Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本 古代史2-飛鳥・奈良時代(年表) クロニクル「日本」  

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 6C  飛鳥時代 (592〜710年)     



 崇峻天皇(32代)に飛鳥に宮都が置かれる。飛鳥時代はじまる。    隋(589〜618)
 592年 蘇我馬子、崇峻天皇を殺す。推古天皇即位。    
 593年 厩戸皇子(聖徳太子)摂政となる。高句麗僧慧慈、聖徳太子の師となる  マホメット(570〜632)  
 596年 飛鳥寺(法興寺)建立    
 7C  600頃 遣隋使を派遣。新羅に出兵。    
 601 聖徳太子、斑鳩宮を造る。新羅征討の兵動員。来目皇子を撃新羅将軍とする。*5    
 602年 来目皇子が病に伏す。*5    
 603 新羅再征を中止。冠位十二階を制定。    
 604 十七ヶ条の憲法制定    
 607 小野妹子を隋に派遣。聖徳太子、法隆寺建立に着手。    
 610 高句麗僧曇徴、紙・墨・絵具の製法伝える    唐(618〜
 618年 隋が滅亡。唐が興る。    
 律令国家を目指す。仏教伝来により、豪族が古墳に代わって寺を建てるようになった。  622年イスラム帝国成立。  
 622年 聖徳太子(厩戸皇子)没。    
 629年推古天皇崩御、蘇我蝦夷が山背大兄王を推す叔父を殺して、舒明天皇を即位させる。蘇我蝦夷が権勢をふるう。    
 630年 第一次遣唐使派遣    
 637年 蝦夷の反乱    
 641年皇極天皇(女帝)即位。蘇我入鹿(蘇我蝦夷の子)が山背大兄王(聖徳太子の子)を殺害。聖徳太子の血流絶える。    
 645年乙巳の変(大化の改新);中大兄皇子・中臣鎌足、蘇我入鹿をを殺害。蘇我蝦夷は自害。皇極天皇が譲位(日本初)し、孝徳天皇即位。初めての元号「大化」を定める。大化の改新により天皇への中央集権化進む。    
 646年(大化二年)「大化の薄葬令」により豪族の古墳造営が禁止。土地と人民の豪族による私有をやめる「公地公民制」、戸籍の整備、班田収授法が定められ、中央集権国家を目指し、天皇と豪族の区別を明確化。  651年ササン朝ペルシア滅亡。  
 中大兄皇子が孝徳天皇と距離を置き、失意のうちに崩御。654年斉明天皇(皇極天皇の重祚)即位。    
 658年阿倍比羅夫、蝦夷を討つ。    
 659年 出雲国造に命じて出雲大社を修造させる    
 660年 唐・新羅連合軍が日本の友好国百済を攻め滅ぼす。百済の武将らから救援を求められ、援軍を派遣。    660年百済滅亡
 663年 白村江の戦い;日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に敗退。朝鮮半島への影響力を失う。九州など防人を置いて、防戦の備え。(唐・新羅連合軍は日本を攻めず、高句麗を滅ぼす)    668年高句麗滅亡
 668年 天智天皇即位(662年斉明天皇崩御以降は「称制」(即位せず天皇の職務を代行)。中央集権化、律令国家体制進む。庚午年籍(戸籍)整備により徴兵も可能に。    
 669年 中臣鎌足、藤原姓を賜る。翌日没す。    
 671年 天智天皇崩御、子の大友皇子が即位し、弘文天皇に、672年天智天皇の弟大海人皇子が反乱(壬申の乱)。弘文天皇自害し、大海人皇子が天武天皇として即位。    
 681年天武天皇、『古事記』『日本書紀』編纂を命じる    
 686年天武天皇崩御し、皇后(天智天皇の娘)が持統天皇として即位(三方四代目の女帝)    
 694年藤原京(奈良県橿原市)遷都(これまで代替わり毎に宮を作っていたが、三代の帝都となる。    
 8C  701年持統天皇の孫が文武天皇として即位。「大宝律令」を定める。大宝律令に「日本」と「天皇」の称号が明文化。『三国史記』に「日本国使、新羅に至る」と記す。    
 奈良時代(710〜794年)     



