概 略 |
527年 |
倭、任那(加耶)復興のため、近江毛野と兵6万を朝鮮半島に送るが、新羅と通じた筑紫国造の磐井が毛野軍を九州で止める(磐井の乱)*5 |
528年 |
物部麁鹿火(あらかび)、筑紫で磐井を討ち取る。*5 |
537年 |
大伴狭手彦(さでひこ)ら、朝鮮半島に出兵、任那(加耶)を鎮め百済を救う。*5 |
538年 |
百済 聖明王が日本に仏像等を伝える。 |
548年 |
高句麗が百済に侵入。倭は百済の築城を支援し、百済・新羅連合軍は高句麗を撃退。*5 |
554年 |
日本と百済の連合軍が新羅と戦う。百済の聖明王が敗死。*5 |
562年 |
倭、新羅征討大将軍紀男麻呂を派遣するも敗れる。*5 |
562年 |
大伴狭手彦、高句麗を破る。*5 |
570年 |
物部尾輿、仏堂を焼き、仏像や経典を難波江にながす。*5 |
584年 |
蘇我馬子、百済より贈られた仏像2体を仏殿に安置。*5 |
585年 |
物部守屋、仏像・仏殿を焼き払う。*5 |
587年 |
用明天皇、仏教に帰依するか群臣に問う。蘇我馬子は賛成、物部守屋と中臣勝海が反対。両者は兵を集めて対立。蘇我馬子・厩戸王(聖徳太子)が物部守屋を滅ぼす。仏教が信仰される。*5 |
591年 |
崇峻天皇、任那(加耶)復興の詔を発し、2万の軍勢を筑紫におくる。*5 |
崇峻天皇(32代)に飛鳥に宮都が置かれる。飛鳥時代はじまる。 |
592年 |
蘇我馬子、崇峻天皇を殺す。推古天皇即位。 |
593年 |
厩戸皇子(聖徳太子)摂政となる。高句麗僧慧慈、聖徳太子の師となる |
596年 |
飛鳥寺(法興寺)建立 |
600年頃 |
遣隋使を派遣。新羅に出兵。 |
601年 |
聖徳太子、斑鳩宮を造る。新羅征討の兵動員。来目皇子を撃新羅将軍とする。*5 |
602年 |
来目皇子が病に伏す。*5 |
603年 |
新羅再征を中止。冠位十二階を制定。 |
604年 |
十七ヶ条の憲法制定 |
607年 |
小野妹子を隋に派遣。聖徳太子、法隆寺建立に着手。 |
610年 |
高句麗僧曇徴、紙・墨・絵具の製法伝える |
618年 |
隋が滅亡。唐が興る。 |
この頃 |
律令国家を目指す。仏教伝来により、豪族が古墳に代わって寺を建てるようになった。 |
622年 |
聖徳太子(厩戸皇子)没。 |
629年 |
推古天皇崩御、蘇我蝦夷が山背大兄王を推す叔父を殺して、舒明天皇を即位させる。蘇我蝦夷が権勢をふるう。 |
630年 |
第一次遣唐使派遣 |
637年 |
蝦夷の反乱 |
641年 |
皇極天皇(女帝)即位。蘇我入鹿(蘇我蝦夷の子)が山背大兄王(聖徳太子の子)を殺害。聖徳太子の血流絶える。 |
645年
(大化元年) |
乙巳の変(大化の改新);中大兄皇子・中臣鎌足、蘇我入鹿をを殺害。蘇我蝦夷は自害。皇極天皇が譲位(日本初)し、孝徳天皇即位。初めての元号「大化」を定める。大化の改新により天皇への中央集権化進む。 |
646年
(大化二年) |
「大化の薄葬令」により豪族の古墳造営が禁止。土地と人民の豪族による私有をやめる「公地公民制」、戸籍の整備、班田収授法が定められ、中央集権国家を目指し、天皇と豪族の区別を明確化。 |
中大兄皇子が孝徳天皇と距離を置き、失意のうちに崩御。654年斉明天皇(皇極天皇の重祚)即位。 |
658年
(斉明天皇四年) |
阿倍比羅夫、蝦夷を討つ。 |
659年
(斉明天皇五年) |
出雲国造に命じて出雲大社を修造させる |
660年
(斉明天皇六年) |
唐・新羅連合軍が日本の友好国百済を攻め滅ぼす。百済の武将らから救援を求められ、援軍を派遣。 |
661年
(斉明天皇七年) |
中大兄皇子、大海人皇子らが百済救援に向かう |
難波に遷って武器と船舶を作らせ、斉明天皇は瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。遠征の軍が発する前のこの年斉明天皇は当地にて崩御した。以降、称制。 |
663年 |
白村江の戦い;日本・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に敗退。朝鮮半島への影響力を失う。九州など防人を置いて、防戦の備え。(唐・新羅連合軍は日本を攻めず、高句麗を滅ぼす) |