Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本 古代史3-平安時代(年表) クロニクル「日本」  

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   日本古代史2(飛鳥・奈良時代)年表    
 8C   平安時代(794〜1185年)    



 794年(延暦13年);平安京遷都;平安京(東西4.6Km、南北5.3Km)は唐の長安(南北8.6Km、東西9.7Km)を模したが、人口100万の長安に対して、10〜12万人の平安京は大きすぎた。実際に使われたのは4分の一。空き地が大半を占めた。    
 797年(延暦16年)坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命。798年坂上田村麻呂、清水寺を建立。    
 801年(延暦20年)坂上田村麻呂、胆沢地方(岩手県奥州市)の蝦夷を制圧。803年、盛岡市南部に志波城を築く。田村麻呂は指導者アテルイとモレの助命を嘆願するが聞き入れられず、処刑される。蝦夷側に中央への不信感と抵抗が811年までつづく。  800年 カール大帝、レオ3世を復帰させ戴冠。西ローマ帝国復興。  
 9C  801年、大隅と薩摩で班田収授法が実施され、朝貢中止。九州南端まで律令体制が行き渡る。九州南部から東北中部までの日本の領域が確定する。  801年 カール大帝、アラブ軍を破りバルセロナを占領。  
 804年 最澄・空海、遣唐使として入唐。    
 805年(延暦24年)桓武天皇、平安京造営を停止。平安京造営と東北の蝦夷平定で国家財政疲弊。  805年 カール大帝、ヴェネツィア、ダルマティア、コルシカを征服。  
 809年 安殿(あて)親王が51代平城天皇(へいぜい)となるが、病弱だったため在位3年で弟に譲位し、嵯峨天皇(第52代)が即位。    
 810年(弘仁元年)薬子の変(弘仁の変);譲位後健康になった平城上皇に藤原薬子が重祚を促す。上皇が平城京遷都の詔を発し、対立が極限に。嵯峨天皇が薬子の兄藤原仲成を左遷、薬子の官位をはく奪。平城上皇は薬子と東国へ出立しようとするが、坂上田村麻呂に阻止され、薬子は自害、上皇は孤立し、824年(天長元年)崩御。藤原の式家が没落し、嵯峨天皇に重用されて藤原北家が力をつける。    
 811年(弘仁2年) 文室綿麻呂(ぶんやのわたまろ)を征夷大将軍とする遠征が行われ、蝦夷平定が再開。岩手県北部から青森県南部にかけての内陸部、また岩手県の三陸海岸沿いの蝦夷を制圧した。774年から続いた三十八年騒乱が終息。    
 814年(弘仁5年)嵯峨天皇の皇子・皇女に源姓賜与(嵯峨源氏)。嵯峨天皇は20人以上の妃を迎え、50人以上の子沢山に恵まれた。子の中で母親の身分が低い者32名に源朝臣の姓を与えて臣籍降下させた。親王と内親王の人数を減らすことで財政への負担を軽減するだけでなく、天皇の子が公卿に列せられることで、公卿の構成は大きく変化することになる。これが賜姓源氏の初例となり、後代にも続いた。時の天皇号のを冠して、嵯峨源氏、清和源氏、村上源氏などと称し、21代続く。    
 823年(弘仁14年)越前国から加賀国が分立し、多禰国(種子島と屋久島)が大隅国に編入されると、六十六国二嶋の体制が長期間固定される。(ニ嶋とは、対馬と壱岐)    
 最澄と空海が遣唐使として実践的な仏教を伝える。桓武天皇が最澄を、嵯峨天皇が空海を後押しし、没後、清和天皇が最澄を伝教大師、醍醐天皇が空海を弘法大師とした。奈良時代にはじまった神仏習合は加速し、明治期の神仏分離令まで続く。    
 833年 仁明天皇即位。    
