Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本 古代史1-神話時代(年表) クロニクル「日本」  

神代  日本古代史2(飛鳥・奈良時代)年表  鎌倉幕府の歴史  テーマ史INDEX   探究テーマ「日本」   ホーム

 西暦  時代  主な遺跡・史料 欧州・中近東  中国・アジア 
  〜38,000年前  旧石器時代    
   先土器文化    
 〜16,500年前  岩宿時代     
   磨製石器、土器
 岩宿遺跡(群馬県)ほか81カ所から磨製石器出土
 ラスコー洞窟壁画(20,000年前)  
 BC170〜BC161C  縄文時代(16,300〜3,000年;BC10C)     
 BC160〜BC151C  



 縄文式土器    
 BC150〜BC141C      
 BC140〜BC131C      
 BC130〜BC121C      
 BC120〜BC111C      
 BC110〜BC101C      
 BC100〜BC91C      
 BC90〜BC81C      
 BC80〜BC71C      
 BC70〜BC61C      
 BC60〜BC51C      
 BC50〜BC41C      
 BC40〜BC31C  三内丸山遺跡(5,900〜4,200年前)[Wiki]    
 BC30〜BC21C    エジプト王朝始まる
 メソポタミア シュメール文化
 インド モヘンジョダロ・ハラッパ遺跡
 BC20〜BC11C    ヒッタイト繁栄
 ハンムラビ(BC1792〜1750)
 クレタ文明(17C〜15C)
 トロイ戦争(BC1180頃)
 旧約聖書
 夏(2070頃〜1600頃)
 殷(1600頃〜1046)

 西暦  時代  主な遺跡・史料 欧州・中近東  中国・アジア 
 BC10C  弥生時代(BC10C〜BC3C後半)    
 BC9C


 水田稲作始まる  アッシリア全盛  春秋時代(BC1046〜770)
 ザラスシュトラ
 BC8C      
 BC7C      
 BC6C      ブッダ(BC566〜486)
 BC5C    ギリシア、ペルシア戦役に勝利(BC480)
 ペロポネソス戦争(BC431〜BC404)
 ソクラテス(BC469〜399年)
 プラトン(BC427〜347年)
 アリストテレス(BC384〜322年)
 戦国時代(BC403〜221)
 BC4C  吉野ケ里遺跡(BC4C〜4C)[Wiki]  アレクサンドロス東征  
 BC3C    ポエニ戦争(BC264〜BC146)   秦 始皇帝
 BC2C  『漢書』地理志(「楽浪海中有倭人」「分かちて百余国と為し」)
北部九州で鉄器が使用される
 前漢
 BC1C    カエサル  
 1C    ローマ帝国  後漢
 2C  『後漢書』(東夷伝147-189年の間)に「倭国大乱」「凡そ百余国あり」    
 纏向石塚古墳(奈良県)[Wiki]    
 3C   魏志倭人伝「今、使訳(魏の使節)の通ずる所三十国なり」  226年パルティア滅亡し、ササン朝ペルシア建国(〜651)。  三国時代
 卑弥呼、狗奴国と戦い、魏の皇帝から檄を送られる。    晋
 卑弥呼死去し、男王立つ、国中乱れ壱与女王となる。西晋に遣使。    
 纏向遺跡(奈良県)[Wiki]    
 古墳時代     



