Title9-3.GIF (2758 バイト) 日本 近世史関連 クロニクル「日本」  

<近世史年表>
 西暦  時代  主な遺跡・史料 欧州・中近東  中国・アジア 
    (鎌倉~室町時代 ) ~ 日本中世史関連    
16C




 1565年(永禄8年)13代将軍足利義輝が家臣の松永久秀に殺害され、足利義栄(14代)が擁立されるが、京に上った信長は、足利義昭を15代将軍に擁立した。    
 1567年(永禄10年)正親町天皇(106代)は、織田信長の美濃での戦勝を称賛し、禁裏御料(美濃・尾張)を回復することと、宮廷費用の献上を命じ、信長が上洛。天皇の綸旨を元に、反信長連合である浅井・朝倉氏との間に和睦が成立。    
 1571年(元亀2年)信長は比叡山延暦寺を焼き討ち。    
 信長は義昭と対立を深め、勅命により和議を成立するが、武田信玄が病没すると、1573年(元亀4年)義昭を京から追放し、ここに230年続いた室町幕府は滅亡した。    
 1573年(天正元年)信長より正親町天皇譲位の提案。朝廷の勢力拡大のためには有効。しかし、その後の戦乱により延期。(天正14年 豊臣秀吉により譲位が実現。)    
 1575年(天正3年)長篠の戦で甲斐の武田勝頼を、鉄砲3,000挺で破る。騎馬を主体とする個人戦から足軽の鉄砲隊を主力とする集団戦へ移行。    
 1576年(天正4年)近江の国(滋賀)の琵琶湖のほとりに安土城を築く。信長は朝廷より、正三位・内大臣に任じられ、将軍を上回る。    
 1577年(天正5年)従二位・右大臣に、翌年には正二位に昇も、その後右大臣・右近衛大将を辞任。    
 1582年(天正10年)武田勝頼を攻め滅ぼす。朝廷から三職推任(征夷大将軍、太政大臣、関白のいずれかへの推薦)の打診。    
 1582年(天正10年)6月家臣明智光秀の謀反により織田信長、本能寺にて自害(48歳)。羽柴秀吉が京都郊外の山崎の戦で明智光秀を破る。    
 1583年(天正11年)秀吉、信長の重臣筆頭だった柴田勝家を賤ケ岳の戦いで破り、信長の後継者となる。石山本願寺跡に大阪城を築城(着手)。    
 1584年(天正12年)小牧・長久手の戦い;秀吉、徳川家康に敗れるも講和。    
 1585年(天正13年)秀吉は長宗我部元親を屈服させて、四国を平定。正親町天皇から関白に任じられる。惣無事令を発令し、大名間の私闘を禁じた。(戦乱の世が終わる)    
 1586年(天正14年)秀吉、天皇より豊臣姓を与えられ、太政大臣となる。豊臣政権成立。家康上洛、和睦。さらに秀吉は妹を家康に嫁がせ、生母を人質として差し出すことで、臣下となり、豊臣秀吉の天下統一は成った。    
 1586年(天正14年)正親町天皇の子誠仁親王が薨去し、孫の和仁親王に譲位、後陽成天皇(107代)が践祚。    
 1587年(天正15年)吉支丹伴天連追放令    
 1588年(天正16年)秀吉が後陽成天皇を聚楽第に行幸を仰ぐ。秀吉の公武合体による新秩序づくり。行幸中に諸大名に秀吉に服従する起請文を提出させる。    
 1588年秀吉は刀狩令を出して、武士と農民を分離。太閤検地を行い、「石」単位を導入し、税収を確保した。荘園制に代わり、大名知行制を導入し、石高に応じた軍役を負担させるこの制度は、後の幕藩体制の基礎となる。    
 惣無事令に従わない島津義久を攻めて九州を支配下におき、1590年(天正18年)小田原の北条氏政を滅ぼして関東を平定し、奥州の伊達政宗ら諸大名を従わせ、天下を統一した。    
 徳川家康は、北条氏降伏後、秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国(上杉領の川中島を除く)の5か国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。    
 1591年(天正19年)秀吉の嫡男鶴松死去(2歳)。秀吉は甥の秀次を養子とし、関白職を譲り、自らは太閤(前関白の呼称)となる。    
 1592年(文禄元年) 文禄の役;明攻略のため、朝鮮に道を貸すよう要求したが、断られ朝鮮と戦争になる。日本軍は漢城(現ソウル)を陥落させて、朝鮮国王は逃亡したが、補給が届かず、明との間で和平交渉となる。    
 1593年(文禄2年)秀吉の子秀頼が生まれ、その後、関白秀次を冷遇し、1595年関白職を剝奪し、自刃させた。    
 1597年(慶長2年)明との和平交渉が決裂し、秀吉は再び戦端を開き(慶長の役)、秀吉自身も朝鮮へ出陣しようとしたが、後陽成天皇の渡海諭止の勅書により思いとどまる。日本軍は戦線を伸ばさず、朝鮮半島南部を固める作戦。明と朝鮮の被害は甚大で、東部方面でヌルハチの女真族統一と後金建国(1616年、後の清)を許すこととなる。    
 1598年(慶長3年)秀吉死去(61歳)。日本軍は朝鮮半島から撤退。    