 835年 新羅人に備え、壱岐島に防人330人を置く。    
 842年(承和9年)嵯峨上皇が崩御すると、承和の変が起き、橘逸勢、伴健?ら謀反の疑いで配流。藤原北家が台頭。藤原良房の孫で仁明天皇の子を道康親王(後の文徳天皇)を皇太子とする。  843年 ヴェルダン条約;フランク王国3分される。  
 847年 遣唐使僧円仁、帰国。(最後の遣唐使)    
 849年 大宰府、唐商53人の来着を報告。    
 850年文徳天皇即位    
 857年 藤原良房、太政大臣となる。  856年 ヴァイキング、パリを攻撃し焼く。  
 858年 8歳の清和天皇が即位すると、藤原北家出身の藤原良房が太政大臣とし天皇を後見し、摂政となる。;藤原摂関政治の始まり  860年 ヴァイキング、初めてコンスタンティノープルを攻撃し、撃退される。  858年 南詔、ヴェトナムに侵寇。
 864年 富士山噴火  862年ルーシの首長リューリック、ノヴゴロド公国を建設。  863年、南詔軍、安南都護府を占領。唐が放棄。
 865年 唐商李延孝ら63人、大宰府に来着。    
 866年 応天門炎上。放火の嫌疑により大納言伴善男ら配流。   866年 唐ヴェトナムから南詔軍を撃退。 
 藤原基経(良房の甥)、陽成天皇の摂政となる。藤原北家は、近衛家、鷹司家、九条家、二条家、一条家の藤原五摂家が権勢を振るった。  871年 ヴァイキング、ロンドンを占拠。  
 887年 阿衡の紛議;藤原基経が引退し、混乱。宇多天皇が橘広相を罷免して事態収拾。  875年 ビザンツ軍南イタリアのバーリを占拠。  
 891年(寛平3年)基経死去後、宇多天皇親政。菅原道真による政治改革。また、道真建議により、遣唐使を廃止。  882年 キエフ=ロシア国家の建設。  
 897年(寛平9年)宇多天皇、醍醐天皇へ譲位。後の第62代村上天皇の親政と併せて延喜・天暦の治(理想的な時代)。    
 10C  901年(昌泰4年)藤原時平の讒言により、菅原道真は九州に左遷;昌泰の変。道真は903年没。   907年唐滅亡。小国分立後、宋(北宋)が中国統一。 
 醍醐天皇崩御、菅原道真の祟りとの噂が広まる。    高麗が朝鮮半島統一。
 第61代朱雀天皇(藤原基経の孫)の代で摂関政治復活。藤原氏などが荘園を大規模に所有し、政治が腐敗。増税、民衆の貧困化、治安悪化を招く。地方の国司は住みつき「武士」化。    
 940年、摂関政治への不満から、平将門の乱、瀬戸内では藤原純友の乱が発生。鎮圧に功績のあった源氏、平氏、藤原氏(摂関家とは別)などの武士が勢力伸長。    
 冷泉天皇(第63代)の時、藤原実頼が関白となり、安和の変(あんな)により、藤原氏への対抗勢力がいなくなった。藤原摂関政治黄金期へ。    
 1000年 一条天皇(第66代)の治世で藤原道長が全盛期。娘彰子を一条天皇の中宮となる。    
 11C  清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』など、世界に先駆けた女流文学の盛んとなる。この二人はどちらも一条天皇の後宮で女房として働いていた。男子禁制の後宮で教養ある女性が求められたため。(中国、朝鮮では宦官の役割)    
 1012年 藤原道長は娘のけん子を三条天皇(67代)の中宮に、彰子の娘の威子(いし)を後一条天皇(68代)の中宮に、さらに娘の嬉子(きし)を後朱雀天皇(69代)に嫁がせ、その皇子が後冷泉天皇(第70代)となった。道長は一条天皇から後冷泉天皇までの五代の天皇の外戚として絶大な権力を振るった。    
 1017年藤原道長、摂政を子の頼道に譲る。    
