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甲州街道を歩く( 37:金沢)(長野県茅野市)  2021.10.28




(写真は、「義民・小松三郎左衛門」が若くして処刑された場所に置かれた「如意輪観音」。)

 

 



早朝に、甲府駅前の「ホテルクラウンヒルズ甲府」を出て、甲府駅から中央本線に乗ります。



車窓からは富士山が良く見えます。



前回のゴールの青柳駅で下車します。





延々と続く石段を上って行きます。

    

振り返ってみると目眩がする急斜面です。 



急斜面の石段を上り切ると、旧甲州街道沿いのセイコーエプソンの社員寮の前に戻って来ました。





エプソン社員寮を過ぎると下り坂になります。



旧甲州街道は、国道20号に突き当たるので、ここを左折します。

この辺りが「金沢宿」の東口です。

金沢宿は、本陣1、問屋2、旅籠17軒でした。

金沢宿は、高遠や飯田に通じる追分を控え、交通や物資流通の要衝として栄えました。 

当初、甲州街道を通行する参勤交代の大名は高島藩、飯田藩、高遠藩の3藩に限定されていました。

しかし、江戸後期になると、幕府の許可を得た大名が、遠回りになる中山道を利用せず、近道の甲州街道を通行するようになったので、
金沢宿は大いに賑わったそうです。




宿場町を少し進むと「泉長寺」があります。









泉長寺の参道を進むと、正面の山門の右手に写真の「おてつき石」があります。



説明版によると、参勤交代の大名が通行する際には、宿の役人が、この石に手を付いて口上を述べたそうです。



上の写真は、「旅籠屋・丸屋」です。



上の写真は、「旅籠屋・松坂屋」です。



写真の建物は、馬方と馬が一緒に宿泊できた「馬方宿」です。





馬方宿の前には、写真の「馬つなぎ石」があります。



以下は、金沢宿の町並みです。











(下に看板を吊るすための屋根)

















金沢宿の端の辺りまで来ると、上の写真の旧甲州街道の説明がありました。

その説明版の赤い矢印に従って、右手の旧甲州街道の小路に入って行きます。





旧道に入り、直ぐ先のY字路を左折します。


このY字路は、「高遠道追分」で、この追分には、上の写真の1758年建立の道標「左 たかとう道」があります。



Y字路を左折すると、直ぐ左手に、写真の「如意輪観音」を安置した祠があります。





この祠の脇の石碑の説明文によると、この場所で、江戸時代の義民「小松三郎左衛門」が、大勢の村民が涙で見守る中で、
磔(はりつけ)にされたそうです!




三郎左衛門は、この金沢宿の問屋の主で、処刑当時34歳の若さでした。

山の入会権をめぐる争いで、金沢村の代表として、藩主に無断で、直訴しようと江戸へ向かったことが、藩主の怒りにふれ処刑された、
とあります。


1749年、磔の刑に処せられた小松三郎左衛門の霊を弔う地蔵尊が、ここ刑場跡に安置されました。

この地蔵尊は、「みょうり様」と呼ばれ、今でも地元民に敬愛され、献花や線香が絶えることがないそうです。

旧道は、この如意輪観音の先で、宮川に突き当たります。



突き当たりを左折して宮川沿いに進むと、「道祖神、地蔵、魚供養塔」等の石仏石塔群があります。



その中の上の写真の「水神明王」は、度々氾濫して大きな被害をもたらしてきたこの宮川を鎮めるためのものです。





金沢橋で、宮川を渡り、右折して、その先を左折します。









次いで、突き当たりのY字路を左折します。

これが「金沢宿の西枡形」です。



この西枡形を抜けて金沢宿をあとにして、次の上諏訪宿へ向かいます。

 


 



旧甲州街道を真っ直ぐに進むと、矢ノ口の交差点で、国道20号に合流します。



この矢ノ口の交差点の右手にあるのが「権現の森」です。





権現の森の境内には、1654年建立の「金山大権現」の石祠があります。

武田信玄が開発した金鶏の金山は、南アルプスの北端にありました。

武田家が滅亡すると、金山の鉱夫達は、青柳宿(金沢宿へ移転する前の宿場町)に定住し、金山の守護神の「金山権現」をここに祀りました。





境内には、他にも、摩利支天、不動明王、御獄座王大権現、大六天、甲子、如意輪観音、蚕玉大神などの石仏石塔があります。











権現の森を出て、国道20号を進み、森の口バス停から斜め左の「青柳旧道」に入ります。



青柳旧道は、車もほとんど通らず長閑な田園風景です。



旧道の左手に、「寒天の里」と書かれた大看板があります。

そういえば、中学時代の社会科の教科書で「茅野の寒天」と習ったなあ〜。

へ〜、あれって、この辺りなんだ!

