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甲州街道を歩く( 36:蔦木)(長野県諏訪郡)  2021.10.16




(写真は、蔦木宿本陣の表門)


「蔦木(つたき)宿」は、本陣1、問屋2、旅籠15軒でした。


1604年、江戸から甲府までの甲州道中が整備され、その後、下諏訪まで延長されました。

蔦木宿は、1611年に新設された宿場で、東西に桝形が配されました。

宿場町は、約490メートルの長さですが、何と、6回も大火に見舞われています!


 



蔦木宿の入口には、写真の石置き屋根のモニュメントがあります。




宿場町に入ると、庚申塔、甲子塔があり、1791年建立の常夜燈の奥に、石の祠(ほこら)の道祖神が祀られています。









少し歩いて行くと、上の写真の「桝形道路碑」がありますが、ここが「東桝形」です。



この桝形を抜けると、国道20号に突き当たるので、右折して国道沿いに歩いて行くと、右手には、以下の写真の1417年創建の「三光寺」があります。

















三光寺の本堂には、写真の様に武田家の家紋が輝いていますが、これは、ここ信濃の国の上蔦木の地が、元来は甲斐の武田氏の領地だったためです。

1582年、長年敵対関係にあった甲斐の武田氏と信州の諏訪氏(現在の長野県諏訪郡)が和睦を結びました。

和睦の証として、甲斐の武田信玄の父の武田信虎は、信州の諏訪頼重に、自分の3女の祢々(ねね)を嫁がせました。

その婚姻の際、武田信虎は、祢々の化粧料として、上蔦木を含む武田領の18ケ村を諏訪氏に引き渡しました。  

このため、ここ上蔦木村は、甲斐領から諏訪領になりました。

それにしても、嫁ぐ娘の化粧料が18ケ村とは凄い!

スケールの大きな話だな〜、驚き!



三光寺の隣に「十五社大明神」があります。



石鳥居の先の石段の上に、社殿がありました。

十五社大明神では、諏訪大社と同様に、七年に1度、御柱祭が行われるそうです。



社殿には、その御柱の先端に取り付けるための「めどでこ」が奉納されていました。

説明版によると、「めどでこ」とは、写真の様に、棒に縄の輪をくくり付けたもので、氏子はこの輪に足を入れて、体を安定させるのだそうです。





上蔦木の交差点まで歩いて行くと、右手に、上の写真の「本陣 大阪屋源右衛門」跡があります。



写真の「本陣表門」は、1864年の大火後に建て替えたものだそうです。

本陣門の裏には、上の写真の「与謝野晶子歌碑」があり、「本陣の 子のわが友と いにしえの 蔦木の宿を 歩む夕暮れ」の歌が刻まれています。

晶子は、この地を訪れた際に、前述の三光寺に宿泊して2首を詠みました。



本陣表門の先の右手に上の写真の「御膳水」があります。



明治39年頃、蔦木宿の街道筋には、この御膳水も含めて16ケ所の水道施設が造られ、昭和26年頃まで使用されたていたそうです。



御膳水の脇には、上の写真の与謝野晶子の歌碑があり、「白じらと 並木のもとの 石の樋(ひ)が 秋の水吐く 蔦木宿かな」の歌が刻まれています。



宿場町の本陣門の並びに、上の写真の「明治大帝駐輦跡碑」があります。

案内板によると、ここは、旧本陣の有賀源六宅の跡で、明治13年、巡幸に際し、明治天皇は、ここの上段の間で1時間くらい休息されたそうです。

以下は、蔦木宿の町並みですが、家々には写真の様に、旧屋号札が掲げられています。






 



























蔦木宿の外れを左折すると、「枡形道址碑」がありますが、ここが「西枡形跡」です。





道なりに右折し、正面のY字路を左手に進み、右に入ると、対の常夜燈や甲子塔などがあります。



ここまで歩いてきたところで、股関節に違和感が・・・

次の金沢宿の近くの「JRすずらんの里駅」までは、ここからは13キロもあり、その間は、電車もバスもタクシーも無い交通機関空白地帯です。

ここでギブアップです!