 摂関政治により藤原氏らの有力者らは荘園を不輸祖田(租税免除)とし、公地公民制は崩れていった。  1037年 セルジューク朝建国  1038年 李元昊、西夏建国
 1051年(永承6年)陸奥の国で勢力を拡大し独立の気風を有した安倍氏懲罰のため、陸奥守 藤原登任(なりとう)が出兵。前九年の役(奥州十二年戦争)始まる。安倍頼時が迎え撃ち、勝利する。安倍氏は後冷泉天皇の祖母病気快癒祈願のため大赦される。*3    
 1051年 源頼義が陸奥守として赴任し、頼義の勢力拡大の野心により奥羽は戦乱に明け暮れる。*3    
 1056年(天喜4年) 阿久利川事件;藤原光貞・元貞の野営地が奇襲され、安倍貞任(頼時の息子)の仕業とされる。貞任出頭命令に対して頼時が拒否。源頼義は部下の平永衡(安倍頼時の婿)を誅殺。同じく頼時の婿であった藤原経清も安倍頼時のもとへ走る。*3    
 1057年 源頼義は津軽の俘囚である安倍富忠を懐柔し、安倍頼時に対して反旗を翻させる。安倍頼義は富忠の伏兵に殺される。跡を継いだ安倍貞任は、1057年(天喜5年)黄海の合戦で源頼義を大破し、奥羽から衣川以南に勢力を拡大。*3    
 1062年 源頼義は出羽の清原光頼を調略し、安倍貞任の小松柵を攻める(小松柵の合戦)。兵糧不足で苦戦するが、清原軍の夜襲により勝利し、安倍氏は滅亡する。しかし朝廷は源頼義を陸奥守とはせず、伊予守に任じて、奥羽への勢力拡大の企図を挫いた。源頼義の奥羽への野望は子の義家に引き継がれた。*3■■■(P74)    
 1068年(治暦4年)後三条天皇(第71代)が即位すると、藤原氏と外戚関係がなく、荘園整理を行い、摂関家の経済基盤を切り崩す。藤原氏の時代、そして摂関政治は終わる。  1077年 カノッサの屈辱  
 白河天皇(第71代)は即位して15年後に皇子に譲位し、上皇となり院政を開始。天皇の母方の祖父が政治を動かす摂関政治に対して、天皇の父か父方の祖父が政治を動かした。元天皇という立場で政務を執るので、藤原氏一族の専横を抑える効果もあった。  1096年 第一回十字軍遠征  
 12C  白河上皇は、堀河天皇(73代)、鳥羽天皇(74代)、崇徳天皇(75代)の三代を即位させ、「本院」または「治天の君」として君臨。平氏一族の武士を重用した。    
 1129年(大治4年)白河上皇崩御により、鳥羽上皇が本院となり、確執のあった崇徳天皇を譲位させ、近衛天皇(76代)を即位させたが、若くして崩御し、崇徳天皇の同母弟である後白河天皇(77代)が即位し、さらに天皇の皇子が皇太子となった。崇徳上皇は自分の子を皇太子とする望みを絶たれた。    1127年 金、宋の首都開封を包囲、徽宗・欽宗らを北方へ拉致。高宗ら南宋建国。
 1156年(保元元年)鳥羽上皇崩御すると、崇徳上皇が近衛天皇を呪詛し、叛乱の準備をしているとの噂が流され、後白河天皇は平清盛や源義朝(頼朝の父)らを起用して崇徳上皇を攻撃し、捕らえ配流とした。;保元の乱
源義朝の父為朝は崇徳上皇側つき滅亡。義朝が河内源氏の棟梁となる。
   
 1158年(保元3年)後白河天皇は二条天皇(78代)に譲位して上皇となる。    
 1159年(平治元年)平治の乱;後白河院政派の源氏と二条親政派の平氏との抗争で、平清盛が源義朝を破る。
源氏が没落し、平氏一門による武家政権が成立。しかし、上皇、天皇とも力を落とし、武家政権が政治の軸となる。(以降1868年徳川幕府崩壊まで)
義朝の子頼朝は池禅尼に助命され伊豆に配流。
   
 1164年(長寛2年)崇徳上皇が流刑先で行った大掛かりな写経の受け入れを後白河上皇に拒絶され、憤死。以降、飢饉、洪水、社会不安などや平氏の没落まで崇徳上皇の祟りとされた。    
 平氏政権(1167〜1185年);今日では、この時から「中世」とする考え方が一般的。    宋
