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バスで行く「奥の細道」(その51) 封人の家(山形県) 2020.10.24




(写真は、「封人((ほうじん)の家」の馬屋)


前回は、強風と横殴りの雨の中を、延々と歩いて、何とか「尿前(しとまえ)の関」を見物しました。

「尿前の関」からホテルに戻り、ずぶ濡れになった服を全て着替え、芭蕉が2泊したという「封人((ほうじん)の家」へ向かいます。



ホテルを出て、JR鳴子温泉駅から、陸羽東線の「奥の細道号」に乗ります。





JR鳴子温泉駅から「奥の細道号」で2駅先の堺田駅で下車します。







堺田駅の目の前に、写真の「堺田分水嶺(ぶんすいれい)」広場があります。



堺田分水嶺で分かれた水脈は、西側(山形県側)は、最上川を経て日本海へ、東側(宮城県側)は、北上川を経て太平洋へ注ぎます。



分水嶺の多くは、山岳の稜線などにありますが、この分水嶺のように、平坦な堺田の集落の中にあるのは、全国でも珍しいそうです。

         

上の左端の写真の石碑の後のアスファルトの道の様に見える部分が、水脈が分岐する場所です。

左端の写真は、風雨が強くなり上手く撮れませんでした。  

という訳で、最上町観光協会のホームページから転写させて頂いた中央と右端の2枚が、同じ場所の水流が分岐している写真です。

 



堺田分水嶺広場から国道47号に出て、強風と横殴りの雨の中を、5分くらい歩いて行くと、下の写真の「封人((ほうじん)の家」に着きました。











「封人の家」は、芭蕉が逗留した建物の中で、全国で唯一、現存している貴重な建物です。(重要文化財)

「封人」とは国境を守る人という意味です。

入場料:250円、 公開:4月〜11月(冬季は閉鎖)

「封人の家」(旧有路家住宅)は、上の写真の様に、茅葺き屋根の大型の古民家で、仙台藩と新庄藩の国境に位置していました。

家主の「有路(ありじ)家」は、熱心な馬産家で、堺田村の庄屋も務めていました。

この封人の家は、役屋という村役場の性格も持ち、更に問屋も兼ね、また街道筋の旅宿の機能も備えていました。

この建物は、床の間、入り座敷など5部屋の他に、玄関、土間、馬屋(厩)がありました。

(建物平面積81坪、茅葺屋根面積171坪)

ここ最上町は、かつては、新庄藩の保護の下、山形県内では随一の馬の産地で、乗用馬として、江戸や越前まで移出していました。

明治時代に入ると、軍馬の購買地に指定され、昭和19年まで、軍馬として買上げらていました。

この辺りは、冬は相当に雪が深く、寒さも厳しいため、馬が寒くないように、またいつでも馬の安全が確認できるようにと、馬屋も人の住居の中に
一緒になっていました。




ここ封人の家では、当時のこの様な、馬屋や人々の生活の様子が再現されています。



(勝手口)



(裏側)

 


芭蕉は、取締りの厳しい仙台領の「尿前の関」を何とか越え、出羽の国へと旅路を急ぎました。 

しかし、間もなく日暮れになってしまいます。

しかも、大雨になってしまったため、仕方なく、この「封人の家」に、2泊3日も滞在します。 

(奥の細道:「大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す」)

芭蕉は、その時の印象を句に詠んでいます。

 ”蚤虱(のみしらみ)  馬の尿(ばり)する  枕もと” 

この句は、この家の主が、芭蕉を馬小屋に泊めるという酷い扱いをした、と誤解されがちですが、前述のこの地方の家屋の構造を前提に
読み解く必要があります。

つまり、馬の尿は勢いが強く、馬屋は、芭蕉が寝ていた座敷から、土間と囲炉裏を挟んで離れていたが、それでも聞こえた、とユーモアを交えた
解釈をする必要があります。

この地方の家屋の構造として、土間を隔てて母屋の内に馬小屋が設けてあり、人馬ともに同じ屋根の下に居住していたので、頭のすぐ上で
馬の尿する音を聞く様な感じがしたのでしょう。 



(松尾芭蕉が逗留したとされる中座敷)



(土間から見た広い座敷)





(囲炉裏)





(土間)




住宅の敷地の左手前に、上の写真の芭蕉句碑があります。

 ”蚤虱(のみしらみ)  馬の尿(ばり)する  枕もと”

なお当初の句は、「蚤虱(のみしらみ) 馬の尿(ばり)こく 枕もと」でした。

確かに、「尿(ばり)こく 」よりも「尿(ばり)する」の方が落ち着きがよいですし、品がよい?ですよね。 

因みに、上の句では(馬の)尿は「バリ」と読みますが、前回の「尿前の関」は「シト」と読みます。

 

 



(見取り図)