 710年平城京遷都;5〜10万人が住んでいたと考えらている
和同開珎鋳造
『古事記』『日本書紀』編纂
   
 藤原不比等(中臣鎌足の息子)、持統天皇に重用され、文武天皇の擁立、大宝律令、平城京遷都、元明天皇(女帝)即位に尽力。
文武天皇崩御(25歳)により、その母が元明天皇として即位。子から母への継承は前例なし。
不比等の娘宮子が文武天皇夫人となっており、宮子が生んだ首皇子(おびとのみこ)がまだ幼かったため。
   
 715年;藤原不比等、天武天皇の孫でより嫡流に近い長屋王を回避するため元正天皇(女帝)を擁立。    
 717年(霊亀3年・養老元年);多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行し、阿倍仲麻呂、吉備真備、僧玄ム、井真成ら、唐の長安に留学。    
 720年(養老4年);藤原不比等死去。隼人(九州南部)が反乱を起こし、大伴旅人がこれを討つ。    
 724年(養老8年);首皇子が24歳で聖武天皇として即位。陸奥で蝦夷が反乱。藤原宇合(うまかい)、多賀城を築く。    
 725年(神亀2年)阿倍仲麻呂、洛陽の司経局校書として唐の玄宗に仕える。その後、、文学畑の役職を務め李白・王維・儲光羲らの唐詩人と親交。    
 729年(神亀6年);聖武天皇の皇太子が生後1年で死去したことを長屋王の呪いと密告。藤原の軍勢が長屋王を攻め自害させる。;長屋王の変    
 733年 『出雲国風土記』(完存する唯一の風土記)編纂される    
 733年(天平5年);多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐した際に、阿倍仲麻呂は長安で遣唐使らの諸事を補佐したが、唐での官途を追求するため帰国しなかった。翌年帰国の途に就いた遣唐使一行はかろうじて第1船のみが種子島に漂着、残りの3船は難破した。第1船に乗った真備と玄ムは無事帰国。日本に貴重な文物をもたらした。    
 737年(天平9年);流行した天然痘で、藤原不比等の4人の息子は命を落とす。長屋王の怨霊の為せる業と恐れられる。    
 740年(天平12年);藤原広嗣の乱;藤原四子の一人藤原宇合の子、政権の体制に反発、重用される真備と玄ムを除かんとして反乱するが、朝廷軍に攻められ戦わず敗れ、処刑される。    
 聖武天皇、疫病や凶作に対して全国に国分寺や国分尼寺を建設し、東大寺と大仏建立を命じる。    
 743年(天平15年);墾田永年私財法を制定して土地の私有を認めて課税することで大仏建立の費用を捻出しようとした。公地公民制が崩壊し、荘園制へ移行。    
 749年(天平勝宝元年);聖武天皇譲位し、出家。娘の孝謙天皇即位。(六方七代目女帝)  751年タラス河畔の戦い;唐がアッバース朝に大敗;製紙法西伝。
 750年(天平勝宝2年)藤原仲麻呂の権勢高まり、吉備真備は地方官である筑前守、次いで肥前守に左遷。  
 752年(天平勝宝4年);大仏開眼供養行われる。国内から1万数千人、インドや唐から多くの僧、新羅から700人の使節が参加。(756年聖武上皇崩御)    
 752年(天平勝宝4年)藤原清河率いる第12次遣唐使、吉備真備が副使となる。;阿倍仲麻呂は帰国許可を玄宗に申し出るが、容易には許可されなかった。    
 753年 阿倍仲麻呂は、清河とともに帰国を図った。この時王維は「秘書晁監(「秘書監の晁衡(唐での仲麻呂の名)」の意)の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。出帆した4隻のうち、仲麻呂や清河の乗船した第1船が暴風に遭って南方へ漂流。仲麻呂が落命したという噂を伝え聞いた李白は「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼む。    
 753年 鑑真和上来日    
 755年(天平勝宝7年)仲麻呂は清河とともに長安に戻ったが、この年、安史の乱が起こったことから、唐朝は行路が危険である事を理由に清河らの帰国を認めず、仲麻呂は清河とともに留唐することになった。    755年安史の乱(〜763年)
 757年(天平宝字元年);養老律令を施行。橘奈良麻呂の変。    756年安禄山、大燕皇帝を自称。玄宗ら四川へ脱出。楊国忠、楊貴妃ら殺される。粛宗、即位。玄宗を上皇とする。