 1179年(治承3年)後白河上皇が平清盛によって幽閉され、院政は停止。  1171年サラディン、アイユーブ朝建国  
 1180年(治承4年)平清盛が高倉天皇(80代)を退位させ、娘の徳子が生んだ孫の安徳天皇(81代)を即位させる。    
 後鳥羽上皇の皇子以仁王(もちひとおう)が平氏追討の令旨(りょうじ;皇族が出す命令)を発す。計画が漏れ、以仁王と源頼政は討死。源頼朝と源義仲が挙兵。    
 1180年(治承4年)10月、富士川合戦;源頼朝と甲斐源氏が、平家の追討軍を破る。が主力だった甲斐源氏が駿河・遠江を支配。    
 富士川合戦での敗北を聞いた平清盛は、福原遷都を断念し、反乱鎮圧に専念。    
 12月奈良興福寺の大衆が蜂起し、鎮圧のため、平重衡(清盛の5男)は、鎮圧に向かい火を放つ。興福寺・東大寺など焼失(南都焼き打ち)。近江源氏、美濃源氏などを鎮圧。    
 1181年(治承5年)1月、高倉上皇死去;平家の朝廷支配を支えていた。    
 1181年(治承5年)2月、平清盛死去。平宗盛(清盛の嫡男)が、後白河上皇に政権返上。以仁王令旨の大儀がなくなる。宗盛は源頼朝からの和平調停案を拒否。    
 1181年(養和元年)8月、平宗盛が藤原秀衡を陸奥守、城長茂を越後守に任命し、源頼朝を挟撃する構えを見せる。藤原秀衡は中立を守る。    
 1183年(寿永2年)源義仲が越中、加賀で平氏を破って京都に迫る。平宗盛は安徳天皇と三種の神器を抱いて西へ落ち延びる(平家都落ち)。後白河院は比叡山に逃れ、平家は後白河院を連れていけなかったことにより求心力を失う。    
 京に入った義仲は、後白河院の勲功1位は頼朝、2位義仲、3位行家、を破棄させる。また、安徳天皇の代わりに自らが保護していた北陸宮の天皇践祚を要求。践祚は後白河院に拒否され、関係悪化。    
 1183年(寿永2年)10月後白河院が源頼朝に東国の年貢貢納の責任と権限(=行政権)を与える;事実上の鎌倉幕府成立。頼朝が甲斐・近江・美濃の源氏の上に立つこととなる。(北陸の義仲の上に立つことは後白河院が避けた)    
 1185年(文治元年)壇ノ浦の戦い;源義経が平氏を破る。安徳天皇は二位尼時子(清盛の妻)に抱かれ、三種の神器は海中へ。鏡と勾玉は回収されるが、剣は失われ、1210年(承元4年)伊勢神宮の剣から一つが選ばれ、改めて祀られた。 1189年 第3回十字軍   
 13C 鎌倉時代  (1185〜1333年) 日本中世史関連  鎌倉幕府の歴史    


  『古事記』と『日本書紀』
 平城京遷都から間もない和銅5年(712年)に『古事記』が、また養老4年(720年)に『日本書紀』が完成し、第43代元明天皇に献上された。いずれも天武天皇の命により681年に編纂が開始された。『古事記』は天地初発から第33代推古天皇まで、『日本書紀』は天地開闢から第41代持統天皇までのことが記述されていて、『古事記』と『日本書紀』の扱う範囲は被るところが多い。なぜ同じ時代に二つの異なった歴史文書が編纂されたのだろうか。その理由は、二つの文書の違いから推測することができる。『記』『紀』が編纂された7世紀、すでに日本は外国との交流が盛んで、外交に通用する正史を持つ必要があった。当時の東アジアにおける共通言語は漢語(古代志那語)であり、正史たる『日本書紀』は外国語である漢語によって綴られた。また『日本書紀』は支那王朝の正史の編纂方法を採用し、公式の記録としての性格が強いことからも、日本の足跡を広く内外に示すために書かれたものと考えられる。それに対し、日本語の要素を生かして音訓混合の独特な文章で日本の歴史を綴ったのが『古事記』である。