JR中央本線の最も近い駅を目指して緊急避難します。



上の写真の西枡形跡の出口で、国道20号に突き当たったところを右折し、上蔦木の交差点まで戻ると、下の写真の「信濃境駅」の道標がありました。





この道標によると、崖の自動車道(県道195号)を、約3キロ歩いて上って行けば、最寄りのJR信濃境駅があるみたいです。

道路標識の左下には、上の写真の様に、標高727メートル標識が設置されています。



道標に従って、自動車道の上り坂を歩いて行きます。 



延々と上り坂が続くので、息切れがして苦しくなってきました。



リュックサックの重みが肩に食い込みます・・・



少し股関節が痛み始めました・・・





何度も坂道の途中で休みながら、時間をかけて、ゆっくりゆっくり坂道を上って行きます。 







標高標識が、727メートル850メートルに上がりました。





















スタートで727メートルだった標高標識が922メートルになりました。



ようやく、何とか信濃境駅駅に着きました!  







駅のホームには、写真の様に、ここ信濃境駅駅は、ドラマ「青い鳥」の清澄駅の撮影現場です、と書かれています?

インターネットで調べると、「真の幸せを求めてさまよう男女の姿を描いた、豊川悦司主演のラブストーリー。

主人公の理森(豊川悦司)が駅員としてこの駅で勤務していましたが、この田舎の平凡な駅員が愛した人妻とその娘と共に全国を逃避行する物語。」とありました。

私は一度も見たことがないので、何ともコメントのしようがありませんが・・・



信濃境駅から列車に乗り、韮崎駅のホームで、前回食べて美味しかった「ワインのめし」とワインを買って、特急列車に乗り換え、この駅弁を食べながら、
八王子経由で新横浜に帰りました。


 

 

 



 






(写真は、JR富士見駅の近くから望む富士山)



 



早朝に、JR新横浜駅から横浜線に乗り、八王子駅で中央線に乗り換えて、上の写真の「信濃境駅」で下車します。


高低差が200メートルもある、前回延々と上って来た坂と同じ坂を、今回は延々と下って行きます。   









前回の上り坂に比べたら、今回は下りなので格段に楽です。 











ようやく、上蔦木の集落まで下りて来ました。 

そこから、国道20号沿いの蔦木宿を抜けて、前回のゴールの西枡形跡まで戻りました。

西枡形跡をスタートして、国道20号を進みます。



国道20号沿いに、上の写真の「岩田屋建材」の資材置場がありました。

旧甲州街道は、この岩田屋建材の脇の砂利道へ入って行きますが、この先には「電流ネット」が待ち受けています。

「電流ネット」には前回苦労したので、今回はパスして、迂回の国道20号を進んで行きます。



国道20号と並行して、旧甲州街道を囲む赤丸印の「電流ネット」が見えています。

(電流ネットについては、「甲州街道を歩く・教来石宿から蔦木宿へ」を見てね。)



暫く歩いて行くと、上の写真の「レストラン赤石」がありました。

ここの食堂はカツカレーが美味しいと案内書にあったので楽しみにしていたのですが、月曜定休日で閉まっていました・・・

がっかり・・・、お腹すいたなあ〜・・・





国道20号を進み、国道の左側から下を眺めると、道の下の大木の根っこの辺りに「平岡の一里塚」の標石が見えました。

 





