![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/7e/01d2acb422b9b821a7b18ece32c82e55.jpg)
(写真は、親友の「等栽」の家を訪れる「芭蕉」)
芭蕉は、スタート地点の北千住からずっと同行してきた曽良と、石川県の山中温泉で
別れました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
更に、金沢から同行してきた北枝(ほくし)とも、福井県の天龍寺で別れて、ホントに一人になった
芭蕉は、「永平寺」に参詣したのちに「福井」に向かいます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
(「山中温泉の別れ」と「天龍寺の別れ」については、「曽良との別れ」を見てね。)
我々の「バスで行く・奥の細道」ツアーは、永平寺、一乗谷の見学を終え、福井市内のホテルに
1泊します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/moon_mov.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/26/ca9bcf8e1b778b9521b2f906eea0aef7.jpg)
(ホテルの窓からの福井市内の眺め。)
翌朝、ホテルを出て、貸切バスで芭蕉が訪れたという福井市内のスポットを散策します。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cars_train.gif)
芭蕉は、福井では、江戸で親友だった「等栽(とうさい)」との再会を楽しみに、その家を
尋ねました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
当時、等栽は、福井の俳壇の長老的な存在でした。
その家を訪ねあてると、ひっそりと人目を避ける様な場所にあり、夕顔やへちまに覆われた
粗末な家でした。
芭蕉が等栽を訪ねるこの「奥の細道」のシーンの描写は、「源氏物語・夕顔の巻」の或るシーンを
踏まえて書いたものだそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
それは、小家の立ち並ぶむさ苦しい界隈で、光源氏が夕顔のもとを訪れたシーンです。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
等栽の住居の中から、みすぼらしい女が出てきて、主人は近くの人の家に行ったので、
用があるならそちらへと、無愛想な対応をします。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
しかし、気持ちの通い合った旧友との再会の期待に、芭蕉の心は、すっかり和んで弾みます。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/face2_happy_s.gif)
そして、芭蕉は、この等栽の家に2泊もした後に、敦賀(日本海の敦賀湾に面した町)で名月を
眺めようと、福井を旅立ちます。
等栽も、敦賀への道案内をしましょう、と浮かれた様子です。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
我々のバス旅行は、この「等栽(とうさい)」が住んでいたという「等栽宅跡」を訪ねます。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cars_train.gif)
現在、当時の「等栽宅」の正確な場所は分かっていませんが、福井市内の佐内町の「顕本寺」
の辺りであったことは判明しているそうです。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_3.gif)
これは、等栽が、訪ねて来た芭蕉の枕にするために、木片を借りに行った近くの寺が顕本寺
だったからです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0151.gif)
顕本寺の隣にある下の写真の「佐内公園」には、「橋本佐内」(注)の墓と銅像があります。
(注)橋本佐内:西郷隆盛が尊敬していたという幕末の志士で、福井藩の藩政改革の中心人物
だったが、安政の大獄により江戸で斬首された。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/39/19de2e88ae3ec76083b739147fd8d819.jpg)
(佐内公園の橋本佐内の墓)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/18/6e99f2af2d814c267520150fc4c1cced.jpg)
(佐内公園の橋本佐内の銅像)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/1e/8c76bb130b273b8061ab87c9528076c2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/13/a0bdd8da990ce11341861c9a6796abaa.jpg)
下の写真の「芭蕉句碑」は、等哉(とうさい)を訪ねたときに詠んだ句ですが、「奥の細道」の
本文には、この句の記載は有りません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/93/4f4c1cc6f835090af2a175be90a6624f.jpg)
”名月の 見所問ん(みどころとわん) 旅寝(たびね)せむ” ![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/moon.gif)
(名月の美しい場所を教えてくれ、そこへ行く旅を一緒にしよう。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/46/da48f653447b500997aaa1ad123d19c9.jpg)
「等栽宅跡」のすぐ近くの柴田勝家の菩提寺である「西光寺」には、写真の「柴田勝家と
お市の方」の墓がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/6e/73fe4ed6116473dc305ffa1fafef2d32.jpg)
1583年、豊臣秀吉に敗れた柴田勝家は、その妻の「お市の方」(織田信長の妹)と共に
自害します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/bb/f516dc641a53cf9b862ba78affa3ef98.jpg)
(西光寺の隣の保育園に貼られていた柴田勝家の塗り絵)
お市の方の3人の娘は、敵方である豊臣秀吉に引き取られますが、その中の一人の淀殿が、
後に、秀吉の側室となり、豊臣秀頼を産みます。
西光寺を出て、福井市内の芭蕉が訪れたスポットを廻ります。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cars_train.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/47/df82e9e8a30ff7e0c33bb563703bab74.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3b/60/7119d3f22ff4d6833fe5e6b5e75377cf.jpg)
写真は、清少納言が枕草子で「橋は朝六つの橋」として紹介し、藤原定家らも歌に詠んだ、
歌枕の名所「朝六つ橋」です。
芭蕉は、福井の町外れのこの「朝六つ橋」を渡って、敦賀へ向かって月見の旅に出ました。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/53/7709e57224abb245bfcbb1fce16c8aae.jpg)
”朝六つや 月見の旅の 明けはなれ” (芭蕉)
(夜が明ける朝六つの刻に この橋を渡って 月見の旅に出かけよう。)
福井市の外れの朝六つ橋から、市の中心街に戻ります。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cars_train.gif)
下の写真は、市の中心街の柴田公園の中にある柴田勝家の居城だった「北ノ庄城」の礎石跡
です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/fe/e66dd1d85c34519a84edc95d0f4ce8fc.jpg)
(バスの車窓から)![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cars_train.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/6b/d2c236502db9ff4f4aa4a20ba18a7ae9.jpg)
(柴田公園内の柴田勝家像)
「北ノ庄城」は、「賤ヶ岳の戦い」で豊臣秀吉に敗れた「柴田勝家」が、妻の「お市の方」と共に
自害した城です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
現在は柴田公園として整備されており、公園内には、北の庄城址資料館も建てられている
そうです。
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写真は、新田義貞終焉の地といわれる「新田塚」で、福井市内にある古戦場です。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/body_walk.gif)
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バスを降りて、「新田塚」を見物します。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/cars_train.gif)
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南北朝時代の武将である「新田義貞」(にった よしさだ)は、生まれ故郷の群馬県太田市で、
鎌倉幕府追討のために旗揚げします。
(新田義貞の墓がある群馬県太田市の金龍寺については、「群馬県・金山城」を見てね。)
そして、鎌倉の稲村ヶ崎の鎌倉幕府の防衛線を突破して、時の鎌倉幕府を倒します。
しかし、その後は、後に室町幕府を開く足利尊氏の様に、政治的に上手く立ち回ることが
出来ませんでした。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kuri_5.gif)
後醍醐天皇の王子である尊良親王をたてて、兵庫、敦賀、越前などの各地を転戦しますが、
最後は、ここ越前の福井市で戦死します。
説明板によると、今は、福井市の市街地の一部となっていますが、戦死した当時は、未だ
水田だったそうで、水田に足を取られ、もがいているところを弓矢を射られ討ち取られた
そうです。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0211.gif)
江戸時代、この地で田圃を耕していた百姓が、偶然に、義貞の鎧を発見し、ここが終焉の地
だと判明したそうです。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0151.gif)