国道20号を延々と歩いたのちに、上の写真の場所で、国道20号を右折して狭い坂道を上って行きます。
狭い坂道の途中に、上の写真の「男女双体道祖神」が祀られていました。
その近くには、日本橋から50里目(200キロ)の「茅野(ちの)の一里塚跡」の標石がありました。
茅野の一里塚跡の先の坂道を下って、国道20号に合流します。
国道20号を少し進むと、宮川交差点があり、分かりずらいですが、三差路になっています。
この三差路の中央(赤矢印)の県道197号に入ります。
暫く歩くと、写真の「鈿女(おかめ)神社」があります。
鈿女神社の祭神は、天照大神が天岩戸に隠れたという有名な神話の中で、岩戸の前で舞を舞った「天鈿女命(あまのうずめ)」です。
鈿女(おかめ)の字を分けてみると、「金田女(かねため)」(金貯め)となるため、貯金の神や福の神と言われているそうです。
この鈿女神社の向かいには、上の写真の「丸井伊藤商店」があります。
創業100年の信州味噌の醸造販売元ですが、この商店の味噌蔵の奥には「貧乏神神社」が鎮座しているそうです。
鈿女神社の広場を挟んだ向かいに、立派な三階建ての「宮川寒天蔵」があります。
写真は「イリイチ寒天蔵」ですが、他にも同様な寒天蔵が点在します。
これらの「寒天蔵」は、地場産業として定着した寒天の保管庫でした。
この辺り一帯の茅野村は、「間の宿」(注)として大いに栄えました。
(注)「間の宿(あいのしゅく)」:宿場と宿場との距離が長い場合などに、休憩のために宿場と宿場の中間に設けられましたが、宿泊は禁じられていました。
茅野(ちの)の繁華街のメインストリートをJR茅野駅へと向かいます。
上川の交差点を直進して、「上川」を「上川橋」で渡ります。
上川は、八ケ岳に源を発し諏訪湖に注いでいます。
広くて綺麗なメインストリートの歩道を歩いて行くと、JR茅野駅に着きました。
駅の周辺では、昼間という時間帯のせいか、居酒屋の「庄や」だけしか営業していなかったので、ここで「豚しょうが焼き定食」(700円)を食べます。
駅の売店で、写真の信玄餅のお土産を買い、茅野駅から特急列車・あずさ42号(15:42発)に乗り、八王子経由で新横浜に帰りました。
(JR茅野駅)
今回は、早朝に新横浜からJR中央線に乗り、八王子駅で特急列車・あずさ号に乗り換え、前回のゴールの「茅野(ちの)駅」で下車します。
茅野駅の駅前広場には、写真の「姥塚(うばづか)古墳」の碑があります。
明治38年、中央線の開通にともなって、茅野停車場が設けられ、ここにあった古墳は取り崩されたそうです。
茅野駅前の交差点には、「諏訪大社上社」の大鳥居が建っています。
上の写真の大鳥居の先の茅野駅西口の交差点は、Y字路になっているので、左手の道を進みます。
暫く歩き、「上原」の交差点で、国道20号に合流します。
ここ上原は、鎌倉時代には上原城の城下町で、ここを治めた諏訪信満の代から頼重の代まで、諏訪氏の居城として、政治、経済、文化の中心地でした。
上原八幡の交差点を過ぎると、諏訪盛重が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請したという「上原八幡宮」があります。
江戸時代、高島藩主・諏訪氏の上原八幡宮への信仰は篤く、参勤交代の際は、藩主はここで下馬し、道中の安全を祈願した後に、
駕籠に乗り換えたそうです。
やがて右手に「鍛冶小路」の標石(注)があり、その脇の小路を入って行くと右手に、上原五山の一つだったという下の写真の「金剛寺跡碑」があります。
(注)「○○小路」の標石:ここ上原には、上原城の城下町だった時代の町名の「○○小路」の表示石が多数設置されています。
更に直進して、JR中央本線を超えて、国道20号に合流します。
「塔所小路」の上原城下の標石があり、更に進んで「上原北」の交差点を通過します。
「渋沢小路」の標石があります。
やがて右手に「茅野上原郵便局」があるので、ここを右折して国道20号から分かれます。
JR中央本線のガードをくぐると、次第に上り坂になります。
坂ノ途中には写真の「道標や常夜燈」があります。
大きな道標には、「右江戸道」、小さな道標には、「右江戸道 左山浦道」、常夜燈には、「右東京迄 左大門道」と刻まれています。
右手に「甲州道中」の標石がありますが、この辺りから、茅野市から諏訪市に入ります。
やがて右手に「火燈(ひとぼし)公園」があり、その先の右手に「頼重院」があります。
参道口には、「上原城主・諏訪頼重公廟所」の碑があります。
頼重院は、諏訪頼重の菩提寺です。
本堂の左手には、上の写真の「諏訪頼重の供養塔」があります。
1542年、諏訪氏の第19代当主の「諏訪頼重」は、武田信玄の諏訪侵攻により、捕らわれの身となり自刃させられました。
頼重の家臣は、頼重の遺髪を持ち帰り、密かにここ頼重院に葬りました。
これにより、諏訪家は断絶したかと思われました・・・
が、何と!、諏訪一族の生き残りの「諏訪頼忠」(頼重の従兄弟)が、武田氏が滅亡すると挙兵して、諏訪の地を奪還しました!