日本橋から46里目(184キロ)の一里塚です。



更に国道20号を進み、上の写真の机の交差点の先を右に入ると、下の写真の「机観音堂」があります。













机観音堂を出て国道20号に戻り、「矢の沢川」橋の手前を右折して、机旧道に入ります。



右手に写真の石仏石塔群がありました。







更に進むと、右手の石垣の上に写真の「かぐら石」があります。



説明版によると、このかぐら石の下から、綺麗な清水が湧き出ていたところから「清水の神楽石」とも呼ばれ、旅人の休憩の場だったそうです。



かぐら石の並びの石垣の上には写真の「馬頭観音像」もあります。



かぐら石の先で国道20号に合流し、立場川を「瀬沢大橋」で渡り左折します。  













この先を逆コ字に進んて行くと、「旧瀬沢村」に入ります。





急な上り坂になりますが、左手の瀬沢郵便局の右隣には、写真の「旧家らしきお宅」がありました。 



その隣のお宅の軒下には大きな「めでどこ」が吊り下げられています。

(めでどこの説明については、「甲州街道を歩く・蔦木」を見てね。)         

 

めでどこの背後には、「本宮御柱御用」と書かれた木札が掲げられています。



更に坂を上ると、左手に1842年建立の「諏訪神社」の常夜燈があります。



常夜燈の後ろには、「男女双体道祖神」が祀られています。





諏訪神社の隣は、上の写真の「吉見屋」で、吉見屋の先がY字路になっているので左に進みます。







更に、この先に同じような分岐点が3か所あったので、何れも左手を選択して、緩やかな坂道を上って行きます。



上り坂を進み、小川を渡り、その先の急な坂道を上って行きます。





急な坂の途中の左手の擁壁上に、上の写真の「観世音碑」と「馬頭観音」がありました。

急な坂は、この先では、左に大きくカーブしていますが、これから先、どんどん深い山の中へ入って行く感じです? 

どうやら、どこかで道を間違えたようです。

ガイド本の通りに歩いて来たつもりなのに、どこで間違えたのだろう?

分岐が多かったから、どこかの分岐で間違えたのかなあ〜?・・・

このまま山道の途中で日没になったらどうしよう、と途方に暮れます・・・

こんな山奥で道に迷うなんて!

仕方なく、引き返して、ここからJR中央本線の最も近い駅を目指して緊急避難することにしました。

先ず、北の方向にあるハズの国道20号を目指して、坂道を上って行きます。

少し坂を上ったところで、国道20号に突き当たりました。



国道20号を上の写真の地下道で横断すると、「瀬澤古戦場跡」の碑と解説板がありました。







それによると、1542年、甲斐の武田信玄は、信濃の小笠原、諏訪、村上、木曽の連合軍と、この辺り一帯で激しい合戦をしました。

その結果、武田軍は、信濃の連合軍を1,600人も討ち取る大勝利を収めた、とあります。

この古戦場跡碑から国道20号を進んで行きます。



やがて国道20号の左側に、右手の坂道が「JR富士見駅」への道路であることを示す標識(赤丸印)がありました。

標識によると、この崖を上がって行く自動車道を約2キロ歩けば、JR中央本線の富士見駅へ行けるみたいです。





富士見駅を目指して必死で坂道を延々と上って行きます。





延々と上り坂が続くので、息切れがして苦しくなってきました。

坂道の途中で20分くらい休みます。

何だか、最近は、旧街道を歩いている距離よりも、最寄りの駅に行くために崖道の道路を上り下りしている距離の方が長いなあ〜・・・

気力を振り絞って坂道を上って行きます。







振り返って見ると、写真の富士山が見えました!

街道を歩いていて富士山を眺めるのは初めてです!

崖の上を走るJR中央本線の車窓からは富士山が時々見えます。

しかし、旧甲州街道は、両側を崖に遮られた川沿いの道なので、街道を歩きながら富士山が見えることはほとんどありません。









最後のひと踏ん張りで、ようやくJR中央本線の富士見駅に到着しました!

富士見駅から韮崎駅まで乗車して、今晩の予約の韮崎の「清水屋」へ向かいます。

「清水屋」は、江戸時代には旅籠だった1845年創業の老舗旅館です。(1泊2食付:8,820円)












清水屋に宿泊した翌朝です。

朝食を済ませて天気予報をみていると、新横浜を出発した昨日の朝の天気予報が大きく外れて、今日は終日雨の予報です・・・

股関節も少し痛み始めたので、急遽、予定を変更して、韮崎駅から、午前中の特急列車に乗って、八王子経由で新横浜へ帰りました。

 

 






(写真は、前回、最後に撮影した1802年建立の観世音碑。)


前回は、慎重に下調べをしてから歩いたのに、何故、途中で道を間違えたのだろう?


