本文へジャンプ
甲州街道を歩く( 38:上諏訪)(長野県諏訪市)  2021.11.20




(写真は、上諏訪が蔵元の日本酒の「呑み比べセット」)


 

「上諏訪宿」は、諏訪大社の門前町、そして高島藩諏訪氏3万石の城下町として栄えた宿場町です。

上諏訪宿は、本陣1、問屋1、旅籠14軒でした。

 



上の写真の元町交差点の辺りが上諏訪宿の東口で、ここから二筋に分かれますが、両筋とも上諏訪宿の町並みです。



この分岐点に写真の「十王堂跡」の碑があります。

説明版によると、高島藩の「初代藩主・諏訪頼水」の娘の「亀姫」は、頼水にあてた手紙(嫁ぎ先で起きたトラブルを告げ口)を、
使いの下男に届けさせました。


ところが、この使いの下男は、手紙を届ける途中で、隣の下男と喧嘩になり、カッとなった隣の下男は、手紙を川へ投げ捨ててしまいました!

正気に戻った隣の下男は、後難を恐れ、諏訪家の菩提寺である永明寺に逃げ込みます。

怒った藩主の頼水は、この下男の引渡しを寺に要求しましたが、僧侶は治外法権の特権を楯にこれを拒否しました。

すると、業を煮やした頼水は、寺を焼き払い、この下男の首を刎ね、この辺りに捨てました。  

また、この時にかくまった僧侶達も、有無を言わせず処刑しました。

宿場町の人々は、この下男の祟りを恐れ、お堂(十王堂)を建てて、亡者の裁きをするという十王をここに祀りました。

う〜ん!、まるで織田信長の比叡山焼き討ちの縮小版の様な残酷な事件です!



街道は、角間川を「角間橋」で渡ります。















 

街道沿いには、上の写真の1765年創業「銘酒 本金」の「本金酒造」(蔵元酒ぬのや)があります。



本金酒造の向いには、上の写真の「銘酒 横笛」の蔵元「伊東酒造」があります。



その先には、上の写真の1789年創業の「銘酒 麗人」の蔵元「麗人酒造」があります。



更に、上の写真の明治27年創業の「銘酒 舞姫」の蔵元「舞姫酒造」もあります。

この辺りの蔵元の仕込みの水は、霧ヶ峰高原の伏流水を使用しているそうです。













街道を進んで行くと、写真の「鍵之手」という、「枡形」のズバリそのままの名称の交差点がありました。





この鍵之手交差点を左に入ると、写真の「教念寺」があります。

教念寺の絹本著色羅漢像は、国の重要文化財だそうです。

 

お昼時になったので、写真の割烹「いずみ屋」に入って昼食を食べます。

写真の「信州づくし」(1.750円)と、「呑み比べセット」(700円)を注文しました。



信州づくしは、写真の様に、馬刺し、わかさぎフライ、鯉から揚げ、信州そばです。



昼間から日本酒の呑み比べセットを飲んで、ほろ酔い気分で、午後の街道歩きをスタートです。  







街道沿いの諏訪中央駐車場の辺りが「問屋場跡」です。

この問屋場は、代々、小平家が主を勤め、本陣も兼ねていました。   



次の交差点を右に入ると、上の写真の「精進湯」跡がありますが、説明版によると、精進湯は、諏訪四湯(虫湯、小和田の平湯、湯の脇の平湯)
の一つだそうです。 




この先にある手長神社の参拝者が、この湯で身を清めたところから、精進湯と呼ばれたそうです。 

しかし、残念ながら、この精進湯は、平成29年に営業を終了しました。



諏訪1・2丁目の交差点の先に、登録有形文化財の上の写真の「三村貴金属店」があります。









次に、諏訪1丁目の交差点を右折します。









街道沿いに歩いて行くと、上の写真の大きくて見事な松が見えました。

近づいてみると、説明版がありました。

それによると、この松は、「吉田のマツ」と呼ばれ、高島藩士の吉田式部彦衛門が、4代藩主の諏訪忠虎の大坂城守備に随行した際に
持ち帰ったものだそうです。






 



旧甲州街道を進むと、左手に、「下桑原の一里塚跡」があります。

西の塚の塚木は榎でしたが、東の塚には塚木がなかったそうです。



以下には、”赤丸印が付された写真”が、度々、出て来ますが、この赤丸印は、全て「自宅用の温泉のタンク」です。

(自宅用温泉タンクの説明は、「甲州街道を歩く・金沢宿から上諏訪宿へ」を見てね。)

 







更に進んで行くと、左手に、上の写真の指月庵(しげつあん)の駐車場があります。

高島藩の藩主が、菩提寺である温泉寺に墓参りに行く際に、ここ指月庵を休憩所としたそうです。

指月庵の駐車場の前がY字路になっていますが、旧甲州街道は左折します。



右折すると、高島藩の菩提寺である温泉寺への上り坂の参道です。

 

旧甲州街道を進んで行くと、右手の奥に、日本三霊山の一つの白山の「白山神社」があります。

   

   





 

更に進むと、右手に、写真の「先宮(さきのみや)神社」があります。



 

拝殿の横の大ケヤキは、樹齢690年の古木です。



この神社の参道口の用水には、橋が架かっていません?