  江戸時代  1600年(慶長5年)秀吉政権の五大老筆頭の徳川家康が力を持ち、反家康の石田三成が挙兵し、関ヶ原の戦いで家康側が勝ち、徳川幕府の江戸時代となる。    
17C  1603年(慶長8年)家康、後陽成天皇から征夷大将軍に任命される。家康は朝廷への圧力を強め、天皇には宗教的権威と任官などの政治的権威のみを残し、将軍が実質的な権力を把握する体制をつくった。    
 1609年(慶長14年)仙台藩に漂着した琉球船を無事に返したが、家康への謝恩使を拒絶し、家康から薩摩藩へ琉球征討の命令が下り、琉球は薩摩の属国となる。    
 1612年(慶長17年)禁教令によりキリスト教を禁止、スペイン、ポルトガルの来航を禁止した。    
 1615年(元和元年)豊臣秀頼を大坂城で攻め滅ぼし、全国支配体制を築いた。    清
   幕府政治は、主に老中が行い、若年寄が補佐し、三奉行(寺社奉行、勘定奉行、町奉行)が分担した。1万国以上の武士を大名といい、徳川親藩、古くからの譜代大名、関ケ原前後から従った外様大名に分け、巧みに配置することで従わせた。    
   1615年(元和元年)に「禁中並びに公家諸法度」を公布し、天皇と公家をも法的に統制した。    
   1616(元和2年)4月17日 徳川家康死去(75歳)。    
   1629年(寛永6年)紫衣事件;高僧に与える紫衣の権利を公家諸法度に基づき剥奪しようとした幕府に対して、後水尾天皇が激怒し、譲位を強行。幕府は武家伝奏を罷免し、以降朝廷への統制を強化。    
   家康が神格化されたことで、幕府は朝廷を軽視し、1634年(寛永11年)に三代将軍家光が上洛してから、1863年(文久3年)家茂まで将軍の上洛が途絶える。以後、将軍宣下の伝達は江戸で行われた。    
   1637年(寛永14年)天草四郎の乱;九州島原で15歳の天草四郎時貞を総大将としたキリシタンの反乱。3か月で鎮圧された。    
   1634年(正保3年)後水尾天皇は、日光例幣使を遣わす(東照大権現を神とする)代わりに、神宮例幣使を180年ぶりに復活させた。    
   1669年(寛文9年)アイヌ人同士のサケの漁業権を巡る争いが、和人との戦争に発展し、アイヌ首長シャクシャインを中心に和人を襲い、松前藩が鎮圧し、北海道全島を支配下に。    
   生類憐みの令;4代綱吉による倫理観、道徳観の重視(犬公方とも呼ばれ評判はよくなかったが、戦乱で荒れた人心から殺人、強盗、捨て子、虐待などの是正に取り組んだ)。また、朝廷の自主運営を尊重し、関係改善を図った。    
   6代家宣は新井白石を登用し、儒教の徳治主義を行った    
18C    1716年(享保元年);8代吉宗による享保の改革(質素倹約による財政立て直し)    
   1772年(安永元年)田沼意次の改革による財政立て直し。  1776年アメリカ独立宣言  
   1783年(天明3年)浅間山噴火による天候不順、飢饉により、一揆や打ち毀しが発生し、田沼は失脚。1783年アイスランドのラキ火山噴火により、飢饉が発生し、フランスでは暴動から革命へとつながっていく。光格天皇が窮民救済で幕府に申し入れをしたことが、黒船来航時に天皇(孝明天皇)が幕府に意見をする前例となる。    
   1787年(天明7年)11代将軍家斉は、老中に松平定信を登用し、寛政の改革を実施。  1789年フランス革命  
19C            1804年(文化元年)ロシア使節レザノフが長崎に来日したが、幕府が通商を拒否。これが原因で、1806年(文化3年)ロシア軍艦が樺太の日本施設と船を砲撃。翌年、樺太、択捉、利尻島でも攻撃を受け、日露関係は緊張した。(日本が外国による軍事攻撃を受けたのは、1281年弘安の役以来)幕府がこの報告を朝廷にしたことが前例となり、後に幕府を苦しめることとなる。  英国・産業革命  1840年アヘン戦争
   1817年(文化14年)光格天皇は仁孝天皇(第120代)に譲位し、院政。    
   1833年(天保4年) 天保の大飢饉(1839年まで異常気象が続く)。このときも朝廷は幕府に窮民救済の申し入れを行う。今回は文書にて。    
   1837年(天保8年)大塩平八郎の乱;豪商の米の買い占めに対して暴動を起こす。1637年島原の乱以来の反乱であり、以後、幕府は締め付けを強化。    
   1843年(天保14年)老中水野忠邦は農村再建のため、人返しの法により、都市の農民を農村に帰し、農民が商業に手を出すことを禁じた。
幕府が改革をおこなっている頃、諸藩でも改革が行われ、薩摩藩では調所広郷が、長州藩では村田清風が、肥前藩では藩主鍋島直正が財政の立て直しを図り、また洋式砲術を採用し軍事力を強化した。改革に成功した藩は雄藩と呼ばれ、幕末の政局に大きな発言力を持つことになる。
   