帰宅してから、自分で撮影した写真と、ガイド本、地図、インターネットとを照らし合わせて調べました。

すると、何と!、インターネットにあった街道風景の1枚の写真と、たまたま、私が最後に撮影した冒頭の写真がピッタリと一致しました!

え、えっ〜!、ということは、私は、道を間違えてはいなかったんだ!

つまり、前回道に迷ったと判断したのは、実は早とちりで、ホントは正しい道を歩いていました。

もう少しだけ我慢して、鬱蒼とした急な坂道を抜けてしまえば、開けた平地になって人家もあったんだ!

いつもは、見切りが遅くて間違えた道を延々と歩いて傷を深くするのですが、今回は、見切りが早すぎて傷を深くしてしまいました・・・

 



早朝に、JR新横浜駅から横浜線に乗り、八王子駅で中央本線の特急列車に乗り換えて、特急が停車する上の写真の「富士見駅」で下車します。



前回、富士見駅から乗るときに、駅前にタクシーが止まっていました。

富士見駅は特急が止まる駅だし、先日の印象では駅の周辺は店が多く意外に賑やかだったので、秘かに期待していたのですが・・・

電車を下りると、駅前にタクシーがいました!

やった!

前回必死で歩いた上り坂を、今回は、タクシーで楽々と下りて行きます。  

タクシーの中で、これから先の旧甲州街道の見どころを運転手さんに聞きます。

前回、あんなに延々と歩いた山道も、タクシーに乗ったらあっと言う間でした。

前回引き返した冒頭の観世音碑の前でタクシーを下ります。(タクシー代:1,240円)



ここからは、更に上りの勾配がきつくなり、鬱蒼とした坂道が続きます。  



でも、鬱蒼とした急な坂道を抜けてしまうと、右側に上の写真のしらかば園がありました。



しらかば園から先は、人家が点在しますがアップダウンが連続します。  



ようやく、平らな道になり、小川を渡ると、「とちの木」(富士見町)に入りました。













とちの木の集落の家々は、緩やかな上り坂沿いに建っています。 





やがて、とちの木の集落の外れに写真の「尾片瀬神社」がありました。









尾片瀬神社の直ぐ先に、写真の樹齢200年の「とちの木風除林(かぜよけばやし)」があります。

説明版によると、この地は北風が強く、五穀は実らず、無住の地だったので、寛政年間(1789〜1801)に、とちの木の村民が高島藩へ
願い出て防風林として赤松を植樹しました。


これによって坂を下って来る寒冷の北風を遮断した、とあります。









暫く歩いて行くと、右手に上の写真の「塚平(つかだいら)の一里塚」があります。

日本橋から47番目の一里塚で、塚木は榎です。

一里塚碑の脇には、下の写真の「重修一里塚」の碑がありますが、案内板によると、これは昭和12年に諏訪中学校の教師と生徒が一里塚を
補修したことを示したものだそうです。






一里塚の先で、T字路に突き当たりますが、この先の旧道は「中部電力ソーラー発電所(旧三菱マテリアル建材)」の土地なので通行不可です。



この敷地を迂回するためにフェンスに沿って進みます。







このう回路が別の道と合流する角に上の写真の「原の茶屋」の道標が建っていました。

説明版によると、当時、原の茶屋付近の道路状況は悪く、ぬかるみとなって人馬の通行が難渋しました。
    
そこで1780年、地元の三井透関(とうかん)が、高島藩から道路改修の許可を得て、私財を投じて着手し、塚平(つかだいら)から原の茶屋間に新道を開削した、
とあります。