 758年(天平宝字2年);孝謙天皇譲位、淳仁天皇(47代)即位。淳仁天皇と親密な藤原仲麻呂(不比等の孫、藤原南家)が台頭。    757年 安禄山、子の安慶緒に殺される。史思明降る。
 759年 唐招提寺創建    759年 史思明、大燕皇帝を自称。
     761年 史思明、子の朝義に殺される。
 764年(天平宝字8年);藤原仲麻呂の乱;孝謙上皇が道鏡と親密になったことに危機を抱いた藤原仲麻呂(別名;恵美押勝)が反乱を起すが、上皇に攻められ殺される。淳仁天皇は廃位・流罪。孝謙上皇が復位し、称徳天皇(48代、8代目女帝、重祚)藤原四子のうち南家が没落。
   763年 史朝義自殺;安史の乱終わる。
 真備は中衛大将として追討軍を指揮し、兵を分けて仲麻呂の退路を断つなど優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げる。765年(天平神護元年)には乱の功労により勲二等を授けられた。    
 766年(天平神護2年)道鏡が法王となる。    766年(天平神護2年)阿倍仲麻呂、安南節度使となる。
 766年(天平神護2年)称徳天皇と法王・弓削道鏡の下で真備は中納言へ、同年3月に藤原真楯薨去に伴い大納言へ、さらに同年10月には従二位・右大臣へ昇進して、左大臣・藤原永手と並んで太政官を領導した。地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまで至ったのも、近世以前では吉備真備と菅原道真の二人のみである。    
 769年(神護景雲3年)宇佐八幡宮神託事件;道鏡を天位につけたなら、天下太平ならん;和気清麻呂が抵抗し、称徳天皇はどちらも遠ざける    
 770年(神護景雲4年)称徳天皇が病床で白壁王を皇位継承者に指名、光仁天皇62歳で即位。道鏡は追放される。
孝謙・称徳天皇は内乱を避けつつ皇統を守った。この後、平安時代になると皇太子制度が整い、中継ぎとしての女帝は必要なくなる。約100年ぶりに天武天皇系から天智天皇系へ。また妻が天武天皇系だったため融合となった。
 771年 カール大帝、全フランクの王となる。  770年(宝亀元年)阿倍仲麻呂死去(73歳)代宗は州大都督の官名を贈る。
 770年(神護景雲4年)称徳天皇が崩じた際に、真備は娘(または妹)の吉備由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した。光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将のみの辞任を許し、右大臣の官職は慰留した。宝亀2年(771年)に再び辞職を願い出て許された。それ以後の生活については何も伝わっておらず、宝亀6年(775年)10月2日薨御。享年81。最終官位は前右大臣正二位。    
 光仁天皇は称徳・道鏡の仏教偏重の政治を改め、和気清麻呂を復権させる。  774年 カール大帝、ロンゴバルト王国を滅ぼす。  
 774年 征夷の三十八年騒乱;宝亀5年1月21日(774年3月8日)の蝦夷の上京朝貢の停止、同年7月頃、海道地方の蝦夷らの間で騒擾状態となった。陸奥按察使兼守鎮守将軍大伴駿河麻呂はこの事態に対処するために征夷について光仁天皇に二度にわたり奏上し許可を得る。    
 776年 陸奥から2万、出羽から4千を徴して、蝦夷征討軍により攻めるが、出羽軍が不利となり、関東の兵を動員。以後、関東の兵力への依存が高まっていく。*3    
 780年 伊治公呰麻呂(これはりこうあざまろ)の乱;朝廷に仕えていた蝦夷の伊治公呰麻呂は、陸奥按察使兼鎮守副将軍 紀広純を殺害して、多賀城を焼き、反旗を翻す。征夷軍に対して、蝦夷軍はゲリラ戦により抵抗。*3    
 光仁天皇の姉が死去すると、皇后井上内親王と子の他戸親王に、天皇およびその姉への呪詛の嫌疑がかけられ幽閉され、殺される。光仁天皇の第一皇子山部親王に娘を嫁がせている藤原百川の関与か。山部親王の生母は百済武寧王の末裔で帰化人。781年(天応元年)桓武天皇即位。この後しばらく、井上内親王と他戸親王の祟り伝承とそれへの対処、名誉回復が行われる。  778年 カール大帝、スペイン遠征し、辺境領を設置。
778年 ビザンツ帝国軍、アラブ軍を撃退。
 
