佐世保の現実は日本社会の縮図
前畑弾薬庫の危険度1(最大)のトンネル式弾薬庫
10月28日、佐世保平和委員会の山下千秋さんの案内で佐世保基地調査を行いました。浦頭を起点に、釜墓地、佐世保市が求めている「新返還6項目」の現地など10ヶ所余りを見て回りました。
浦頭引揚記念資料館で平田さんの話を聞く
【浦頭引揚記念資料館】
引揚の実情を知る唯一の語り部となった平田辰夫さんの話を伺った。
敗戦という形で戦争が終結した。北は樺太から南はオーストラリア北部というアジアの広大な地域に終戦当時約660万人の軍人軍属を含めた日本人が海外に展開していた。一番多かったのは中国北東部の満州。
実は中国からの引揚者の大半は米軍から提供されたLST(上陸用舟艇)で運ばれた。当時、日本の船は少なく、船会社も戦前に徴発された船が潜水艦に沈められた経験から貸そうとしなかった。結局、日本政府はアメリカに頼みこみ、100隻のLSTが提供されたのである。誰しもが一刻も早く日本に帰りたかったのでLSTはすし詰め状態だった。
昭和12年に浦頭の海岸に旧海軍の病院ができ、伝染病患者の隔離施設となっていた。消毒などができたので、戦後は引揚援護局検疫所がおかれた。引き揚げ者にはしらみなどが湧いていたので消毒をする必要があった。長い人で1週間、短い人で2,3日滞在して、引揚手続きを済ませて検疫を受けた後、7キロの山道を歩いて今のハウステンボス近くの旧針尾海兵団におかれた引揚援護局宿舎に収容された。(ここは後に警察予備隊が使い、次いで保安隊、陸上自衛隊、後に相浦に移転する教育隊が使用した)
約140万人の引揚者の多くは疲労困ぱいの極限にあった。佐世保にいる間にも約3800人が亡くなった。またフィリピンからは戦死した兵士の遺体約4800体も浦頭に引き上げられた。遺体は釜墓地、安久ノ浦・牛ノ浦海岸で何ヶ月もかけて焼いた。
平田さんは、資源のない日本に残されたのは技術と外交力だけ。外交で戦争をしないで済むように、皆さんに期待していると訴えた。
【針尾家族住宅地区】
前畑弾薬庫の返還の条件として針尾弾薬庫への機能統合と400戸の家族住宅の建設を米軍は要求している。米軍はもともと前畑の機能を針尾に統合し、その跡地に住宅を建設するつもりだったようだ。住民要求を逆手にとり、前畑を返還することで、すべて日本の税金で賄おうととしている。防衛省によると400戸の住宅建設には現在地に隣接する土地を提供するようだ。
基地内の光熱水料はすべて国民の税金でまかなわれている。米軍の水道使用量は87年当時は1日あたり841トンだったものが年々増加し、昨年度は2150トンと20年間で2・5倍に増えている。
【針尾弾薬庫周辺】
針尾弾薬庫の機能拡張をめぐって地域住民への説明会が開かれている。米軍は現在、弾薬の陸上輸送の場合、途中に狭いトンネルのあるメインゲートへの道路を利用している。住民からは「弾薬輸送車が学校のある集落を通るのは危険」として迂回道路建設の要望が出ている。これを目当てに周辺の土地の先行買い占め疑惑が生じているという。予想されている北側のルートは土地がでこぼこで何十億円という道路予算が必要になるとも言われている。ここにも軍事にかかわる利権がらみの構図が見えてくる。
【インターチェンジ建設現場】
米軍メインゲート前にできる高速道路のインターチェンジ建設のために労働福祉センター、保育園、九州文化学園、民家などが転居を余儀なくされた。米軍将校住宅8棟は国土交通省の費用28億円をかけて建設した代替住宅へ移転した。
また米軍基地・自衛隊施設周辺の高架はテロを受ける可能性があるとして「シェルター」付きとなる。佐世保市民を敵視しているも同然だ。
【SSK第3ドック】
米軍が必要なときに無償で使用できるという協定がSSKとの間で結ばれている。これをたてに強襲揚陸艦の修理で一触即発の事態に陥ったことがある。その時は政府が国民の税金を投入して修理用ドックを調達することで回避した。
この協定を国民生活にまで広げたのが有事法制だ。有事と認定されれば米軍・自衛隊が必要といえば国民の財産を徴発できる仕組みができてしまった。自衛隊は日米共同訓練、海外派兵で戦争技術を磨いている。あとは憲法9条を変えるだけというところまで状況は来ている。
山下さんは「佐世保の現実を見たら今の日本の政治や社会の到達点が一番よく分かる」と述べ、最後に佐世保を一望できる石岳展望台へ連れて行ってくれました。
米軍専用の新岸壁にはすでに盛り土が行われている
赤崎貯油所内の「油汚染疑惑」の土砂が消えている!
やはり新岸壁の埋め立てに使用されたのか。
【参加者の感想】
地域の人々が声を上げたことを聞き、少しずつでも状況を変えることができるんだなと思いました。しかし一方で、その地域の声を巧妙に利用して基地強化を行う米軍とその言いなりになる日本政府には本当に腹立たしいと感じました。
石岳展望台からの景色は、天気もよく、小さな島々がきれいに見えました。でも、その中に多くの軍事施設があり、世界のあちこちの戦争に加担していると思うと、素直に景色を楽しむ気持ちにはなれませんでした。
また、浦頭引揚記念資料館でお話を聞いたとき、これからの日本は外交が大切だと言われたことがとても印象的でした。一人々がどうしたら戦争をなくせるか、他の国と平和的に付き合うにはどうしたらいいか、と考えることが重要ではないかと思いました。
一番驚いたのは、有事を想定して高速道路を市内一等地まで延長し、そのICを作るために公共施設や学校、民家まで大規模に移転させている現状を目の当たりにしたことです。これほど住民生活や景観を無視した都市開発は行政の基本姿勢として批判されるべきです。住民のためではなく、あくまで米軍に歩調をあわせる国・地方の矛盾が示された場所でした。
また敗戦後、引き揚げてきた多くの日本人たちの歴史を葬るような、負の遺産を出来るだけ消し去ろうとする行政の策動が佐世保でも進行していることは看過できません。沖縄戦を空洞化させようとする動きなどとあいまって見ていかなければと思いました。
浦頭に引き揚げたフィリピン・レイテで亡くなった遺体四千体余りを3ヶ月かけて焼いた場所(牛ノ浦、安久ノ浦など)は現在の米軍針尾弾薬庫。そこで焼かれた人達は、またここから戦場へ命を奪う爆弾がおくられるなんて思っただろうか。
米軍住宅では、こんなお天気の日に洗濯物がどこの家にも干していないことに驚いた。「全部乾燥機さ」と誰かは言ったが、その電気代も私達の税金だ。
石岳展望台から一望に見た佐世保の姿をこれ以上戦争の町にしないためにも、日常から小さな動きを弛まず続けていくんだと新たに胸に誓った。