海藻のテングサを煮た汁を固めたものが「心太(ところてん)」で、更にこれを凍結乾燥させたものが「寒天」です。

この辺りは、冬になると、日中は晴れていても、夜間の気温が零度以下に下がるので、寒天作りに適しており、
農家の副業として盛んになったそうです。




旧道は、T字路に突き当たり、左手に下の写真のホテル虹色メルヘンが見えますが、右折して国道20号に突き当たり合流します。





この合流地点には「清水橋バス停」(写真赤丸印)があります。





国道20号を暫く歩いて、「木舟交差点」を越すと、右手に浮彫の「地蔵尊」が安置されています。





少し進むと、上の写真の木舟入口のバス停がありますが、停留所の名前は消えかかっていますし、便数も4時間に1便くらいです・・・



更に進むと、右手に「旧甲州街道」の案内看板があります。

いや〜、この様な分かりにくい分岐点に、この様な大看板は非常に有難いです! 

看板が無ければ通り過ぎてしまいそうですし、表示が小さければ見落とすかも知れません。

この看板の矢印に従って、Uターンして坂を上って行きます。





坂をヘアピン状に上り切り、跨線橋で中央本線を越えて左折します。





旧道は、中央本線に沿って進み、阿久川を宮澤橋で渡ります。



橋の先を斜め右に進み、その先ののぞみ大橋の高架下をくぐります。



 

その後は、宮川に沿って進み、小早川を小早川橋で渡ります。



すると、その先で、宮川に沿って走る県道197号に突き当たるのでここを左折します。





更に進んで、JR中央本線のガードをくぐり、再び宮川に沿って進みます。





暫く歩くと、宮川坂室の交差点に突き当たるので、ここで右折して、国道20号に合流します。



この交差点の右手には、秋葉山常夜燈、出羽三山(羽黒山・湯殿山・月山大権現)碑、三十三夜塔、馬頭観音等あります。









国道20号を進んで行くと、右手の斜面に掘り込まれた祠の中に石仏が三体安置されています。





更に進んで、弓振(ゆみふり)川を建倉橋の歩道橋で渡ります。



その先の酒室の交差点から右に入ると、「酒室神社」があります。







酒室神社の祭神は、酒解子(さけとくね)之神で、酒造の守護神です。

本殿は1825年の建築です。

写真では分かりづらいですが、格子から薄暗闇の中を覗き込んでみると、見事な彫刻が施されています。













国道20号を延々と歩いて行き、中央自動車道の高架の茅野橋をくぐって進みます。

 