 782年 大伴家持を陸奥按察使鎮守将軍に任命、蝦夷征討を準備(結局は断念)。    
 784年(延暦3年)長岡京への遷都;凶事が続いたこと、寺院の勢力が強い平城京を離れ、僧侶を遠ざけ政治を立て直すため。新都への寺院移設を禁じた。しかし、造営使藤原種継が暗殺され、事件関与者に桓武天皇の異母弟早良親王が含まれていた。早良親王は無実を訴え、配流の途中で絶食して死亡。その後凶事が続き、和気清麻呂の建議により建設途中の長岡京を捨て、平安京に遷都した。  780年 カール大帝、ザクセン反乱を鎮圧。  
   788年 最澄、比叡山寺(後の延暦寺)を創建。    
   789年(延暦8年) 巣伏村合戦;紀古佐美率いる大規模な蝦夷征討軍をアテルイ(阿弖流為)が破る。*3    
   791年(延暦10年) 桓武天皇、征夷大使 大伴弟麻呂、副使 坂上田村麻呂として征夷軍を派遣。戦勝するが、戦果は限定的。*3    
  平安時代(794〜1185年)    


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 日本古代史-2関連
  聖徳太子(574〜622年)
 崇峻天皇が崩御した後に即位したのが、第33代推古天皇(欽明天皇皇女、敏達天皇の皇后)である。我が国最初の、そしてアジア最初の女帝である。崇峻天皇は皇后を立てていなかったので、家格の低い庶系の皇子しかいなかった。一方、崇峻天皇の兄である用明天皇と敏達天皇にはそれぞれ嫡嗣たる皇子があり、敏達天皇の皇子である押坂彦人大兄皇子と用明天皇の皇子である厩戸皇子が有力な候補だった。当然、馬子は蘇我系の厩戸皇子を推すことになる。この時代はまだ皇太子の制度が確立していない。崇峻天皇の後継者を巡って、争いが予想された。そこで皇位争いを避けるために白羽の矢が立ったのが推古天皇だった。実際は、馬子が厩戸皇子を皇位継承者に位置づけるために描いた絵と考えてよい。推古天皇は馬子の姪にあたる。『日本書紀』は、推古天皇が即位して四か月後の推古元年(593年)四月、厩戸皇子をを太子といたと記す。この聖徳太子は事実上摂政として機能した。健康な天皇の元で代行者が立つことは前例がなく、女帝の元でこそ初めて可能だった。推古天皇は女性だが、欽明天皇の娘であるから「天皇を父に持つ者」(父系継承)として、一代限り、皇位を継承した。女性天皇は八方十代(重祚が二例)ある。推古天皇の即位は、皇位継承者の不在が原因ではなかった。複数の皇子がいて、皇位継承の混乱を防ぐために中継ぎ役として即位した。(P244)
 かつては、聖徳太子が完全に天皇を代行し、蘇我氏を抑え込んで自ら政治を行ったように理解されていたが、近年は、蘇我馬子とも協調し、推古天皇―聖徳太子―蘇我馬子の三人による協調体制で政治が行われたと理解されている。聖徳太子の政治は、主に、遣隋使、冠位十二階の制、十七ヶ条の憲法の三つを挙げることができる。(P247)