 箸墓古墳(奈良県)[Wiki]    
 崇神天皇(10代);3世紀後半、王朝交代説あり    五胡十六国
 4C  4世紀初頭には前方後円墳(=ヤマト王権の勢力)が畿内から北部九州に拡大。箸墓古墳など。  313年ミラノ公会議;コンスタンティヌス帝キリスト教を公認  
 景行天皇の治世58年に、纏向宮から大津 高穴穂宮に遷都か。    
 4世紀後半には、日本列島のほぼ全域に前方後円墳(=ヤマト王権の勢力)が広まる  アウグスティヌス(354〜430年)  
 4世紀後半、倭、朝鮮半島南部(加羅)に進出。百済王、倭王に「七支刀」を贈る。    
 391年倭軍、渡海し百済・新羅と戦う(高句麗広開土王碑銘)  395年ローマ帝国東西に分裂  
 399年倭、百済と結び新羅に侵攻。高句麗、新羅を助け、倭を退ける。  401年西ゴート王アラリック1世、イタリア侵入。  
 5C  仁徳天皇陵など古市・百舌鳥古墳群(大阪)築造される。   429年ヴァンダル族はアフリカへ進攻、アルジェリアのヒッポを包囲。ヒッポ司教アウグスティヌス死去  
 朝鮮半島半部に前方後円墳14基築造される(大和朝廷の統治範囲か)  
 『晋書』安帝紀に義熙九年(413年)に倭国が東晋に朝貢したと記す(中国王朝には147年ぶりの倭についての記述)。『宋書』(劉宋の正史)倭の五王(讃、珍、済、興、武)からの朝貢の記録がある。讃;履中天皇(17代)、武;雄略天皇(21)と考えられる。
 421年 倭王 讃が宋に使いを送る    
 6C  古墳時代末期の崇峻天皇の時までに皇子が豪族と血縁関係を結んだ先は、山陽・山陰・四国・九州・中部・東海・関東甲信越・北陸。(前方後円墳の分布範囲と同じ)  447年東ローマ皇帝テオドシウス2世、フン族と講和;トラキア等割譲  
 538年 百済 聖明王が日本に仏像等を伝える。  451年カタラウヌウムの戦い;ローマ人、フランク人、ゴート人連合がフン族のアッティラを破る。 
   452年教皇レオ1世はイタリアに侵攻したアッティラと会見し、ドナウ川まで撤退するよう説得。  
   476年傭兵隊長オドアケルにより西ローマ帝国滅亡  
     486年フランク王国メロヴィング朝建国  
  飛鳥時代  飛鳥時代 (592〜710年)     


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 日本古代史関連
  旧石器時代(38,000年以前)
  先土器時代。磨製石器と土器が出現する前の時代で、主には打製石器の時代。打製石器は一部の霊長類でも作ることができるので、磨製石器こそが現生人類固有のモノ作りの痕跡といえる。 
  岩宿時代(イワジュク;38,000年〜16,000年前)
  磨製石器時代、1946年に群馬県岩宿遺跡の35,000年前の地層(関東ローム層)から磨製石器が発見された。日本には先土器文化はないと思われていたが、この発見によりそれ以前に先土器時代があったことが判明し、また、出土した磨製石器は世界最古であること判り、世界に衝撃が走る。このことから、日本の文化は大陸からもたらされたという説が一般的に流布しているが、日本より旧い磨製石器が見つかっていないことから、日本の文化は日本固有のものである可能性がある。さらに言えば、逆に人類固有の磨製石器文化が、日本から大陸に広まった可能性もある。 
38,000〜35,000年にかけて、日本の磨製石器は81カ所の遺跡で出土しており、日本においても広く伝播したことがわかる。
日本以外の磨製石器の出土は、オーストラリアで31,000〜23,500年前、オーストリア中部で26,000年前、シベリアで22,000年前などであり、中国で15,000年前、朝鮮半島で7,000年前などである。
  縄文時代
   縄文土器が出土して縄文時代に入るのは、16,300年前。縄文人も日本に広く分布した。北海道では、オホーツク人が南下し、北海道縄文人とオホーツク人が混血して近世アイヌ人が成立し、アイヌ人と津軽の日本人(いわゆる和人)との混血が進んで現代アイヌ人となったのであり、アイヌ人は北海道の先住民族ではない、とも考えられる。そもそもアイヌ文化が成立したのは、13世紀、鎌倉時代後半である。
  弥生時代
   弥生時代は本格的な水田稲作が始まった約3,000年前(BC1,000年)から、前方後円墳が出現する三世紀初頭までの約1,200年間の時代である。長年、弥生時代の開始年代は約2,500年前とされていたが、近年の研究の成果で日本における本格的な水田稲作の開始は500年遡った。朝鮮半島の水田稲作は2,600年前までしか遡れず、水田稲作は朝鮮半島軽油で日本に伝えられたとされてきたが、日本の水田稲作の方が古い可能性でてきた。
また、弥生文化は大陸から伝えられたとされてきたが、考古学、遺伝子工学、比較言語学の観点からも、縄文人と弥生人の連続性が認められ、大陸から多くの弥生人が渡来したということは考えにくことがわかっている。



