バスで行く「奥の細道」(その52) 尾花沢(山形県) 2020.10.24



(写真は、尾花沢の「芭蕉・清風歴史資料館」)


前日に、強風と横殴りの雨の中を「尿前の関」と「封人の家」の見物して、鳴子温泉に1泊しました。   



(ホテルの朝食) 



翌朝、鳴子温泉のホテルの送迎バスに乗り、芭蕉が10泊もしたという「尾花沢」へ向かいます。

昨日の激しい風雨が嘘の様に、今朝は、気持ちの良い秋晴れとなりました。



(JR大石田駅)

ホテルの送迎バスをJR大石田駅前で下りて、駅前からタクシーに乗り、「尾花沢」の「芭蕉・清風歴史資料館」で下ります。

(タクシー 1,380円)



(「尾花沢」の「芭蕉・清風歴史資料館」)


 

 

 



堺田の「封人の家」に2泊した芭蕉は、刀を差した屈強な若者の案内で、昼でも暗く、山賊が出るという「山刀伐(なたぎり)峠」を越え、無事に「尾花沢(おばなざわ)」の
「鈴木清風」宅に着きました。 

「奥の細道」:「尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比とヾめて、長途のいたはり、
さまざまにもてなし侍る。」

(全文訳 : 尾花沢では清風を訪ねた。清風は、金持ちだが、その心持ちの美しい男である。都にもしばしば行き、それゆえに旅の情をもよく心得ている。
数日間泊めて長旅の疲れを労ってくれ、またさまざまにもてなしてくれた。

「清風」とは俳号で、通称は島田屋八右衛門(やえもん)です。

 清風は、紅花の流通業で財を成した尾花沢の豪商で、芭蕉の門人の一人です。


尾花沢では、芭蕉は、清風と清風周辺の俳人から手厚くもてなされ、度々俳諧を催しています。

ここで詠んだ以下の芭蕉の3句は、何れも「鈴木清風」の手厚いもてなしに対する感謝の意を込めたものです。

@”涼しさを 我宿(わがやど)にして ねまる也(なり)”

 ・旅先にありながらも、涼しさを、自分の家の様に味わいながら気兼ねなくくつろいでいるよ。

 (もてなしてくれた清風の名に”涼しさ”を掛け、山形弁の「ねまる=座る」を使うことで、清風への感謝の意味合いを出しています。)

A”這ひ出よ(はいいでよ) 飼屋(かいや)が下の ひきの声” 

 ・飼屋(=養蚕小屋)の床下のヒキガエルよ、そんな所で鳴いていないで、這い出てきて私の相手をしておくれ、と尾花沢でのんびり出来た気持ちを表しています。

B”眉掃(まゆはき)を 俤(おもかげ)にして 紅粉(べに)の花”

  ・紅の花が、女性の眉履き(眉刷毛)の形を思い浮かべさせる様に咲いているよ。

 

 (女性の眉履きと尾花沢の紅花:NHK「新日本風土記・奥の細道」から)





 (尾花沢の紅の花の畑:NHK「新日本風土記・奥の細道」から) 



(紅の花:NHK「新日本風土記・奥の細道」から)



 (尾花沢の紅の花の畑:NHK「新日本風土記・奥の細道」から) 







 


 (「鈴木清風」:「芭蕉・清風歴史資料館」の小冊子)

以下は、「鈴木清風」にまつわる有名なエピソードです。

尾花沢の特産品に「紅花」があります。

この「紅花」を独占的に取り扱って、江戸で大々的に販売していた「清風」に対し、江戸の商人達は不買運動を起こします。

これに対抗して、清風は、何と!全ての紅花を、品川海岸で焼き捨ててしまいました!    

このために、紅花が品薄になって値段が高騰、江戸の商人たちは、慌てて高値の紅花を買い漁ります。

ところが、実は、何と!清風が燃やしたのはカンナ屑で、値上がりした紅花を売りさばいて、3万両の利益を得ました。

清風は、この利益の全てを使って、吉原の大門を閉鎖し、遊郭を3日3晩貸し切りにして、遊女たちに休養を与えました。        

この清風の心意気に感じた花魁の「高尾太夫」は、清風との別れに際して、「柿本人麻呂像」を贈りました。 

その柿本人麻呂像は、現在、尾花沢の「芭蕉・清風歴史資料館」に展示されています。



(柿本人麻呂像:芭蕉・清風歴史資料館の展示品:資料館のパンフレットから)

 

 



「芭蕉・清風歴史資料館」の前でタクシーを降り入館します。

(入館料 200円、休館・水曜) (展示室の全体風景以外は撮影禁止)





この資料館は、商家であった「鈴木清風邸」跡の隣に、旧丸屋・鈴木弥兵衛家の店舗と母屋を移転復元したものです。



この旧丸屋の建物は、尾花沢地方の江戸時代末期の町家の姿を今に伝えています。

館内の展示は、芭蕉直筆の書簡や、芭蕉愛用の品の他、 鈴木清風の人柄を伝える展示物が並んでいます。





芭蕉・清風歴史資料館を出て、角の銀行を右に進むと、直ぐに写真の「清風邸跡地」がありました。









この清風邸跡地の道を真っ直ぐ進み、突き当りのT字路を右折して少し歩くと、芭蕉が7泊もした「養泉寺」が有ります。









  









「鈴木清風」が、主な宿所にと世話をしてくれたのがこの養泉寺で、当時、寺は修繕したばかりで真新しく、正面に鳥海山、西に月山が望める閑静な環境でした。



養泉寺は、その後の火災で焼失し建替えられたので、当時の面影はありませんが、上の写真の井戸は、芭蕉が宿泊したときのものだそうです。



  

境内には、芭蕉が詠んだ「涼しさを我宿にしてねまる也」(句意は前述)の上の写真の句碑(いわゆる「涼し塚」)と、下の写真の「芭蕉と清風たちの歌仙の連句碑」が建っています。





 



空腹になったので近くの食堂に入ろうとしますが、下の写真の張り紙が!・・・ 



まあ、首都圏の人間が地方にコロナをばら撒いているいるのは確かなので、気持ちはよくわかりますが・・・お腹が空いた・・・

 

 






← 前の 封人の家 へ