(写真は、主君の武田勝頼を裏切って織田信長に付いたものの斬首されてしまった小山田信茂の首塚)
前回の花咲宿を出たのちに、国道20号(甲州街道)から分れてJR中央本線沿いに歩いて行き、再び国道20号に合流する辺りが次の「下初狩宿」です。
下初狩宿は、本陣2、脇本陣2、問屋1、旅籠12軒でした。
この下初狩宿と次の中初狩宿とは、半月交代で問屋業務を勤める「合宿(あいじゅく)」でした。
国道20号(甲州街道)沿いの右手の道路から一段低くなった場所に写真の「奥脇家本陣」跡があります。
(この建物は、普通のお住まいになっているので、敷地内に立ち入ることは出来ません。)
慶応年間(1865〜68)の建築で、立派な門も残っています。
この本陣前には、上の写真の「山本周五郎 生誕之地碑」があります?
説明版によると、「山本周五郎」は、明治36年に、この近くの寒場沢にあった奥脇家の屋敷の長屋で生れました。
しかし、明治40年に、寒場沢の長屋は土石流では流失し、この災害で周五郎は家族を失ったそうです!
そうなんだ!、山本周五郎はここで生まれて、この地の土石流に被災して家族を失ったんだ!
可愛そう・・・
(山本周五郎の代表作については、「樅ノ木は残った」を見てね。)
奥脇本陣跡の向いには、上の写真の「大野脇本陣」跡があります。
奥脇本陣の先には、上の写真の「廿三夜塔」があり、その脇には、修復された明治40年建立の「常夜燈」があります。
この廿三夜塔の直ぐ先の宮川を「宮川橋」で渡ると「中初狩宿」です。
江戸時代のの「宮川橋」は土橋でしたが、宮川橋の橋の上から、山の間に富士山の頂が望める「宮川橋の一目富士」と呼ばれる名所だったそうです。
残念ながら、今日は、富士山の辺りにちょうど雲がかかり(上の写真の赤丸印の辺り)見えません・・・
ここ「中初狩宿」は、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠25軒でした。
中初狩宿の中程に、元は医院だったという上の写真の「今池家」(登録有形文化財)があります。
初狩小学校の東交差点を過ぎると、中初狩歩道橋の右手に、明治29年建立の「芭蕉句碑」があります。
”山賊(やまがつ)の おとがいとずる 葎(むぐら)かな”
(句意:葎(むぐら:夏草)が茂る中を、山賊(猟師)が、自分のおとがい(下顎)をしっかり閉じて、葎(むぐら)の穂先が自分の口の中に入らない様にしながら
歩いてる。)
1685年、芭蕉43歳の時の「野ざらし紀行」の帰途に、甲州谷村(現在の山梨県都留市付近)へ向かう途中の句です。
説明版によると、芭蕉は、1682年、「八百屋お七」の振袖大火で焼け出され、初狩に住む実姉を頼り、ここで半年間も暮らしたそうです。
芭蕉が、こんな山梨の田舎に住んでいたなんて、知らなかったな〜!
(「八百屋お七」の処刑については「バスで行く東海道」を、「八百屋お七」の墓については「中山道を歩く」を見てね。)
街道沿いに更に歩いて行くと、中初狩宿の「小林本陣」があります。
本陣の門の前には、「明治天皇 御小休遺跡碑」が建っています。
明治天皇は、明治13年の行幸の際に、ここ小林家で休息しました。
小林本陣の向かい辺りには、小林脇本陣もあったらしいのですが、今は何も残っていません。
1836年、脇本陣の小林伝兵衛は、米価の高騰に憤慨し、甲州騒動の打ちこわしを指導しました。
しかし、翌年、捕らわれて獄死しました。
街道を進んで行くと、唐沢橋の手前の左手に、上の写真の「首塚」の標識がありました。
標識に従って脇道に入ると、下の写真の1711年建立の「地蔵尊」が立っていました。
「首塚」の標識に従い、Y字路を右に進み、斜め右に下って、川の跡の様な小道でJR中央本線の架道橋をくぐり先へ進みます。
少し歩くと、「首塚」の標識の先に「小山田信茂」の「首塚」がありました。
駒橋宿で既に説明しましたた様に、信茂は、主君の武田勝頼を裏切って、信長に寝返りましたが、信長から褒美をもらえるどころか、
逆に、主君に弓を引いたとして信長の命により斬首になりました!
案内板によると、小山田信茂の家来が、密かに信茂の首を持ち帰ったのを、当時ここに建っていた瑞竜庵の住職が葬ったのだそうです。
しかし、瑞竜庵は、明治40年の土石流で流失してしまい、現在はその痕跡すらありません。
(小山田信茂が主君の武田勝頼を裏切った仔細については、「甲州街道を歩く・駒橋」を見てね。)
なお、「首塚」については、下記をご参照下さい。
近藤勇の首塚は「東海道を歩く・藤川宿」、曽我兄弟の首塚は「伊東温泉」、関が原の戦いの東首塚と西首塚は「中山道を歩く・関が原」、
鬼の首塚は「中山道を歩く・御嵩宿」をご参照。
街道に戻り、唐沢橋を渡って先に進みます。
左手の段上に、馬頭観音や1778年建立の秋葉山毎夜燈などが並んでいます。
更に進んで、切通を抜け、笹子川を船石橋で渡ります。
船石橋を渡ると、左手に上の写真の右側の「船石碑銘」がありました。
「親鸞聖人」は、船の形をした「船石」の石に座って説法をしたそうです。
残念ながら、この「船石」は、明治40年の水害で流失してしまい、今は無いそうです・・・
船石碑銘の脇には、上の写真の「御舩石所在地ハ 従是東三拾間余」と刻まれた、船石の所在を示す石の道標があります。
明治40年の水害は、この地に甚大な被害をもたらし、山本周五郎の生家、小山田信茂の首塚のあった瑞竜庵、親鸞聖人の船石など、
全てを流失させてしまったんですね・・・
暫く国道20号(甲州街道)を歩いて行くと正面が天神山です。
国道20号は、この天神山を左に迂回しながら進みますが、この辺りは歩道がありません・・・
中央本線のガードをくぐり抜けます。
左にカーブしながらこの天神山を回り込むと、右手に分かれる旧道がありますが、ここが次の「白野宿」の入口です。
初狩宿から白野宿までは約4キロです。
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