![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/c5/453585c191f24d2fab34fc926ecc585d.jpg)
(写真は、軒並み「うだつ」が続く「今庄」の宿場町)
前回ご紹介しました様に、「芭蕉」と親友の「等栽」(とうさい)は、「福井」の外れの「朝六つの橋」
を渡って「敦賀」に向かいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ny_kimono_m.gif)
「奥の細道」によると、「等栽」は、”おかしゅう裾絡げ(すそからげ)て”、うきうきと道案内に
立ったとあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0199.gif)
但し、福井から敦賀の間は、記録係の「曾良」がいなかったので、どこをどの様に歩いたのか、
行程がはっきりしないそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
福井を出て、2人は、北国街道を鯖江、武生と、宿場町を順次南下して、「今庄(いまじょう)宿」で一泊したようです。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/pampas_mov.gif)
「今庄」(いまじょう)は、江戸時代、越前国(福井県)で最も繁栄した宿場町でした。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0151.gif)
商用や京への寺参り、伊勢参りなどで今庄宿を利用する旅人が多く、その町並みは
1キロメートルにも及び、家屋が立て込んでいたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0140.gif)
「今庄宿」で一泊した芭蕉と等栽は、翌朝、「木の芽峠」を越えて「板取(いたどり)宿」へ向かい
ました。
「木の芽峠」は、東海道の「小夜の中山」に対して、北陸道の「越の中山」と呼ばれていました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/s2_sum_mount.gif)
芭蕉は、この「木の芽峠」で、下記の句を詠みました。
”中山や 越路も月は また命 ” (芭蕉)
(年をとり、再びこの中山を越す日が来るとは思ってもみなかった。これも命あればこそだ。)
この句は、東海道の小夜の中山で、西行法師が詠んだ
”年たけて また越ゆべしと思いきや 命なりけり 小夜の中山”
を踏まえたものだそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0151.gif)
我々の「バスで行く・奥の細道」ツアーも、福井市内を抜けて、「今庄(いまじょう)」、「木の芽峠」
を経由して、北陸道を「敦賀」へ向かいます。
先ず、「今庄(いまじょう)」でバスを降りて、今庄の宿場町を散策します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/5a/0e5ca76892f4f2ffaac46379b05a5ccf.jpg)
今庄は、福井県の南越前町にあり、町の中心部には写真のJR北陸本線の「今庄駅」があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/20/84c4b568c37edf18e61c668f576d9782.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/a5/ae2e9d3c00f93c97833accad96fdf2c1.jpg)
往時の面影を濃く残す、今庄の宿場町を歩いて行きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/91/7ab547496801dc63645e1e3d59911d36.jpg)
上の写真は、江戸時代の「旅籠・若狭屋」です。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cat_4.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/cb/59dddbd2fefa6a60d2ef8438cfd71200.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/ca/265ae4774ac226537b2d78cc649a1d3a.jpg)
写真は、今は小公園となっている「福井藩本陣」跡で、大庄屋の後藤覚左衛門の屋敷があった
ところです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/94/31a9cbeef546b4bbfd66deabe7e229fa.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/9e/e96b8b4fbaaa9539c17279a9f595de4f.jpg)
上の写真は、かつては造り酒屋だった「京藤甚五郎家」で、立派な「うだつ」が上がっています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/6c/c257f9f6ce243e2764e0aebe2f7cce47.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/19/0f/d594251b63e53b027f47cf58685fa451.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/60/3ecd2668402b173d9b66b2f73511249c.jpg)
上の写真は、昭和初期に建てられ、かつては役場だった「昭和会館」で、今は公民館として
利用されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/38/dd2a8dfbdb213727522c53f9120f8c49.jpg)
昭和会館のすぐ前は、上の写真の「脇本陣・北村新平家」跡です。
今庄宿の背後に迫る小高い山には、「木曽義仲」が築城させた「燧ケ城(ひうちがじょう)」跡が
あります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/ny_kimono_m.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/52/9e2ec853bc91491870271e50886a962f.jpg)
写真は、旧街道沿いにある新羅神社・観音堂の脇から燧ヶ城への登城道です。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0090.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/58/5b4c017c23ed67d69afd295c414eb87a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/c4/167a459e8dc1eee9b5bf323a7c7de51f.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/70/a74a1027fd5a92511646aee4bb073b81.jpg)
「源平盛衰記」によると、1183年、木曽義仲は、平維盛の軍を討つために、6千騎を率いて、
燧ケ城に立て籠もりました。
しかし、木曽義仲の援軍に来た長吏斉明が、平家側に内通し裏切ったため、燧ヶ城は落城して
しまいました・・・
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
木曽義仲の熱狂的なファンだった芭蕉は、「奥の細道」の中で、この「燧ケ城」(ひうちがじょう)
の戦いで、義仲軍が平維盛に攻め落されたのを悲しんで、下記の句を詠んでいます。
”義仲の 寝覚めの山か 月悲し ” (芭蕉)![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/moon.gif)
(木曽義仲も この景色を見ていたかと思うと 眺める月も 物悲しい。)![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/f2/34e71bc234044e393c0d4d4d5f0cf809.jpg)
我々のバス旅行は、今庄宿を出て、木の芽峠を越えて、次の「板取(いたどり)宿」へ向かいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cars_train.gif)
板取宿は、7軒の旅籠、3軒の茶屋などが建ち並んで賑わったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/9b/9f0e8eabf6cac122e15c2f4c9e22522c.jpg)
国道からの分岐する緩やかな石畳の坂道を上って行きます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/09/1aecaf11b2044694abd0e55bdfeac023.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/15/0d/1df75e5131f0017a058ebd3bf12b32fe.jpg)
3名の役人が常駐していたという「板取関所跡」の標識が立っています。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/56/cfa5d5f74d0318dcfcd50447c9908c10.jpg)
「板取宿」は、江戸時代、越前の南端の重要な関門の地の位置づけで、領主として越前に
入国した家康の子の結城秀康が、関所を設けて旅人を取り締まったそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0151.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/a6/68f4448d22d70357a3571a31aa8b433f.jpg)
板取宿跡の中ほどに、茅葺の民家が数軒だけ残されていました。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0139.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/09/ec/7a5fa7dcdc40a2f69d8f4a49ca0c8267.jpg)