Title9-3.GIF (2758 バイト) Europe&MiddleEast 1204年

Europe&MiddleEast1192年 gya_l_bg.gif (1060 バイト)  gya_r_bg.gif (1063 バイト) Europe&MiddleEast1223年

ヴェネツィア主導の第四次十字軍がコンスタンティノープルを占領

 フランスの騎士らが第四次十字軍を提唱し、ヴェネツィアに兵の運搬を依頼する。ヴェネツィアの元首(ドージェ)エンリコ・ダンドロは運搬だけでなく、兵力も提供する代わりに、ハンガリーに奪われていた要塞ザーラの奪還を要請。また、ビザンツ帝国皇子の帝位奪還に協力してコンスタンティノープルを占領を提案する。帝位についた皇子が殺されるとコンスタンティノープルを攻撃し、略奪、占領し、ラテン帝国(1204〜1261年)を建設する。

概 略 
 1192年  リチャードが帰国するために、妻や妹、部下たちを先に送り出し、自らは少数の部下とともに帰国の途に就いた。しかし、ジェノバの港にはフランス王フィリップ2世の部隊が待ち構えているとの情報を得て、ヴェネツィアに上陸しようとするが、暴風で船が難破。部下の何人かも失い、聖堂騎士団に扮して陸上を旅したが、途中でオーストリア公レオポルドに捕らえらる。アッカ占領後に城壁の塔のオーストリア公の旗を下ろされた恨みから幽閉される。*2
 1193年  吟遊詩人に頼んで部下に居場所を知らせたが、復讐を恐れたレオポルドは神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世に身柄を預けた。ハインリッヒには、フランス王フィリップ2世から幽閉を続けるよう依頼される。皇帝ハインリッヒはモンフェラート侯コラードを「ハッシシを吸う男たち」と呼ばれる暗殺集団に殺させた罪で裁判にかける。しかし、暗殺集団を率いる「山の老人」からコラードを殺したのは自分たちの復讐のためであり、リチャード1世からの依頼ではないとの手紙が届く。裁判にかける理由がなくなったが、皇帝ハインリッヒは、リチャードに法外な身代金を求めた。母エレノオールやソールズベリー司教などが金策し、1年3か月ぶりに釈放された。
   サラディン、ダマスカスで死去(55歳)。アイユーブ朝の分裂。内紛後、弟のアル・アーディルが再統一。*1
1194年  本国では熱狂で迎えられたリチャード1世に、ジョン派の諸侯も恭順を示し、弟ジョンはフランスに逃げた。リチャードは不在の間にフランス王フィリップに奪われていたノルマンディー地方とアクィテーヌ地方奪還のためフランスに向った。
   ホラズム朝のテキシュ、アゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝の要請に応じて、中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた。
1196年   イギリスが2年ほどで大部分の領土を奪い返し、リチャードとフィリップの間に休戦成立。
   サラディンの息子たちの間で権力争い。アル・アーディルは、長男アル・アフダルをダマスカスから追放。
1198年  インノケンティウス3世、教皇即位。38歳ながらコンクラーベ(枢機卿会議)の1回目で選出が決まるエース中のエースと目されていた。後にフランチェスコ派を公認し、神聖ローマ皇帝となる前のフリードリッヒ2世を支援するなどルネサンス運動の端緒に関わる。(*2 III-P194)
   インノケンティウス3世、「救出修道会」にローマの4つの城門からの関税を財源と認めた。これにより以降600年間活動が継続される。
   サラディンの次男アル・アズィズが落馬で死去。長男アル・アフダルが政権復帰に動く。
1199年  2年の休戦を経て戦争が再開された1199年4月、城を攻めていたリチャードは負傷し、死亡した(41際)。*2 III-P187。
   リチャードには子がなく、後継ぎに亡き兄の遺児を指名していたが、弟ジョンが横取りし、国王に即位。しかし、その後の17年間でリチャード(獅子心王)が奪い返した地方のほとんどをフランス王フィリップ2世に奪われ、「ジョン失地王」と称される。
1200年  インノケンティウス3世、フランス諸侯に第四次十字軍を呼びかける。シャンパーニュ伯ティボーなどが賛同。シャンパーニュ伯、ブロア伯、フランドル伯の家臣2人ずつの合計6任人を代表として、ここで決めたことを全員の意思とすることとした。
