日本に立ち寄り、勲一等旭日章を授与される。  
7月 国王に謁見し、枢密顧問官に任命される。  
10月 外交官を引退。ハーグの国際仲裁裁判所の英国代表に任命される(6年在職)。  
1911 11月 アストン死去  
1913 手元のすべての日本関係蔵書をサザビーズを介して売却。  
1917 『外交実務案内』を出版  
1921 『一外交官の見た明治維新』を出版  
1929 8月 心不全と脳血栓により、死去  

明治初期年表

『遠い崖〜アーネスト・サトウ日記抄』 萩延壽原著