   1846年(弘化3年)孝明天皇が15歳で即位(第121代)。祖父光格天皇の気概を引き継ぎ、朝廷の権威は上昇した。この年、外国の商船や軍艦が日本との交易を求めて渡来し、孝明天皇は幕府に対し、「海防の勅」を降す。(江戸時代で初めてであり、後醍醐天皇以来500年ぶり)続けて孝明天皇は文化の報告の先例を示し、外国船の渡来状況を報告するよう幕府に命じ、幕府はこれに応じた。以後、頻繁に報告を求め、意見をぶつけ、やがて幕府が身動きが取れなくなる。    
   1851年 土佐国中浜村の漂流民ジョン万次郎、米国船で琉球に着く。    
   1852年(嘉永5年)6月ロシア軍艦、漂流民を送って下田に来航。    
   1852年(嘉永5年)8月オランダの商館長が翌年の米国使節の来訪を予報。    
   1853年(嘉永6年)6月米国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリー率いる米国艦隊が浦賀沖に現れ、開国を求める国書を差し出す。    
   1853年(嘉永6年)7月老中阿部正弘、諸大名に米国書を示し意見を聞く。    
       
 日本幕末史関連年表  へつづく。
         
         
 19C  明治時代  日清戦争・日露戦争(1904~1905年)  ナポレオン戦争  
 20C  大正・昭和時代  第一次世界大戦・第二次世界大戦    日中戦争
 21C  平成・令和時代    EU統合  



資料   竹田恒泰 『天皇の国史』(PHP研究所)

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