  岩宿時代
 異なった集団が、異なった時期に日本列島に渡ってきたことが、岩宿人とその子孫の縄文人に、多様なタイプのハプロタイプが見られる理由と考えられる。(P51)
 地球の寒冷期には、海面が現在よりも120メートルも低かったが、約2万年前から温暖化により海面が上昇した。中国大陸と日本列島の往来が容易だったのは、4万年前から1万5千年前の期間だったことになる。その後は往来が困難になるが、4万年近く前から航海術を身につけた岩宿人の子孫である縄文人は、更に高度な航海術を持っていたため、大陸と隔てられても、壱岐と対馬を経て盛んに大陸や半島と交流していた。 (P51)
 北海道縄文人とオホーツク人が混血して近世アイヌ人が成立し、近世アイヌ人と津軽の日本人(いわゆる「和人」)との混血が進んで現代アイヌ人となったのである。アイヌ人は北海道の先住民族でなかった。(P54)

  縄文時代
 世界最古の土器をめぐっては、@日本列島、A中国南部、Bロシアのアムール川中下流域、の三つの地域が世界的に見て圧倒的に古い時期から土器が作られていたことは揺るぎない事実である。土器は東アジアで発祥し、それがユーラシア大陸やアフリカ大陸に伝播したと見てよい。(P83)
 三つの地域で最初期の土器から土器文化が継続して発展しているのは日本列島だけである。日本列島においては、縄文時代の初期である約1万3千年前には、大半の縄文遺跡ですでに土器が用いられていたことがわかっている。 (P83)
 何を以て文明の成立とするかは難しい。「文明」は西洋の学者が作った概念で、日本の独特な歴史の経緯を考慮せずに用いられてきた。世界の考古学界における文明成立の定義は、農耕による余剰農作物の生産を前提とするため、その定義では、日本文明の成立は、弥生時代を待たなければならないだろう。また文明の定義は多義的で、都市化や文字、あるいは「国家」といえる政治システムの確立を条件とする見解もある。どの定義を採用するかによって、日本はいつから文明があるかの答えが大きく変わる。(P84)
 日本列島で磨製石器が作られてから2万5千5百年もの期間、中国大陸よりも日本列島の文化が先行していたが、ここで入れ替わることになった。農耕に着手した中国の文化は新石器革命を成し遂げ、その後も猛烈な勢いで文明を発展させていくことになる。再び日本が文明水準と経済規模で中国を抜くのは明治時代のことである。
 1992年から発掘が始まった三大丸山遺跡は、今から約5,900年前から約4,300年前まで、およそ1,600年間営まれた、広さ35万ヘクタールの巨大遺跡である。
 日本列島で磨製石器が作られてから約2万5,500年もの長期間、中国大陸よりも日本列島の文化が先行していた(とも考えれる)が、ここで入れ替わることになった。農耕に着手した中国の文化は、新石器革命を成し遂げ、その後も猛烈な勢いで文明を発展させていくことになる。
日本列島では磨製石器と土器の使用が著しく早かったものの、本格的な農耕への移行が遅れたため、特殊な発展をすることとなった。
 日本が縄文文化を営んでいる頃、中国大陸では本格的な農耕社会が構築されていた。だが、縄文人は小規模な穀物栽培を初めてから1,000年以上もの間、農耕生活に移行しなかった。長期間に亘って意図的に農耕を採用しなかった先史文化は世界的にも稀である。
その理由は、日本列島の豊かさにあったと見られる。列島は豊かな温帯林に包まれ、周囲を海に囲まれた環境にあって、豊富な山海の幸に恵まれていたため、縄文人の食生活は安定し、食べるのに困る状況はなかった。採取を基礎とする社会でこれほど安定した社会は世界史上極めて珍しい。そのため水田稲作を取り入れる必要がなかったというのが、縄文人が水田稲作に興味を示さなかった理由と考えられる。同じ理由で牧畜も発達しなかった。また、地域ごとに生活に特色があり、人々が保守的な生活を維持しようとしていたことも影響していると思われる。
 世界史を眺めると言語は脆弱なものであることが分かる。言語は民族と共に生き残るものであり、民族と共に滅びるものでもある。英語やスペイン語が「日の沈まぬ言語」になった半面、その陰で夥しい数の言語が消滅してきた。
日本語も例外ではなく、いくつもの危機を乗り越えてきた。元寇でもし日本が元に征服されていたら、日本列島は元の植民地となり、今は中華人民共和国の一部として中国語が用いられていた可能性がある。また幕末期の舵取りを一つ間違えていたら、我が国は列強の植民地にされていた可能性もある。そして、先の大戦の終結が遅れていたら、日本は東西に分断され、北日本ではロシア語が公用語になっていたかもしれない。
 アメリカ原住民、ケルト、アボリジニ―など、日本の縄文時代に他の地域に存在していたアニミズム精神を持つ民族は現存する。しかし、彼らは国土と国家を持たず、言語すら失われてしまった。原始民族で国土、国家、言語を持ち、一億人以上の人口を擁しているのは世界で日本民族だけであり、その意味において、日本は現存する唯一の古代国家といえるのではないか。