1201年  太守たちに見放されたアル・アフダルが引退生活にもどることを承知、アル・アーディルがスルタンに就く。
   アル・アーディル、ヴェネツィアとの通商条約に「相互不可侵」を追加。次の十字軍に備える。
   5月十字軍の代表がヴェネツィアに海上輸送の依頼のための交渉に赴く。ヴェネツィアは、イスラムのアル・アーディルとの不可侵条約交渉中だったが、4,500人の騎士と2万人の歩兵の輸送を85,000マルクで請け負う。ただし、十字軍が征服した領土の半分をもらうことを条件として快諾される。*2 III-P222
   総司令官となる予定のシャンパーニュ伯ティボーが病死。伯から資金と十字軍参加を託された多くの諸侯が姿を現さなかった。モンフェラート侯ボニファチオが総司令官を引き受ける。
仏王フィリップ2世は、周辺の諸侯がまた十字軍として留守にすることを喜んだ。*2
 1202年  ヴェネツィアの集結したのは1万程度で予定の1/3だった。しかし、6/24出発予定日に向けてヴェネツィア側は約束の艦隊(ガレー船50隻、帆船240隻、平底船120隻、快速小型ガレー船70隻、計480隻)の準備を終えていた。しかし、約束の支払いができるまでヴェネツィアは船を出さないと通告。 *2 III-P234
   8月ヴェネツィアのドージェ(元首)ダンドロは、ハンガリー王の扇動で反乱したザーラ(アドリア海のヴェネツィアの基地)攻略に手を貸してくれるなら、借金の返済期間を延期すると相談。キリスト教徒を攻めることに抵抗があり、協議したが、十字軍代表者たちは提案を受け入れた。
10月ヴェネツィアを出港。
11月 ザーラを攻略。インノケンティウス3世が十字軍とヴェネツィアを破門にした。釈明した結果、十字軍だけは破門解除。後にヴェネツィアも解除。
   ザーラで越冬している間に、ビザンツ帝国の皇子アレクシスが、簒奪された帝位を取り戻すために、ビザンツ帝国の首都への攻撃を求めにきた。(1)20万マルク、(2)エジプト攻めのための兵1万を1年間提供、(3)パレスティナのキリスト教徒防衛要員500の騎兵提供、(4)ギリシア正教会をローマカトリック教会に統合、が条件。
ドイツに行っていたモンフェラート侯は事前に知っていた可能性も。
1204年  コンスタンティノープルを10か月で攻略。ビザンツ皇帝は逃亡し、皇子アレクシスも元皇帝であった父も殺されており、帝位不在となり、フランドル伯を皇帝とするラテン帝国を樹立。5/8をフランス諸侯に分与、3/8をヴェネツィア領とした。また、ヴェネツィアが敵対する国の商品はラテン帝国では通商できないことを決めた。
また、この遠征でドージェ ダンドロは、ヴェネツィアからコンスタンティノープルまでの間をクレタ島を含む領有基地でつなぐ海のルートを確立し、「地中海の女王」となっていく。た。 *2 III-P256
1205年  ヴェネツィア元首(ドージェ)エンリコ・ダンドロ、コンスタンティノープルで死去。
1208年  インノケンティウス3世による対アルビジョア派十字軍、南仏勢力を弱め、北仏のフィリップ2世を利する。
1214年  第四次十字軍、エジプト侵略。ダミエッタを奪いカイロを目指す。アル・アーディルの息子アル・カーミルが十字軍を撃退。*1
1216年  ローマ教皇インノケンティウス3世死去。ホノリウス3世即位。第五次十字軍を提唱。イェルサレム王女マリア(17歳)と結婚し、王位に就いていたフランス人騎士ジャン・ド・ブリエンヌ(60歳)に催促する。リーダーシップの欠けた十字軍にホノリウスはペラーヨ枢機卿を就け、ローマ教皇主導の十字軍となった。海軍としてはヴェネツィアに対して挽回を期すジェノヴァが参加。
   イスラム側も、73歳と高齢になったアル・アーディルと息子のアル・カーミル(38歳)の交代期にあたり、シリア派とエジプト派の太守の間での権力争いが起きていた。アル・アーディルは長男のアル・カミールにエジプト統治を任せる等エジプト重視の方針だった。

資料  『世界史大年表』(山川出版社)石橋秀雄 他。
 *1『アラブが見た十字軍』アミン・マアルーフ
 *2 『十字軍物語』 塩野七生
 *3 『海の都の物語』 塩野七生

十字軍の歴史
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