この原之茶屋の標識のある小道を進んで行くと右手に「富士見公園」があります。



案内板によると、明治44年、アララギ派の伊藤左千夫が、ここの風景に感激し、富士見公園を監修しました。

なお、富士見の地名は、下諏訪方面からの旅人が、この地に来て初めて富士を見ることに由来しているそうです。



公園には、写真の「芭蕉句碑」が建っています。



”眼にかゝる ときや殊更(ことさら) 五月不二(さつきふじ)”

(句意:芭蕉最後の上方帰郷の際、箱根を越えた辺りで、ちょうど富士山の全貌が見え、俳聖の最期を気遣ったか、富士は五月晴れとなり、
その姿をことさら美しく現した。)


園内には、斉藤茂吉歌碑や島木赤彦歌碑などもあります。



 

富士見公園を出て更に進むと、上の写真の「明治天皇駐驛之處碑」があり、その先の右手には下の写真の「明治天皇御膳水碑」があります。

    

明治13年、巡幸の際、明治天皇はここで休息しました。





上の写真は、街道沿いの「旅館桔梗屋跡」(名取与兵衛の茶屋跡)です。

説明版によると、富士見小学校の校長の小池晴豊がここに下宿をしていましたが、小池の短歌の友であった島木赤彦が訪れるようになりました。

これをきっかけに、伊藤左千夫、竹久夢二、斎藤茂吉、田山花袋などの多くの歌人、文人が訪れるようになり、ここ桔梗屋は、サロン的な役割を果たした、
と書かれています。  


現在でも、建物内部には、歌会が開かれた囲炉裏が残り、多くの書簡、掛け軸などが残っているそうです。



桔梗屋の向いには、上の写真の1811年建立の金毘羅神社常夜燈があります。



上の写真の大柳屋の蔵の脇には、下の写真の男女双体道祖神 、庚申塔、百番供養塔(秩父などの坂東100箇所の観音めぐり成就の記念碑)等があります。









大柳屋の蔵の先のY字路を右に進むと、木立の中には旧道の雰囲気が残り、左手には田園風景が広がります。







更に進むと、上の写真右手の「カゴメ富士見工場」があり、その高い擁壁の下を歩いて行きます。 

 

左手には、左甲州道と刻まれた上の写真の「奉納念仏供養塔」があります。



その先は、緩い下り坂になり、正面の火の見ヤグラの左の道を進みます。



やがて左手に、写真の「石仏石塔群」が現れます。

多くの馬頭観音像や色々な種類の石碑があります。

写真を撮っていると、隣の家からオジサンが出て来て、石仏について一つ一つ説明してくれて、親切にもその写真の撮り方もアドバイスしてくれました。

なんて優しいんだろう!

山梨県に入って以来、未だ一人も不親切な人に出会っていません!







この石仏石塔群から先は、下り勾配の強い坂になります。 



左手の石垣上には、庚申塔、千庚申塔、1853年建立の筆塚碑があります。

坂は、右にヘアピン状にカーブして下り、坂を下り切ると国道20号に突き当たります。 









(写真は、崖の道を旧甲州街道から青柳駅へ下りる階段:Googleマップ)


5街道踏破の最後の甲州街道も、ゴールが近づいた段階で、どうもやることなすことチグハグになってきました。

何だかなあ〜・・・

地図では、旧甲州街道から直線で僅か300メートルの穴山駅へ向かおうとしましたが、駅は垂直の崖の上に!       

   

(穴山駅については、「甲州街道を歩く・韮崎宿から台ケ原宿へ」を見てね。)

股関節炎が再発したとき、旧甲州街道から最寄りの信濃境駅へ緊急避難しようとしましたが、高低差が200メートルもある崖の道を延々と3キロも上りました! 

 


(信濃境駅については、「甲州街道を歩く・蔦木」を見てね。)

また道に迷ったとき、旧甲州街道から最寄りの富士見駅へ向かおうとしましたが、崖を上がって行く道を2キロも必死で上りました!     