説明版によると、諏訪大社の神が、この地に鎮座した際に、この神社の神様が抵抗しました。

このため、この神社の神様は、この境内から出ることを永久に禁じられました。

そのために、今でも、神社の前の用水には、橋が架けられていない、とあります。



境内のには、1628年建立の男女双体道祖神が祀られています。

   

先宮神社を出て少し歩くと、空洞になった「大ケヤキ」がありました。



大ケヤキの近くに写真の「男女双体道祖神と津島牛頭天王」がありました。









この辺りは、蔵のある家が多いです。





   











更に旧甲州街道を進んで行くと、「諏訪湖」が棚田の上に全景を現わしました!





 

甲州街道のゴールの「下諏訪宿」まであと徒歩20分です!



長かった5街道踏破の瞬間が近づいてきます!

 





街道の左手に、写真の「茶屋 橋本屋」跡があります。



   

橋本屋の桁には、写真の赤丸印の様に、鯉の彫刻が施されています。



諏訪湖で獲れた鯉の料理が橋本屋の名物で、高島藩主も、わざわざここまで出向いて賞味したそうです。 



建物の左手の門は、高島城の三の丸の門を移築したものです。







橋本屋の向いの「元気もりぞう」は、郵便ポストを木で覆っていました。

 


甲州街道のゴールの「下諏訪宿」まであと一息です!



少し歩くと、下諏訪町の消防団の先に、写真の「男女双体道祖神」がありました。











 

赤丸印は「自宅用の温泉のタンク」です。







 



訪湖を左に見ながら進むと、山側に上の写真の「南信八名所 石投場碑」があります。

説明版によると、江戸時代には、諏訪湖がこの真下まで迫っていたので、旅人は、ここから湖面に石を投げ、打ち興じた、とあります。

この石投場碑の横には、「明治天皇駐輦(ちゅうれん)址碑」があります。

明治13年、明治天皇巡幸の折、明治天皇は、ここから漁師達の投網をご覧になりました。

   





少し歩いて、高木地区から富部地区に入ると、「富部の一里塚跡」があります。



日本橋から53里目(212キロ)で、甲州街道の最後の一里塚です。

塚木は榎でした。





ゴールの「下諏訪宿」まで、残り1キロです!



写真の「承知川」を承知橋で渡ります。





説明版によると、1561年、武田信玄が川中島の戦いに挑む際に、諏訪大明神に戦勝を祈願しました。

その際、社殿の建替を建立することを約して出陣しました。

しかし、戦いは不利になり、その帰途、この橋を通過しようとしました。

すると、信玄が乗っていた馬が頑として動きません。 

そこで、信玄は、ふと、諏訪大明神との約束を思い出しました。

信玄は、馬から下りて、「神のお告げ 承知仕り候」と言って、この橋を渡りました。

以来、この川は「承知川」と呼ばれるようになった、とあります。



承知川の先の右手の擁壁に、上の写真の様に、当時の承知橋の一枚岩が組み込まれ、保管されています。

この一枚岩の模様は、信玄の埋蔵金の隠し図だそうです。

ホントかな〜?

この一枚岩の並びに、1枚上の写真の左側に見える「承知地蔵尊」が安置されています。

明治の中頃、承知橋付近から掘り出されてここに安置されたそうです。

更に、旧甲州街道(国道142号)を進んで行くと、遂に、右手に「諏訪大社 下社秋宮」が見えました!



この諏訪大社の御柱は、7年毎に立て替えられる御神木で、社殿の四隅に立っています。

(諏訪大社下社秋宮については、「中山道を歩く・和田峠」を見てね。)





旧甲州街道は、国道142号から分かれて、この諏訪大社の脇道へ入って行きます。



江戸時代には、この脇道の突き当たりに番屋がありましたが、この番屋からが「下諏訪宿」でした。

下諏訪宿に到着です! 

上諏訪宿から下諏訪宿までは約6キロです。