本文へジャンプ
32:白須賀


東海道を歩く (32:白須賀宿) 6km



(写真は潮見坂)

旧東海道は、新居宿を抜けて、美しい松並木を過ぎると、やがて始まる急な坂が、東海道の難所
だった潮見坂です。



白須賀の名前の由来は、白い砂浜の意だということですが、その昔、海岸にあった白須賀宿は、
江戸時代に、大地震の津波による被害を受けて、現在の高台に移転したそうです。

そのために、旧東海道は、白須賀宿に近づくと、急な登り坂になります。



旧東海道を歩いていて気が付いたのは、吉原など、江戸時代の地震や津波で、海岸部から
内陸部へ移動した宿場町が多いことです。

そして、また東海大地震は、この東海道にやってくるのでしょうか?

坂の途中からの眺めは、眼下に雄大な遠州灘が広がる遠州路で随一の絶景で、広重も描いた
東海道の名所だったそうです。

京から江戸へ向かう旅人は、この坂の上に立って初めて、太平洋と富士山を見て感動した
そうです。

え?

と言うことは、これから先、京都まで海が見られないということ? ガッカリ!

潮見坂の途中で、坂からの眺めの写真を撮ります。この坂を、後ろ歩きで登って来る
おばあさんが、写真を撮っている私に気が付かずに、ぶつかりそうになりました。

私は、慌てて、”こんにちは”と声を掛けましたが、いきなり後ろからの声だったので、
おばあさんはびっくりした様子でした。

”気が付かずに失礼しました”、と恥ずかしそうにして、今度は、前向きで、坂を登って行きました。
私も、後ろ歩きで、景色を見ながら、坂を登りたい気持ちは良く分かります。

冒頭の写真はその時のものです。

写真を撮り終えて、坂を登り始めると、野菜の袋を提げて、坂を下りてくる先程のおばあさんに
再会しました。

坂の上の100円の無人販売機の野菜を買い行ったみたいです。

おばあさは、恥ずかしそうに、”先程は失礼しました。”

と、丁寧に頭を下げて行きました。



「東海道中膝栗毛」では、弥次さん喜多さんが、新居宿から駕籠に乗り、潮見坂に
さしかかった時の話が出て来ます。

喜多さんが、潮見坂からの大海原の絶景を眺めていると、駕籠屋が、”向うの山に鹿がいる
のが見えますよ”と教えてくれます。

そこで、喜多さんが、”お前達には、聞かせても、分からないだろうが、一首、出来た。
”と言って詠み聞かせます。

”おく山に 紅葉ふみわけ なく鹿の 声きく時ぞ 秋はかなしき”

その時は春なのに、駕籠屋は、”すばらしい”、とほめ讃えます。

気分を良くした喜多さんは、次の茶屋で、駕籠屋に酒をおごります。

すると、駕籠屋は、その茶屋に居た仲間3人に、”おい、猿丸太夫(先程の和歌の作者)様の
おごりだぞ!”と言って酒を振る舞います。

喜多さんは、すっかり落ち込んでしまいます。

潮見坂を登り切ると白須賀宿です。

高台の白須賀宿からは、雄大な遠州灘が一望出来ます。



本陣跡などの碑と案内板があり、宿場町の雰囲気を残す民家が点在しています。



でも、現在もそのまま人が普通に住んでいるので、見学は出来ません。

宿場町の入口の道は、直角に曲げられており(曲尺手)、下の写真は、その直角に
曲げられた道の説明板です。

説明板によると、その目的は、軍事的な役割の他に、大名同士が、かち合って、トラブルに
なるのを避けるため、お互いの行列が直接見える前に、お互いに偵察を、曲尺手の先に
出して、一方が、最寄りのお寺に緊急避難するのに利用されたそうです。



白須賀宿を抜けると、遠江の国(静岡県)と、三河の国(愛知県)の国境に境川という川がある、
とガイドブックに書かれているのですが・・・

しかし・・・

境川が無い・・?

気付かずに通り過ぎた?

そんなことは・・・

まあ、いずれにせよ、この辺りが、遠江(とおとおみ)の国(静岡県)と、三河の国(愛知県)の
国境のハズです。

あまりパッとしない国境越えですが・・・まあいいか。

とにかく、やった〜!

やっと、愛知県まで来たゾ!

「遠江」(とおとおみ:静岡県)に対応する地名は、近江商人で有名な「近江」(おうみ:滋賀県)
です。
京都からみて、近くの湖が「近江」(琵琶湖:滋賀県)で、遠くの湖が「遠江」(浜名湖:静岡県)だ
そうです。

なるほど!

江戸時代以前の地名の由来は、京都が中心ですものね。

それから先は、広大なキャベツ畑の中の単調な国道1号を、二川宿へ向けて、約4キロひたすら
歩きます。



白須賀宿から二川宿まで約6キロです。




バスで行く東海道「第7回-1」(新居〜白須賀宿)2012.10.6



「32:白須賀(しらすか)宿」




浮世絵は、遠州灘を臨む絶景として有名だった汐見坂です。

白須賀宿の周辺では、東海道は、ほぼ海岸沿いでしたが、江戸時代の地震・津波により壊滅した
ため、宿場町を汐見峠の坂下から坂上に移転しました。

移設は江戸中期で、新しい宿場町の中央は、下の写真の様に、わざと道を曲げて先が見えない様に
する曲尺手(かねんて)を入れて、”大名行列同士の鉢合わせ”を防ぎました。



これは”大名行列同士が鉢合わせ”した場合、禄高の低い方の大名は駕籠から降りて挨拶しなければ
ならなかったからです。

お供の侍は、主君にそのような事をさせないために、曲尺手に斥候を出して、先方に
禄高の高い大名行列が見えたら、主君を近くのお寺に緊急避難させたそうです。

なるほど!

宿場町の中は、ホントにお寺の数が多いですものね。

宿場の通りに面した家は、大名行列を二階から見下ろせない様に、写真の様に、二階には窓が
ありません。



白須賀宿は、秋祭りの準備の真っ最中でした。





31:新居
           00:目次へ戻る