  弥生時代
 朝鮮半島に最初に稲を持ち込んだのは、黄河文明の影響を受けて畑作農耕をしていた華北の集団だった。畑作農耕では、稲は雑穀の一つでしかなかった。長らく朝鮮半島で水田稲作が行われなかったことや、米を主食としてこなかったことは、ここか理解できる。朝鮮半島は未発達だから水田稲作が遅れたのではなく、水田稲作とは別系統の文化を先に受容していたのである。。(P114)
 それに対して日本列島では、黄河文明が入る前に長江文化を受容したことで、本格的な畑作農耕を経験せず、水田農耕を始めることになった。最終を中心とした縄文文化から、選択的に緩やかに水田農耕を取り入れたのが弥生文化だった。このように、農耕を受容した経緯が日本列島と朝鮮半島でまったく異なるのである。(P115)
 しかし、畑作農耕を中心とする黄河文化を先に受容したことは、あるいは朝鮮半島の悲劇の始まりだったかもしれない。水田農耕と比べると畑作農耕は単位当たりの収穫が極端に少なく、その少ない収穫を得るために大きな労働力を投入しなければならなかった。畑作農耕は労働集約型の農耕で、奴隷と家畜の投入を前提としなければ成り立たなかった。(P115)
 そのため、畑作農耕の文化では貧富の差が大きくなる傾向があり、富の偏りが顕著になって、力のある勢力は周辺地域を力で併合するようになる。そしてそれは、階級社会や国を生み出すことに繋がる。志那と朝鮮が、覇権を求めて国の興亡をを繰り返す歴史を歩んだのは、黄河文明の畑作農耕を基礎としたことと無関係ではない。朝鮮半島では日本列島より先に墓が大型化して、王の存在が認められるになるが、これも畑作農耕により生じたことと考えらえる。
 水田稲作の発祥は約9,500年前の中国の長江流域であるが、日本で確認されるのは約3,000年前であrることがわかった。
 『後漢書』東夷伝(147-189年の間)に「倭国大乱」との記述があり、日本が大きな戦争状態だったと想定される。吉野ケ里遺跡は、環濠集落であり、敵から防御する砦の役割を果たしていたと考えらえる。

  邪馬台国
 邪馬台国の所在地、位置づけはわかっておらず、諸説ある。@九州王朝説、A邪馬台国東遷説、B邪馬台国高天原説など。(P183) また、ヤマト王権との関係についても不明なことが多い。著者(竹田恒泰氏)は、大和朝廷とは別に並立して存在し、大和朝廷の地方政権化したとの説を採っている。
 @九州王朝説;7世紀末まで九州に邪馬台国があり、大宰府がその首都だった。(古田武彦氏)いわゆる「倭の五王」や推古天皇までもが邪馬台国の王であるとする。
   しかし、3世紀に畿内で前方後円墳が造営されるようになって以降、古墳時代を通じて古墳の密集地が吸収ではなく畿内だったこと、6世紀に仏教が伝来して以降、仏教文化の中心地が九州ではなく畿内であったこと、三世紀に纏向遺跡が造営されて以降、列島の最大の中心地が九州ではなく畿内だったこと、3世紀に纏向遺跡が造営されて以降、列島最大の王宮と行政府は九州ではなく畿内にあったこと、などから、7世紀まで日本を代表する中央政府が九州の邪馬台国だったとは認められない。
また、もし7世紀までの天皇が邪馬台国の王なら、なぜ大和朝廷はそれら別の国の王を自らの先祖として『記』『紀』に書き記したのか説明がつかない。『日本書紀』は『魏志』を引用しているが、「倭女王」とするだけで卑弥呼の名を書いていない。それだけで、卑弥呼は大和朝廷の女王ではないことがわかる。
 A邪馬台国東遷説;九州に本拠を構える邪馬台国が本拠を畿内に移動した。(安本美典博士)
   神武天皇東征は小規模な集団であって強国の後ろ盾があったとは考えにくいこと、大国が西から東に向けて小国を併合していった考古学的事実が認められないこと、仮に大国が東に勢力を伸ばしても本拠地を九州から畿内に移すのは不自然であってその目的が不明であることなどから頷けない。
 B邪馬台国高天原説;邪馬台国は、神話の高天原であり、卑弥呼は天照大御神であるとする説。
   『古事記』が高天原の場所に言及していない以上、神話の地名を現実世界の地図に求めることは論理的に不可能であり、学問的主張になりえない。