 劉宋の皇帝から倭王武と呼ばれた雄略天皇が、支那王朝への朝貢を中止してから1世紀以上の月日が流れた。支那は宋が滅亡してから暫く戦乱期にあったが、隋が統一を果たしのが589年だった。支那が一つの国に統合されたのは約300年ぶりのことで、約150年続いた南北朝時代に終止符が打たれた。強大な軍事力により隋の天下が成立したことで、朝鮮半島の高句麗、新羅、百済は早速隋に朝貢した。しかし、支那王朝との関係を絶っていた日本は、隋が天下を統一しても11年の間、使節を送ることなく放置した。(P247)
 隋が成立して間もなく即位したのが推古天皇だった。聖徳太子は、推古8年(600年)になって、ようやく隋に第一次遣隋使を派遣した。日本が支那に使節を送ったのは実に122年ぶりのことである。朝鮮半島での影響力を保つことと、先進文化を摂取することが目的だった。
 朝鮮半島では四世紀から五世紀にかけて、高句麗、新羅、百済が分立し、半島の南端には任那、加羅を中心とする伽耶諸国(かや)があった。伽耶諸国は、日本と支那、朝鮮の窓口ともいえる重要な地域で、大陸の文化が日本に伝わり、また朝鮮の鉄が日本に運ばれるための交通の要所でもあった。しかし、六世紀に高句麗が南下し始めると、百済と新羅が南に侵攻し、任那加羅と大加羅が相次いで新羅に併合され、伽耶諸国は全て滅ぼされた。伽耶諸国は弥生時代から日本と深い関係があり、多くの日本人が住み、日系の豪族もいた。伽耶諸国が新羅に併合されたことは、日本が朝鮮半島への足掛かりを失ったことを意味する。日本は新羅との戦争の準備を始め、推古8年(600年)に朝鮮に出兵した。日本が朝貢を久方ぶりに再開したのはこの年である。日本が交戦する新羅が隋の柵封を受けたため、日本が隋に朝貢しなければ、新羅を攻めることは間接的に隋を攻めることとみなされてしまうからである。遣隋使の目的の一つは、朝鮮半島での影響力を保つことだった。
 だが、推古8年の第一回遣隋使は隋の正史『隋書』倭国伝に記載があるも、『日本書紀』には記述がない。『日本書紀』の編纂者は『隋書』を参照しているため、この記述を知らないはずはない。意図的に記述しなかったものと思われる。『隋書』によると、「倭王」が使節を派遣してきて、政治の在り方を「倭王は天を兄とし、日を弟とする」などと語ると、隋の文帝は「これはなはだ義理無し」と軽くあしらったという。この時、隋の大帝国としての強さと、最先進国といての文化水準の高さを思い知らされたようである。使者が無冠だったことも一つの原因だと考えられる。当時、日本には位階の制度がなかった。
 そこで聖徳太子は、日本が国家として存続するために、隋から先端の文化と制度を採り入れるも、隋の柵封体制に組み込まれず対等な地位を築く方針を固めたと見られる。そのために必要なことは中央集権国家を作ることだった。聖徳太子は、まず国内の改革に取り組んだ。

