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31:新居

東海道を歩く(31:新居宿)7km




(写真は、新居関所の役人)

舞阪宿の船着き場跡から、浜名湖を横切る専用歩道橋を歩いて、下の写真の新居(あらい)宿の
船着き場跡に着きました。





江戸時代は、新居で渡しの舟を降りると、すぐ目の前が新居関所だったそうです。



新居関所は、由比正雪の乱以降は、鉄砲の持ち込みのチェックを目的としたそうです。

(由比正雪の乱については、10/18付のブログを見てね)

関所の建物が残っているのは、旧東海道では、新居だけで、国の特別史跡だそうです。



冒頭の写真と前の写真は、新居関所の当時の役人による検問の様子を再現した人形です。

関所の近くに、江戸時代の旅籠の紀伊国屋が公開されていました。(関所と合わせて400円)



紀伊国屋の主は紀州の出身で、紀州藩関連の泊り客が多かったらしいです。



(風呂場には、何故か、由美かおるの写真が?)



また当時、宿の食事のウナギの蒲焼きが好評だったということです。

お昼は、新居宿で浜名湖のうな重を食べました。

更に進むと、下の写真の飯田本陣跡の古い建物に突き当たりますが、この建物には、
今も人がそのまま住んでいましたが、本陣の末裔の人だそうです。






今、「古着屋総兵衛 影始末(1巻〜11巻)」(新潮文庫:佐伯泰英著、各740円)の第5巻「熱風」を
読んでいます。

以下がそのストーリーです。

江戸で、突如、伊勢参りが流行しはじめます。

幕府の隠密である主人公の総兵衛は、この集団での伊勢参りをあおる黒幕を求めて、
東海道の宿場町を西へ向かいます。

”総兵衛一行は、岡部、藤枝、島田宿と進み、大井川を渡った。

さらに金谷、日坂、掛川、袋井、見附、浜松とたどって、舞坂で、浜名湖を横切る渡しに乗り、
新居宿に上陸”更に、伊勢を目指して西行を続けた。

このシリーズの第2巻も、”仇打ちのために、江戸へ向かう赤穂浪士を切れ”という密命を
受けた総兵衛一門が、東海道の各宿場町に散らばって、赤穂浪士達を待ち受けるという、
東海道53次の宿場町を舞台にした時代小説です。

最近は、この小説を読みながら、東海道53次を歩いていますが、ウォーキングに臨場感が
加わって、非常に楽しいです。

旧東海道は、新居宿を抜けて、所々に美しい松並木の続くなだらかなカーブの道を西へと
進みます。



更に歩いてゆくと、まもなく始まる急な坂が、東海道の難所であった潮見坂で、白須賀宿の
入口です。

新居宿から白須賀宿まで約7キロです。



バスで行く東海道「第7回-1」(新居〜白須賀宿)2012.10.6


「31:新居(あらい)宿」



浮世絵は、今切(いまぎれ)の渡しで、舟が舞阪から新居の関所へ向かっているところです。

この「今切の渡し」を「一里の渡し(4km)」と呼び、宮(名古屋)と桑名(三重)の渡しを
「七里の渡し(28km)」と呼んだそうです。

皇女和宮(NHk”大河ドラマ篤姫”では堀北真希)は、徳川家茂(同上:松田翔太)への降嫁の際、
当初は、東海道を通って江戸へ行く予定でしたが、婚姻に「今”切(きれ)”」は縁起が悪い、
という事で、中山道に変更になったそうです。

ところが、中山道も「離れ山」や「追分」といった縁起の悪い地名がありました・・・

そこで、何と!!

「離れ山」は「子持ち山」に、「追分」は「相生(あいおい:夫婦和合の意味)」に地名を変えてしまって
から中山道を進んだそうです!
驚き!!



写真は、新居関所の船着き場です。

舟が舞阪から新居の関所に着くと、旅人は、そのまま関所の中へ向かわざるを得ません。

下の写真は、関所で一番偉い役人の「番頭」ですが、”番頭(ばんとう)”ではなく、
”番頭(ばんがしら)”と読みます。



Q.説明の人の話によると、関所では、武士に交じって、町人が下働きをしていましたが、
町人と武士の区別は、頭で見分けられるそうです?

 さて、その方法は?

A.写真の白装束が町人で、黒装束が武士です。

  では、違いが分かります?

正解は、町人は髪が耳にかかり、頭の後ろの髪が膨らんでいるのに対し、武士は髪から
耳が出ていて、頭の後ろの髪が膨らんでいないところで見分けるそうです。

白と黒の装束ではありませんよ。





新居関所は江戸からみて最も遠く(最も西)にある関所です。

関所は、西軍の残党の進軍から、江戸を防衛することが目的なので、ここより更に西は、
江戸から遠すぎて防衛の必要がないから関所も無いのだそうです。

同様の理由で、ここより更に西の川には、全て橋が掛けられていたそうです。

ちなみに、東海道の三大大橋は全てここより西側にあります。

新居の関所は、全国で唯一現存する建築ですが、海岸にあることから、江戸時代にも、度々
津波に襲われ、3度も移転し、4度も立て直したそうです。

明治2年に関所の取り壊し命令が出た際、まだ新築だったので、そのまま役場に転用されたため、
全国で唯一現存する関所として残ったのだそうです。

下の浮世絵は大名行列ですが、通常、旅人に土下座させている関所の役人が、この場合は、
身分が逆転するため、関所の役人が土下座する中を、大名行列が新居関所を通過しています。



下の写真は、関所の正門です。

関所が開いていたのは、明六つ(朝6時)から暮六つ(夕方6時)の12時間でした。



30-2:浜名湖
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