  古墳時代
 3世紀中頃には纏向遺跡の直ぐ南に、約278メートルの巨大な前方後円墳の箸墓古墳が造営され、その後は更に巨大な古墳が続々と作られるようになる。古墳時代を通じて造営された前方後円墳は約4,700基、前方後方墳は約500基で、北海道、東北北部、沖縄を除いた日本列島のほぼ全体に分布している。方墳や円墳を含めれば約15万基となる。墳丘の長さが300メートル以上のものは7基、200メートル以上が40基、100メートル以上が326基確認されている。日本列島のような狭い空間に、短期間のうち夥しい数の巨大墓が造営されたのは、世界史上、例がない。前方後円墳は見せる墳墓であり、交通の要衝に造られている。大和朝廷が作り出す共通の秩序の元で、地方の首長や豪族たちが序列化されたのは「見せる」ものと考えてよい。(P192)
 弥生時代晩期の日本列島にいくつの国があったかを見極めるのは難しいが、支那の正史の記述は参考になる。紀元前1世紀の日本の様子を記した『漢書』地理志燕地条には「分かちて百余国と為し」とあり、1世紀から2世紀の日本の様子を記した『後漢書』東夷伝には「凡そ百余国あり」とあり、また3世紀前半の日本の様子を記した『魏志』倭人伝には「今、使訳の通ずる所三十国なり」とあり、魏の使節が往来している国だけでも30国があったことが分かる。これらの記述から、列島全体では100ヵ国以上の国があったと見てよさそうである。それらの国が、前方後方墳が出現した3世紀初頭から4世紀末までの約200年弱の間に、大和の大王(おおきみ)の作り出す秩序の元に統合されることになる。
 ヤマト王権が北部九州を完全に勢力下に置いたのは、『日本書紀』が記述する通り、第十四代仲哀天皇の九州遠征の時と見てよい(若井敏明『邪馬台国の滅亡』2010)。わざわざ仲哀天皇が遠征したのは、一部勢力が従わなかったからで、その勢力を熊襲(くまそ)と呼んでいる。しかし、仲哀天皇が崩御し、神功皇后(じんぐう)が熊襲を討伐し、北部九州は平定された。
 奴国や伊都国などの邪馬台国(邪馬台国連合体説)を構成する複数の国がヤマト王権に服従し、最後まで抵抗した国が討伐されたことで、邪馬台国はここに滅亡したと見てよい。
 前方後円墳の出現は、国々を束ねる指導者が現れたことだけでなく、大きい墓を造っても防衛には約立たないことから、列島に平和な時代が訪れたことを示している。弥生時代の後期は『後漢書』に「倭国大乱」と記されたように、日本列島は戦乱の時代であった。中国地方の高地性集落や、埋葬された戦傷遺体などの戦争の痕跡が見られたが、3世紀初頭を境に列島からそれらの戦争の痕跡が見られなくなる。また、弥生時代特有の環濠集落が紀元前後になくなり始め、3世紀前半頃には列島から完全に消滅したこととも符合する。その後は、環濠のない大規模集落が列島の主要な地域に現れることになる。そして、その中核をなすのが纏向遺跡だった。
 世界の歴史では、統一国家が成立するには大規模な戦争を経るのが常だが、日本では平和な時代に統一国家が成立した。大きな戦争を経ずに数十やそれ以上の国が統合した事例は、日本と現代のEUくらいしかない。そしてEUはまだその途上である。それが可能となった理由を示すのは困難だが、『古事記』の国譲りの逸話にその要素が見える。大国主命(おおくにぬしのみこと)は話し合いにより、天照大御神に国を譲ることにした。この話は神話として書かれているが、古墳時代にヤマト王権と出雲国が統合したことを元に描写していると思われる。大国主命は国譲りに際して宗教の自由を条件としたことは既に示した。ヤマト王権は軍事力で諸国を攻め滅ぼしたのではなく、国同士が連携を深めて、やがて強固な国家へと統合していったものと思われる。(P199)
 前方後円墳は、大和に突如現れたのであり、大和や他の地域で発展して完成したものではなかった。前方後円墳の特徴の内、大和を起源とするものとしては、周濠の存在、階段状に積み上げる段築、北頭位の採用などが挙げられる。しかし、礫の積み方、葺石(ふきいし)の様子、埋葬施設の特徴、墳丘の巨大化など、古墳の重要部分は吉備(岡山県、広島県東部)、鏡・玉・武器などを埋葬することは北部九州の特徴である(橋本輝彦「前方後円墳の出現を巡る諸問題」2011)。また吉備と出雲は文化的繋がりが強い。このように、大和、吉備、出雲、北部九州の埋葬文化の特徴を融合させて新たに創造したのが前方後円墳だった。(P192)