  『古事記』と『日本書紀』
 平城京遷都から間もない和銅5年(712年)に『古事記』が、また養老4年(720年)に『日本書紀』が完成し、第43代元明天皇に献上された。いずれも天武天皇の命により681年に編纂が開始された。『古事記』は天地初発から第33代推古天皇まで、『日本書紀』は天地開闢から第41代持統天皇までのことが記述されていて、『古事記』と『日本書紀』の扱う範囲は被るところが多い。なぜ同じ時代に二つの異なった歴史文書が編纂されたのだろうか。その理由は、二つの文書の違いから推測することができる。『記』『紀』が編纂された7世紀、すでに日本は外国との交流が盛んで、外交に通用する正史を持つ必要があった。当時の東アジアにおける共通言語は漢語(古代志那語)であり、正史たる『日本書紀』は外国語である漢語によって綴られた。また『日本書紀』は支那王朝の正史の編纂方法を採用し、公式の記録としての性格が強いことからも、日本の足跡を広く内外に示すために書かれたものと考えられる。それに対し、日本語の要素を生かして音訓混合の独特な文章で日本の歴史を綴ったのが『古事記』である。編纂当時、まだ仮名は成立していなかいため、漢語だけでは日本語の音を伝えることはできなかった。そこで編纂者は神名や地名などの固有名詞に漢字の音を充て、日本語の音を伝えようとした。それが万葉仮名である。そのため『古事記』の本文は非常に難解なものになった。表意文字として用いられた従来の漢字と、日本人が表音文字として用いた万葉仮名を混合してしようしたため、漢語を読み書きする外国人にとっては読めないものとなった。『古事記』を読み解くことの難しさは、後世において『古事記』を本格的に研究した江戸時代の国学者本居宣長が、『古事記』を読み解くのに実に35年もの歳月を費やしたことからも窺える。『日本書紀』には古代日本人の心情が表れていないと述べ、『古事記』を最上の書と評価した。また、『日本書紀』が出来事を淡々と記した公文書であるのに対し、『古事記』は歴史物語の形式をとり、文学的要素が強く、天皇による統治の由来を周知させ伝承するために記した文書であり、『古事記』が氏族の系譜について『日本書紀』よりも詳しく記していることからも、『古事記』は国内に向けて書かれたと考えられる。(P267)

  律令体制
 律令制(りつりょうせい)とは、日本で、中国唐朝の律令を取り入れ法体系を整備し、それに基づいた国家制度・統治制度を指す。7世紀後期に始まり10世紀頃まで実施された。開始後約100年間(8世紀後期まで)は経済・軍事に関しては制度にほぼ忠実に従った国家運営が行われた。
制度設立の背景は、7世紀初頭から始まった中央集権国家実現への取り組みがあった。また白村江の戦(663年)の大敗後に、唐に対峙する危機意識を背景とし、唐の仕組みを取り入れ、強力な国家体制の実現、国民皆兵制による大規模な国家軍事力の設立、他国(新羅、渤海)に対する宗主の位置付け[2]を目指したとも考えられている。ただし全面的な官僚制は採用せず、伝統に基づく氏族制を重んじ併用するなどの独自の特徴がある。
またその後の日本の歴史で、観念上、朝廷が統治の頂点に立つことが確立した。また生産手段(土地など)・統治権・軍事権の正統性(および収公)の根拠となった[3]。官僚優越および軍事行動は朝廷の命に従うなどの観念も成立した。
しかし開始後約100年のうちに、現実上の日本の経済制度としては負担が重く実効性が薄く、必要以上の国家軍事力を維持するなどと判断されたため、平安初期に大きく修正された。その後、他の氏族を圧倒した藤原北家が朝廷で独占的地位を占めるに伴い、貴族社会(王朝国家)の時代へ移行した。646年から孝徳天皇や中大兄皇子らが進めた政治改革、いわゆる大化の改新において、4つの施策方針が示された。それらは、中国律令制の強い影響を受けたものである。その内容は下記であった。
 1.豪族(国造)らの私有地を廃止し、人民の所有を廃止すること
 2.中央(朝廷)による統一的な地方統治制度を創設すること
 3.戸籍・計帳・班田収授法を制定すること
 4.租税制度を再編成すること
 5.中央政府が統率する大規模軍(軍団)を作ること
日本の地方統治制度を、中央政府(朝廷)が、構成する諸国を官僚制により直接統治することとした(豪族・国造の支配を廃止)。 また日本の君主号を天皇とし、諸国の上に君臨すること明確化した(「国」の王ではなく、また、日本は国ではない位置付け)。Wikipedia

資料  *1 『天皇の国史』竹田恒泰著 PHP研究所
 *2 『頼朝と義時 武家政権の誕生』(呉座雄一 講談社現代新書)
 *3 『地政学で読み解く日本合戦史』(海上知明著 PHP新書)
 *4  「日本書紀成立1300年 特別展 出雲と大和」(図録;東京国立博物館 2020.01.15)

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