しかし、奪還したと思いきや、その後、徳川家康に仕えた諏訪頼忠は、家康により、上野国の総社に所領を移されてしまい、諏訪の地を奪われてしました・・・
しかし、しかし、更にその後、諏訪氏は、関ケ原の戦では江戸城を守った功により、家康により諏訪の地を賜り、見事に諏訪の地を取り戻したのでした!!
めでたし、めでたし。
う〜ん、それにしても凄い執念です!!
頼重の供養塔の脇には、上の写真の新田次郎の句碑「陽炎(かげろう)や 頼重の無念 ゆらゆらと」が建っていました。
「頼重院」を出て街道に戻ります。
街道の右手に、地元の人専用の上の写真の「共同浴場・神戸温泉」があります。
写真の白い大きなタンクは、パイプを通じて諏訪市から供給される温泉湯を貯めるタンクです。
個人の家でも、このタンクを設置すれば、低料金で、諏訪市から温泉湯の供給を受けられるそうです。
個人の家に温泉を引けるなんて!、驚き!
ここ上諏訪には、何と!、共同浴場が80以上もありますが、そのほとんどが地元の人専用で、観光客などの外来者は入浴が出来ないそうです・・・
神戸温泉の先の右手奥に、秋葉山大権現と刻まれた「常夜燈」と「男女双体道祖神」があります。
やがて右手に一里塚バス停があり、その先の左手に「神戸(ごうど)の一里塚跡」の碑があります。
神戸の一里塚は、日本橋から52里目(208キロ)、片塚で塚木は榎(エノキ)の木でした。
更に進むと、火入れの部分が木製のあまり見かけない「常夜燈」がありました。
上の写真は、街道沿いの秋葉山常夜燈とその脇の小さな道標ですが、道標の文字は風化していて読めません。
街道沿いには、信州特有の「雀おどり」と呼ばれる上の写真の様な棟飾りの家が散見されます。
やがて、「霧ケ峰入口」の交差点を越すと、右手に「足長神社」の参道口の石段があります。
上桑原村の産土神で、諏訪大社の祭神に随従する足長彦神を祀っています。
更に街道を進むと、「石祠に納まった男女双体道祖神」があり、その先には、「男女双体道祖神と秋葉山石塔」が祀られていました。
(自宅用の温泉のタンク)
左手の火の見ヤグラを過ぎると、細久保分岐で、下の道に合流します。
「旧道細久保」のバス停を過ぎると、右手に下の写真の「男女双体の祝言道祖神」があります。
その祝言道祖神の後ろには、下の写真の「銘石こんぼった石」がありました。
説明版には、昔、ここには諏訪湖の入り江があり、この石は、舟の舫石(もやいいし:船が流されないようにつなぎ止める石)でした。
漁に出た親を子供達が、この「こんぼった石」(舟繋ぎ石の方言)の所で帰りを待っていた、と書かれています。
少し歩くと、写真の「細武温泉共同浴場」がありました。
(自宅用の温泉のタンク)
やがて、国道20号に合流します。
清水1・2丁目の交差点の右の細い道に入ると、上の写真の「殿様御膳水」がありました。
高島城に藩主が在城の際は、この清水を用立てたそうです。
また、この清水は、明治天皇の巡幸の際には、「秋葉御膳水」と呼ばれ供されました。
更に進むと、左手に重厚な蔵造りの上の写真の「呉服商かねさ」があります。
写真の様に、暖簾には、大工道具の曲尺(かねじゃく)にサの屋号が染め抜かれています。
呉服商かねさの向いには、江戸時代創業の「染一染物店」があります。
この辺りはかつて染色に必要な湧水が豊富で、染め物店が軒を連ねていました。
その先は、写真の「銘酒・真澄」の蔵元「宮坂酒造」です。
1662年の創業で、高島藩の御用酒屋を勤めました。
少し歩くと、元町交差点の所から二筋に分かれますが、どちらの筋も「上諏訪宿」の町並みです。
この分岐点に、写真の「十王堂跡碑」が建っていますが、ここが「上諏訪宿」の東口です。
ようやく「上諏訪宿」に到着です!
前の金沢宿からこの上諏訪宿までは約13キロもあります。