国道20号を延々と歩いたのちに、上の写真の場所で、国道20号を右折して狭い坂道を上って行きます。 



狭い坂道の途中に、上の写真の「男女双体道祖神」が祀られていました。







その近くには、日本橋から50里目(200キロ)の「茅野(ちの)の一里塚跡」の標石がありました。





茅野の一里塚跡の先の坂道を下って、国道20号に合流します。 



国道20号を少し進むと、宮川交差点があり、分かりずらいですが、三差路になっています。



この三差路の中央(赤矢印)の県道197号に入ります。











暫く歩くと、写真の「鈿女(おかめ)神社」があります。



鈿女神社の祭神は、天照大神が天岩戸に隠れたという有名な神話の中で、岩戸の前で舞を舞った「天鈿女命(あまのうずめ)」です。

鈿女(おかめ)の字を分けてみると、「金田女(かねため)」(金貯め)となるため、貯金の神や福の神と言われているそうです。



この鈿女神社の向かいには、上の写真の「丸井伊藤商店」があります。

創業100年の信州味噌の醸造販売元ですが、この商店の味噌蔵の奥には「貧乏神神社」が鎮座しているそうです。



鈿女神社の広場を挟んだ向かいに、立派な三階建ての「宮川寒天蔵」があります。





写真は「イリイチ寒天蔵」ですが、他にも同様な寒天蔵が点在します。



これらの「寒天蔵」は、地場産業として定着した寒天の保管庫でした。

この辺り一帯の茅野村は、「間の宿」(注)として大いに栄えました。

(注)「間の宿(あいのしゅく)」:宿場と宿場との距離が長い場合などに、休憩のために宿場と宿場の中間に設けられましたが、宿泊は禁じられていました。



茅野(ちの)の繁華街のメインストリートをJR茅野駅へと向かいます。





上川の交差点を直進して、「上川」を「上川橋」で渡ります。 





上川は、八ケ岳に源を発し諏訪湖に注いでいます。







広くて綺麗なメインストリートの歩道を歩いて行くと、JR茅野駅に着きました。 





駅の周辺では、昼間という時間帯のせいか、居酒屋の「庄や」だけしか営業していなかったので、ここで「豚しょうが焼き定食」(700円)を食べます。







駅の売店で、写真の信玄餅のお土産を買い、茅野駅から特急列車・あずさ42号(15:42発)に乗り、八王子経由で新横浜に帰りました。



 





 

 



(JR茅野駅)

今回は、早朝に新横浜からJR中央線に乗り、八王子駅で特急列車・あずさ号に乗り換え、前回のゴールの「茅野(ちの)駅」で下車します。





茅野駅の駅前広場には、写真の「姥塚(うばづか)古墳」の碑があります。

明治38年、中央線の開通にともなって、茅野停車場が設けられ、ここにあった古墳は取り崩されたそうです。



茅野駅前の交差点には、「諏訪大社上社」の大鳥居が建っています。





上の写真の大鳥居の先の茅野駅西口の交差点は、Y字路になっているので、左手の道を進みます。 















暫く歩き、「上原」の交差点で、国道20号に合流します。

ここ上原は、鎌倉時代には上原城の城下町で、ここを治めた諏訪信満の代から頼重の代まで、諏訪氏の居城として、政治、経済、文化の中心地でした。







上原八幡の交差点を過ぎると、諏訪盛重が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したという「上原八幡宮」があります。

江戸時代、高島藩主・諏訪氏の上原八幡宮への信仰は篤く、参勤交代の際は、藩主はここで下馬し、道中の安全を祈願した後に、
駕籠に乗り換えたそうです。

  
















やがて右手に「鍛冶小路」の標石(注)があり、その脇の小路を入って行くと右手に、上原五山の一つだったという下の写真の「金剛寺跡碑」があります。

(注)「○○小路」の標石:ここ上原には、上原城の城下町だった時代の町名の「○○小路」の表示石が多数設置されています。











更に直進して、JR中央本線を超えて、国道20号に合流します。





「塔所小路」の上原城下の標石があり、更に進んで「上原北」の交差点を通過します。  





「渋沢小路」の標石があります。



やがて右手に「茅野上原郵便局」があるので、ここを右折して国道20号から分かれます。



JR中央本線のガードをくぐると、次第に上り坂になります。 









坂ノ途中には写真の「道標や常夜燈」があります。

大きな道標には、「右江戸道」、小さな道標には、「右江戸道 左山浦道」、常夜燈には、「右東京迄 左大門道」と刻まれています。



右手に「甲州道中」の標石がありますが、この辺りから、茅野市から諏訪市に入ります。





やがて右手に「火燈(ひとぼし)公園」があり、その先の右手に「頼重院」があります。





参道口には、「上原城主・諏訪頼重公廟所」の碑があります。

頼重院は、諏訪頼重の菩提寺です。

















本堂の左手には、上の写真の「諏訪頼重の供養塔」があります。

1542年、諏訪氏の第19代当主の「諏訪頼重」は、武田信玄の諏訪侵攻により、捕らわれの身となり自刃させられました。

頼重の家臣は、頼重の遺髪を持ち帰り、密かにここ頼重院に葬りました。

これにより、諏訪家は断絶したかと思われました・・・

が、何と!、諏訪一族の生き残りの「諏訪頼忠」(頼重の従兄弟)が、武田氏が滅亡すると挙兵して、諏訪の地を奪還しました!

