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45:庄野

東海道を歩く (45:庄野宿) 8km



(写真は当時の高札の現物)

庄野宿は、安藤広重が描く「庄野の白雨(はくう)」でよく知られています。



白雨とは、昼間の夕立のことで、雨宿りの場所を探して走っている旅人が描かれた、
激しい夕立を見事に表現しています。

住所でいうと、鈴鹿市庄野町です。



車の通行もなく、写真の様に静かな通りで、散策には快適です。



江戸時代は油屋であった旧小林家が庄野宿場資料館として公開されています。

庄野町に残る膨大な宿場町関連の資料の活用を図り、併せて旧小林家の保存を進めるため
主屋の一部を創建当時の姿に復元し、平成10年に開館したそうです。

館内には、庄野宿の本陣・脇本陣文書、宿駅の関係資料をはじめ、地域の農具などを展示
しています。


他に観光客も無く、上品なおばさまが、丁寧に説明してくれましたので、ついつい長話を
してしまいました。

その説明によると、庄野宿は小さな宿場町でしたが、往時の面影を残しています。

戦災を免れたため、江戸時代のままの町割りで、道幅が少し広がった程度で、他は何も
変わっていないそうです。



庄野町役場には、戦災を免れた千数百点もの膨大な庄野宿に関する資料が保存されている
そうです。

そして、この菜種油の商人だった小林家の周辺は、昔は、菜の花の畑だったそうです。

庄野は、東海道でも遅くに出来た宿場町で、もともと貧しい土地柄だったこともあり、
江戸時代は、この宿場町を素通りする旅人が多く、宿場町の経営は大変だったそうです。

"ウ〜 〜 〜 〜ゥ!"

おばさまの説明中に、突如、町中に鳴り響くサイレンの音が!!

緊急事態発生?津波??

”驚かないで! 

11時のサイレンなんですよ。”

え〜っ!、 時報だったら、何か音楽のメロディでも流したら?

何事が発生したのか!、心臓に悪いです。

都会に住んでいる人間は驚きますよ・・

冒頭の写真の高札は、撮影禁止なのですが、特別に、フラッシュをたかないという条件で、
おばさまの許可を得て撮影したものです。

巨大な檜の一枚板の江戸時代の高札の現物です。

写真の様に、黒い文字が浮き上がって見えるので、字を彫ってある様に思いました。



しかし、おばさまの説明によると、昔の高級な墨は、ニカワを混ぜてあるので、文字の部分
だけが風化せずに、綺麗に残っているのだそうです!

すごいですね!


資料館を出て、旧東海道沿いの本陣跡、脇本陣跡、問屋場跡、会所跡、高札場跡などを
見てから、庄野宿を抜けて亀山宿へ向かいます。





写真の「従是東神戸領」(これよりひがしかんべりょう)の碑、中富田一里塚、川俣神社を過ぎ、
JR井田川駅に着きました。





今日の目標は、亀山宿ですが、今晩中に横浜に帰りつくには、そろそろ戻らないといけません。

JR関西線・井田川駅から、名古屋で東海道線に乗り換え、豊橋、浜松、興津、沼津、熱海と
乗り継いで横浜へ戻ります。




庄野宿から亀山宿まで約8キロです。

(但し、庄野宿から井田川駅までは約3キロです。)


バスで行く東海道「第9回-1」(庄野宿〜亀山宿) 2012.12.8


「45:庄野宿」


「庄野宿」石碑が立っていますが、ここが宿場の出入口になります。





庄野は、格子窓の民家が点在し、少し寂しい感じだけど落ち着いた町です。





(本陣跡)



写真の油問屋だった旧小林家である庄野宿資料館に入ります。



一人旅のときに、丁寧に説明して頂いた上品なおばさまが、バス旅行でも、また説明してくれます。



バス旅行の人からの質問もあり、話題の中心は、庄野宿名物の”焼き米”になりました。

庄野の宿場の江戸時代の名物は、写真の小さな「米俵に詰められた焼き米」だったそうです。



そのまま”ポリポリ”と食べることができ、また、お湯を注いで食べることもでき、現代で言うと、
インスタント食品・保存食です。


焼き米の製法は、米を籾(もみ)のまま煎り上げ、これを押しつぶした後で、籾殻を除いたそうです。

下の写真は、資料館に展示されている「焼米」を包む米俵を編む器具です。



宿外れの川俣神社にあるスダジイは、樹齢数百年の巨木です。





44:石薬師
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