  雄略天皇
 関東と九州の二つの前方後円墳(埼玉・稲荷山古墳、熊本・江田船山古墳)から出土した鉄剣と鉄刀に「獲加多支る大王(わかたけるだいおう)」と刻まれており、日本人が記した現存する最古の文字資料である。『日本書紀』が記す雄略天皇の在位は456〜479年であるから、鉄剣銘の「辛亥(かのとい)」は471年であり、完全に一致する。また、雄略天皇の名を『古事記』では「大長谷若健命(おおはつせのわかたけるのみこと」、『日本書紀」では「大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけるのすめらみこと)」と記されていることとも一致する。この時代の大和朝廷は、少なくとも関東から九州までを勢力範囲としていたことが確認できる。(P223)
晋の正史『晋書』安帝紀が、義熙九年(413年)に「倭国」が東晋に朝貢してきたことを記している。支那の正史には日本の記述が復活するのは『晋書』帝紀が、泰始二年(266年)に「倭人」が西晋に朝貢してきたと記録して以来、147年ぶりのことだった。続けて劉宋(中国南北朝時代の「宋(420 - 479年)の正史『宋書』倭国伝は、劉宋建国の翌年にあたる永初二年(421年)に倭王讃が朝貢してから、倭王武までの倭の五王が続けて朝貢してきたと伝える。
倭の五王の名は讃、珍、済、興、武とされ、『宋書』のいう「倭国」が大和朝廷であることは争いがないため、倭の五王が五世紀の天皇であることは間違いない。劉宋からそのように呼称されたのは、劉宋の柵封体制の中で、大和朝廷の大王は、支那風の姓を名乗ることが求められた結果と考えられる。また『宋書』の記述から、倭国王の姓は「倭」だったことが分かっている。これは劉宋の皇帝から与えられた姓と思われる。
讃の比定については所説あるが、讃が履中天皇(第17代)、珍が反正天皇(18)、済が允恭天皇(19)、興が安康天皇(20)、武が雄略天皇(21)と考えられ、雄略天皇の名「倭武(やまとたける)」とも一致し、年代、続柄、名前の三点が一致する。
雄略天皇は、劉宋から478年「安東大将軍」の官位を授けられる。しかし、翌年に劉宋が滅亡。雄略天皇は支那王朝への朝貢をとりやめた。これには、朝鮮半島情勢も関係しており、475年には百済が滅亡し、大和朝廷の半島への影響力が低下していたことにもよると考えられる。


資料  *1 『天皇の国史』竹田恒泰著 PHP研究所
 *2 『頼朝と義時 武家政権の誕生』(呉座雄一 講談社現代新書)
 *3 『地政学で読み解く日本合戦史』(海上知明著 PHP新書)
 *4  「日本書紀成立1300年 特別展 出雲と大和」(図録;東京国立博物館 2020.01.15)

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