バスで行く「奥の細道」(その58) 大石田(山形県) 2020.10.24

   

(写真は、大石田の舟番屋跡)   


前回は、JR大石田駅前からタクシーに乗り、「尾花沢」の「芭蕉・清風歴史資料館」と「養泉寺」を見学しました。

今回は、この尾花沢からタクシーに乗り、JR大石田駅前に戻ります。 



(JR大石田駅) 


 

「大石田」は、江戸時代、最上川の舟運の最大の中継地で、大量の紅花が集荷され、日本海側の酒田へ下り、更に、海路を上方や江戸へ運ばれ大いに繁栄しました。

川船の発着所(河港)として栄えた「大石田」には、「川船役所」(船番所)が置かれました。

一方、上方や江戸からは、最先端の文化がもたらされていました。

しかし、 明治時代になると、蒸気機関車の発達により、最上川の舟運の歴史は幕を閉じました。

 

「芭蕉」は、「大石田」で「最上川下り」の乗船をしようとしますが、最上川の増水のため、大石田で水位が下がるのを待つことになりました。  

  

この間に、大石田の俳人達から、俳諧の指導を熱心に請われ、船問屋の「高野平右衛門」(俳号:「一栄」)宅に3泊します。

最上川の思わぬ増水により、「高野一栄」らに俳諧指導をすることとなり、一栄らと4人で、俳諧連句の会を催します。

そのとき、この4人で各々9句ずつで詠んだ合計36句を、「さみだれを」と題して自筆して彼らに与えています。

「さみだれを」の様に、芭蕉自身が、一つの作品として、直筆の歌集を門人に与えるというのは珍しいケースです。

芭蕉は、その「さみだれを」の中で、「五月雨を(さみだれを) 集めて涼し 最上川」と詠んでいます。

その後、この句は、実際に最上川を舟で下った後に、我々のよく知る「五月雨を 集めて早し 最上川」の名句に修正されました。

芭蕉は、最上川の凄い水量を実感して、「涼し」を「早し」に修正したのでしょうね。

 



JR大石田駅前でタクシーを降り、駅前のメインストリートを、最上川へ向かって、ぶらぶらと散策します。





駅から徒歩15分くらいで、写真の「川舟役所跡大門」(最上川船役所跡)に着きました。 





大石田の中心街を流れる最上川沿いには、江戸時代に使用された幕府の「船役所跡」が残されており、その石垣に、当時の栄華の面影が残されています。

   

現在は、当時の船役所の大門や塀蔵が再現されていました。

最上川に沿って少し歩くと、芭蕉が3泊した「高野一栄宅跡」がありました

  







現在は、別の方の住宅になっている庭に、「おくのほそ道」紀行300年記念で、平成元年に建てられたという芭蕉真蹟の歌仙「さみだれを」の石碑が建っています。



石碑の上段が表6句で、下段が裏6句だそうです。







「高野一栄宅跡」から、最上川沿いに、更にワンブロック歩くと、写真の「西光寺」があります。



   





 





境内にある写真の芭蕉句碑は、芭蕉が自筆したという芭蕉真蹟歌仙の「さみだれを」の発句を、地元の医者で俳人だった「暁花園 土屋只狂(ぎょうかえん つちやしきょう)」が、

明和年間(1764〜1772年)に模刻、建立したものだそうです。

 ”さみ堂礼遠(さみだれを) あつめてすゝし もかミ川  芭蕉”

この句碑は、風化が進んでおり、保存のために、写真の様に、ガラス張りの覆い堂の中に安置されており、残念ながら、覆堂のガラス反射で、上手く写真が撮れませんでした・・・





上の写真の中央の芭蕉句碑の周りには、高野一栄、高浜虚子などの句碑もあります。


西光寺を出て、ぶらぶらと散策しながら、メインストリートを、JR大石田駅へ向かいます。



途中で、写真の「大石田町立歴史民俗資料館」に立ち寄ります。



(月曜休館  料金:200円)

最上川の舟運と、江戸時代に中継地として栄えた大石田河岸の資料が展示されています。



(大石田河岸絵図:資料館のパンフレットから)

資料館の隣には、斎藤茂吉が終戦後しばらく居住した住居が保存展示されています。