開演の鐘

 

ペトロ 晴佐久 昌英

2020年8月8日、ついにコンサートに行ってきました!
東京文化会館で開催された、テノールリサイタルです。
私にとっては、まさに「ついに」です。
この日を、どれほど待ちわびたことか。
劇場を訪れるのは、思い起こせば2月19日にオペラの椿姫を聴きに行って以来ですから、ほぼ半年ぶりです。
奇しくも会場はどちらも上野の文化会館で、今回歌ったテノールの山本耕平と半年前に椿姫を歌ったソプラノの大村博美はどちらも大変親しい友人ということもあり、なにか特別なめぐりあわせを感じます。
お気づきとは思いますが、私は大の舞台ファンです。あえて「舞台」と言ったのは、ジャンルを問わず舞台であれば何でも好きだからです。
オペラはもちろん、クラシックのコンサートから、ポップスのアリーナツアー、ライブハウスでの公演、ミュージカルも演劇も小劇場も、なんでもです。
当然、年間を通してさまざまなチケットを予約しているわけですが、コロナ禍のこの半年、いったいどれだけの公演中止に泣いたことでしょうか。
サントリーホールでの諏訪内晶子のチャイコフスキーも、ロン・ティボーコンクールのピアノ1位2位日本人独占のガラコンサートも、セカオワのドームツアー2日間両日のチケットも、すべては儚い夢と消えていきました。
いつ終わるとも知れぬ、受難の日々。
そんな四旬節を潜り抜けて、私にとっては舞台の復活祭ともなったその日、東京文化会館の美しいロビーを抜け、二重扉からホールに入り、久しぶりにあの布張りの椅子に座った時の気持ちを、分かっていただけるでしょうか。
開演前の静かなざわめきを久々に味わっていると、ふいに開演5分前を知らせるチャイムが鳴りました。
なんということのない、ごく普通の予鈴です。
しかし、今までも何度となく耳にしてきたはずのその音を聞いた瞬間、思わず涙をこぼしそうになりました。
そうか、ぼくはこれを聞きたかったんだ。
人々に夢の始まりを告げ知らせる、希望の鐘を。
やがて客席は暗くなり、歌い手が登場して拍手が起こります。
歌い手は舞台の中央で一礼し、場内は静まり返ります。静寂の中、彼は目を閉じて動きません。
5秒、10秒。ふと目を開けると、その唇が開き、最初の一音が流れ出します。
宇宙のしじまを破る創造主の吐息のような澄んだ波がホール全体に響きわたり、そこに居合わせた幸いな魂を震わせます。
舞台の魅力は、「なま」にあります。ステージの上で生身の人間が、二度とない今日という日に、自らのすべてを捧げるかのように歌い、弾き、演じます。
客席でも生身の人間が、人生で一度きりの体験として、自らのすべての感覚を研ぎ澄ませて聴き、見つめ、感動します。そのとき両者は、人間の内に秘められている真の美しさが顕現する瞬間を共有するものとして、永遠に結ばれているのです。
それはもはや聖なる儀式であり、ある意味いのちがけの行為でもあって、これは「なま」以外にはありえません。
世はリモートばやりで、オンラインミサとか、ズーム会議とかが花盛りですが、それらが増えれば増えるほど、いっそう「なま」の聖性が輝き出すのではないでしょうか。
思えば、イエス・キリストは究極の「なま」を生きた人でした。
キリストとは、天の父が愛する神の子たちに直接語るために開いた神の口であり、直接抱きしめるために直に伸ばした神の手そのものだからです。
イエスのなまの声を聞いた人は、神の声を聴いたのであり、イエスから直に触れられた人は、神に触れられたのです。
とはいえ、その地上での「なま」も、天上での「まことのなま」の先取りにすぎません。
私たちキリスト者があこがれてやまない「永遠のいのち」とは、この「まことのなま」のことです。
確かにミサはとても「なま」な体験ですが、実はそれも、天上の「なま」の前触れにすぎません。
驚くべきことにわたしたちは、いつの日か、神に「なま」で触れるのです。
まだまだ聖堂に来ることのできない人も、受難の日々をもう少し耐えてください。
そうして、心を静めて「なま」の耳を澄ませてください。すべての魂を震わせて、もうすでに鳴り響いているはずです。
夢の始まりを告げる、神の国の開演の鐘が

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