編纂当時、まだ仮名は成立していなかいため、漢語だけでは日本語の音を伝えることはできなかった。そこで編纂者は神名や地名などの固有名詞に漢字の音を充て、日本語の音を伝えようとした。それが万葉仮名である。そのため『古事記』の本文は非常に難解なものになった。表意文字として用いられた従来の漢字と、日本人が表音文字として用いた万葉仮名を混合してしようしたため、漢語を読み書きする外国人にとっては読めないものとなった。『古事記』を読み解くことの難しさは、後世において『古事記』を本格的に研究した江戸時代の国学者本居宣長が、『古事記』を読み解くのに実に35年もの歳月を費やしたことからも窺える。『日本書紀』には古代日本人の心情が表れていないと述べ、『古事記』を最上の書と評価した。また、『日本書紀』が出来事を淡々と記した公文書であるのに対し、『古事記』は歴史物語の形式をとり、文学的要素が強く、天皇による統治の由来を周知させ伝承するために記した文書であり、『古事記』が氏族の系譜について『日本書紀』よりも詳しく記していることからも、『古事記』は国内に向けて書かれたと考えられる。(P267)

  律令体制
 律令制(りつりょうせい)とは、日本で、中国唐朝の律令を取り入れ法体系を整備し、それに基づいた国家制度・統治制度を指す。7世紀後期に始まり10世紀頃まで実施された。開始後約100年間(8世紀後期まで)は経済・軍事に関しては制度にほぼ忠実に従った国家運営が行われた。
制度設立の背景は、7世紀初頭から始まった中央集権国家実現への取り組みがあった。また白村江の戦(663年)の大敗後に、唐に対峙する危機意識を背景とし、唐の仕組みを取り入れ、強力な国家体制の実現、国民皆兵制による大規模な国家軍事力の設立、他国(新羅、渤海)に対する宗主の位置付け[2]を目指したとも考えられている。ただし全面的な官僚制は採用せず、伝統に基づく氏族制を重んじ併用するなどの独自の特徴がある。
またその後の日本の歴史で、観念上、朝廷が統治の頂点に立つことが確立した。また生産手段(土地など)・統治権・軍事権の正統性(および収公)の根拠となった[3]。官僚優越および軍事行動は朝廷の命に従うなどの観念も成立した。
しかし開始後約100年のうちに、現実上の日本の経済制度としては負担が重く実効性が薄く、必要以上の国家軍事力を維持するなどと判断されたため、平安初期に大きく修正された。その後、他の氏族を圧倒した藤原北家が朝廷で独占的地位を占めるに伴い、貴族社会(王朝国家)の時代へ移行した。646年から孝徳天皇や中大兄皇子らが進めた政治改革、いわゆる大化の改新において、4つの施策方針が示された。それらは、中国律令制の強い影響を受けたものである。その内容は下記であった。
 1.豪族(国造)らの私有地を廃止し、人民の所有を廃止すること
 2.中央(朝廷)による統一的な地方統治制度を創設すること
 3.戸籍・計帳・班田収授法を制定すること
 4.租税制度を再編成すること
 5.中央政府が統率する大規模軍(軍団)を作ること
日本の地方統治制度を、中央政府(朝廷)が、構成する諸国を官僚制により直接統治することとした(豪族・国造の支配を廃止)。 また日本の君主号を天皇とし、諸国の上に君臨すること明確化した(「国」の王ではなく、また、日本は国ではない位置付け)。Wikipedia

資料  *1 『天皇の国史』竹田恒泰著 PHP研究所
 *2 『頼朝と義時 武家政権の誕生』(呉座雄一 講談社現代新書)
 *3 『地政学で読み解く日本合戦史』(海上知明著 PHP新書)
 *4  「日本書紀成立1300年 特別展 出雲と大和」(図録;東京国立博物館 2020.01.15)

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