谷亮子だけは当選させたくない

2010年6月20日

おじさんにしては過激なタイトルを付けてしまいましたが、谷亮子が嫌いなわけではありません。柔道家としての谷亮子は素晴らしいと思っています。しかし、彼女が参議院選挙に立候補することには大きな疑問を抱いています。

2007年参院選で自民党から出馬要請を受けたサッカー選手の三浦知良は、、「僕はサッカー選手。政治のことは分からない」 (朝日新聞 2010年5月11日 メダリスト・プロ野球…参院選候補者、頼みは有名選手) と断ったそうですが、谷亮子には政治への関心と政治家としての資質があるのかもしれません。しかし、「現役はもちろん続ける。ロンドン五輪で金メダルをめざす」 (同) という谷亮子の考えは理解できません。

オリンピックに選ばれるためにはいくつかの試合で結果を出す必要があるはずですが、その試合と国会などが重なった場合はどちらを優先するのでしょうか。「『柔道は続けます。練習が優先』発言!アルバイト感覚の政治意識の低さにア然!」 (日刊芸能エンタンテ 2010年5月11日) という記事も目にしました。その発言が事実かどうかは分かりませんが、本当にその程度の意識だったとしたら、私たち国民は相当バカにされているのでしょうね。

しかしこれは谷亮子個人の問題ではなく、有名人で票を稼ぎたいという政党の問題だと思います。これまでの選挙でも有名人が桁外れの票を得ていることがあります。その票のためにその政党の議席が増えるわけですので、選挙の方法こそが問題なのかもしれません。

「政治家検定」<2009年6月30日>は比較的最近考えたことなのですが、投票に行きだした若い頃からずっと一つの案を持っています。そのきっかけとなったのは、投票したいと思える人がいなかったことです。そしてその案への思いが強くなったのは、金の問題などで政治家としてふさわしくないと思われる人が当たり前のように当選するのを見せつけられたからなのです。

若い頃から持ち続けたその案というのは落選票(マイナスに作用する票のことを仮に落選票と表現します)を投じるというものです。いろいろな方法が考えられますが、これまで通りの投票か、落選票かのどちらかを選択する方法が現実的でしょう。

具体的には当選させたい人(党)の名前を書いて「(なくてもよい) を付けるか、当選させたくない人(党)の名前を書いて、その下に「×」(必要)を付けるのです(両方の欄を作っておいてどちらかに書く方法も取れるが、よく理解していない人が間違って両方に書くことも考えられます。また、落選票を投じたい人は「×」を付ける必要性も理解していると思われます)

そして当選票は +1、落選票は −1として集計します。つまり当選票の数から落選票の数を差し引いたものがその人(党)の得票となるのです。

例えば谷亮子の当選票が100万票で、落選票が150万票だったとすると、谷亮子の得票は −50万票ということになります。その得票は民主党の得票に反映されるので、民主党は50万票も減らすことになり、有名人での票集めが有効な手段ではなくなるのです。

ここまで極端でないにしろ、落選票があるということは、有名人候補の是非だけでなく、その党の政策なり個人なりへの信任の度合いも測ることができるでしょう。例えば今話題の消費税増税を進める人には落選票を、あるいは逆に消費税増税に反対する人には落選票を投じるというように、国民がもっと積極的に政治に参加できると思うのです。

いくら、「谷亮子だけは当選させたくない」と思っても、現実にはその手立てがないのですから。

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