しかし、奪還したと思いきや、その後、徳川家康に仕えた諏訪頼忠は、家康により、上野国の総社に所領を移されてしまい、諏訪の地を奪われてしました・・・

しかし、しかし、更にその後、諏訪氏は、関ケ原の戦では江戸城を守った功により、家康により諏訪の地を賜り、見事に諏訪の地を取り戻したのでした!!

めでたし、めでたし。

う〜ん、それにしても凄い執念です!!



頼重の供養塔の脇には、上の写真の新田次郎の句碑「陽炎(かげろう)や 頼重の無念 ゆらゆらと」が建っていました。

 


「頼重院」を出て街道に戻ります。



街道の右手に、地元の人専用の上の写真の「共同浴場・神戸温泉」があります。

写真の白い大きなタンクは、パイプを通じて諏訪市から供給される温泉湯を貯めるタンクです。



個人の家でも、このタンクを設置すれば、低料金で、諏訪市から温泉湯の供給を受けられるそうです。

個人の家に温泉を引けるなんて!、驚き!

ここ上諏訪には、何と!、共同浴場が80以上もありますが、そのほとんどが地元の人専用で、観光客などの外来者は入浴が出来ないそうです・・・



神戸温泉の先の右手奥に、秋葉山大権現と刻まれた「常夜燈」と「男女双体道祖神」があります。











やがて右手に一里塚バス停があり、その先の左手に「神戸(ごうど)の一里塚跡」の碑があります。



神戸の一里塚は、日本橋から52里目(208キロ)、片塚で塚木は榎(エノキ)の木でした。











 

  

更に進むと、火入れの部分が木製のあまり見かけない「常夜燈」がありました。 









   

上の写真は、街道沿いの秋葉山常夜燈とその脇の小さな道標ですが、道標の文字は風化していて読めません。













街道沿いには、信州特有の「雀おどり」と呼ばれる上の写真の様な棟飾りの家が散見されます。



やがて、「霧ケ峰入口」の交差点を越すと、右手に「足長神社」の参道口の石段があります。



上桑原村の産土神で、諏訪大社の祭神に随従する足長彦神を祀っています。





更に街道を進むと、「石祠に納まった男女双体道祖神」があり、その先には、「男女双体道祖神と秋葉山石塔」が祀られていました。















(自宅用の温泉のタンク)



左手の火の見ヤグラを過ぎると、細久保分岐で、下の道に合流します。





「旧道細久保」のバス停を過ぎると、右手に下の写真の「男女双体の祝言道祖神」があります。



その祝言道祖神の後ろには、下の写真の「銘石こんぼった石」がありました。



説明版には、昔、ここには諏訪湖の入り江があり、この石は、舟の舫石(もやいいし:船が流されないようにつなぎ止める石)でした。

漁に出た親を子供達が、この「こんぼった石」(舟繋ぎ石の方言)の所で帰りを待っていた、と書かれています。



少し歩くと、写真の「細武温泉共同浴場」がありました。









(自宅用の温泉のタンク)







やがて、国道20号に合流します。

清水1・2丁目の交差点の右の細い道に入ると、上の写真の「殿様御膳水」がありました。

高島城に藩主が在城の際は、この清水を用立てたそうです。

また、この清水は、明治天皇の巡幸の際には、「秋葉御膳水」と呼ばれ供されました。







更に進むと、左手に重厚な蔵造りの上の写真の「呉服商かねさ」があります。

写真の様に、暖簾には、大工道具の曲尺(かねじゃく)にサの屋号が染め抜かれています。



呉服商かねさの向いには、江戸時代創業の「染一染物店」があります。

この辺りはかつて染色に必要な湧水が豊富で、染め物店が軒を連ねていました。





その先は、写真の「銘酒・真澄」の蔵元「宮坂酒造」です。

1662年の創業で、高島藩の御用酒屋を勤めました。





少し歩くと、元町交差点の所から二筋に分かれますが、どちらの筋も「上諏訪宿」の町並みです。



この分岐点に、写真の「十王堂跡碑」が建っていますが、ここが「上諏訪宿」の東口です。

ようやく「上諏訪宿」に到着です!

前の金沢宿からこの上諏訪宿までは約13キロもあります。