(富士見駅については、「甲州街道を歩く・蔦木宿から金沢宿へ」を見てね。)

何だか、最近は、旧街道を歩いている距離よりも、最寄りの駅に行くために崖道の道路を上り下りしている距離の方が長くなっています・・・

と言う訳で、今回は、次の最寄りの駅となる青柳駅と旧甲州街道の位置関係を事前に徹底的に下調べしました。

すると、Googleの航空写真から、これまでとは逆に、川沿いの低地をJR中央本線が、崖の上の尾根道を旧甲州街道が走っていることが分かりました。

更にGoogleマップを最大限に拡大してみると、崖の上を走る旧甲州街道から、崖の下の青柳駅に降りる急な階段(冒頭の写真の赤丸印)があるのを
発見しました!


 

前回の続きで、親切なオジサンに石仏石塔群の写真撮影のアドバイスを受けてから、急な坂道を下り、国道20号に合流して進んで行きます。



国道20号の「御射山神戸交差点」を横断すると、左手に堂々たる「冠木門の旧家」があります。











先の神戸八幡交差点の左が、1762年建立の社殿の「神戸八幡社」です。





社殿の脇のケヤキは、樹高30メートルで推定樹齢390年です。





境内には、1843年建碑の芭蕉句碑があります。

”雪ちるや 穂屋のすゝきの 苅のこし”

(句意:穂屋(ほや)はすすきの穂で作った御座所で御射山祭の際、諏訪大社上社から二神をここに迎えますが、

    芭蕉はこの穂屋を作るためにすすきを刈り取り、刈り残したすすきの原に雪が舞っている様を詠みました。)



国道20号を、斜め左の旧道に入ります。

分岐点には馬頭観世音文字塔が祀られています。



上り坂を進むと右手に石仏石塔群がありました。









   

更に坂を上ると「御射山神戸の一里塚」があります。

日本橋から48里目(192キロ)で、両塚を残しています。

西塚のケヤキは、往時のままのもので樹齢400年です!











一里塚を後にすると、木立の中の長閑な道を進みます。



 

暫く歩いて行くと、眼下に、江戸時代には道中名物だったという写真の「ゆるぎ石」(赤丸印)があります。



昔は、触れると揺れる、ということで名所だったらしいのですが、急な斜面にあるために近寄れません。





ゆるぎ石の少し先に、写真のセイコーエプソンの社宅の金沢精和荘がありました。



事前の下調べで、Googleの航空写真から、これまでとは逆に、崖の上の尾根道を旧甲州街道が、川沿いの低地をJR中央本線が走っていることが
判明しています。


Googleマップによると、旧甲州街道沿いの金沢精和荘の前から、崖下の青柳駅に下りる階段があるハズなのですが・・・

見当たりません!?

どうも行き過ぎたみたいなので、ゆっくりと引き返してみます。



念のために、エプソン精和荘の前の路地を少し入ってみると・・・



ありました!

写真の急な下りの石段が延々と続いています。

下のGoogleマップが、旧甲州街道(黄色線)から、崖を青柳駅(青色枠)へ下りる階段(赤丸印)です。



セイコーエプソン社が、社員寮から駅までの急石段を自力で工事したのでしょうか。















延々と続く石段を下りていき、国道20号の陸橋を渡ると目的の青柳駅に着きました!

今回は、旧甲州街道から最寄り駅まで最短距離で行くことが出来ました。

大成功!

青柳駅から乗車して、甲府駅まで戻ります。

この頃は、コロナの第5派も去り、感染者も少なく旅行も再開した時期だったので、甲州街道沿いの韮崎、石和温泉、甲府など、どこのホテルも
満室になっていました。


その様な状況下で、甲府駅前のビジネスホテルにようやく1室だけ空きを見つけました。



青柳駅から甲府駅まで戻り、甲府駅前のホテルクラウンヒルズ甲府に1泊します。(1泊食事なし:5,571円)



夕食は外に出て、前回美味しかった、駅ビルの中にある「郷土料理・信玄」で「甲州名物・鳥もつ煮そば定食」(1,650円)を食べました。