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バスで行く「奥の細道」(その40) 「曽良との別れ」(山中温泉:石川県) 2019.6.11




( 写真は、「芭蕉と曽良との別れ」)

加賀の国(石川県)では、「金沢」を発った「芭蕉」は、「山中温泉」へと向かい、
何と!、
この温泉に8日間の長きわたって滞在しました。

芭蕉は、奥の細道の中では、いくつかの温泉地に宿泊していますが、これほど長く滞在した
温泉は「山中温泉」だけです。


そして、山中温泉は、長らく奥の細道を共に旅をしてきた「曾良との別れの地」でもあります。

実は、曾良は、越中(富山県)から金沢(石川県)に入るあたりから、体調不良で医者に
かかっており、健康を害していました。


曾良は、几帳面で責任感の強い性格だったので、師である芭蕉の同行者として、何かと
気を使い、そこから生じたストレスで腹痛となり苦しんでいた、と言われています。

ここ山中温泉に、8日間も浸かって静養するも、回復せず、このままでは、師匠である芭蕉の
足手まといになると考えます。


幸いなことに、金沢からは、芭蕉の弟子の「北枝」(ほくし)が新たに随行していることもあって、
曾良は、山中温泉で芭蕉と別れ、伊勢長島の親戚をたよって一人で旅立ちます。

 

我々のバス旅行は、山中温泉の守護寺である「医王寺」に到着しました。







山中温泉で、芭蕉と曾良が、最初に訪れたのが「医王寺」です。



医王寺は、下の写真の様に、温泉街を見下ろす高台に建っており、薬師如来が祀ってあります。



医王寺の宝物館には、松尾芭蕉が山中を訪れた際に忘れていった「芭蕉の忘れ杖」が
収められているそうです。

境内には、下の写真の芭蕉句碑がありました。



”山中や 菊はたおらぬ 湯の匂” (芭蕉)

(山中温泉は、延命長寿の効果のある湯の香が満ち満ちている。

 あの謡曲「菊滋童」(注)の様に、菊を折ってその葉の露を飲む必要はない。)


(注)「菊滋童」(きくじどう):中国の周の王に仕えた童で、不老不死の薬である菊の葉の露を
    飲んで700歳まで生きた。

 

我々のバス旅行は、医王寺を出て、山中温泉の中心街を散策します。

「山中温泉」は、奈良時代に行基が発見したとされる名湯です。

芭蕉は、山中の湯を、有馬・草津と並ぶ「扶桑(ふそう:日本のこと)の三名湯」と称えました。

 

上の写真は、共同浴場「菊の湯(女湯)」(写真の左側の建物)に併設されている「山中座」で、
山中節の唄や、芸妓の踊りなどの山中伝統の芸能演芸をやっているそうです。



上の写真は、共同浴場「菊の湯(男湯)」です。

山中温泉の総湯「菊の湯」の名称は、医王寺の芭蕉句碑でご紹介した
”山中や 菊はたおらぬ 湯の匂” の句に由来しています。

芭蕉は、この「菊の湯」近くの老舗の温泉宿「泉屋」に宿泊しました。



写真は、「泉屋跡」の石碑です。

「泉屋」の主人の「久米之助」(くめのすけ)は、まだ14歳の若者でした。

芭蕉は、彼に俳句の手ほどきをして、更に、”桃の木の 其葉ちらすな 秋の風”(注)の1句を
添えて、彼に「桃妖」(とうよう)の俳号を与えました。


  (注)句意:これから俳諧の道を歩もうとする若々しい桃妖よ、どうかその素晴らしい才能を
    伸ばしておくれ。桃の木は、久米之助(桃妖)を指しています。




この「泉屋跡」の近くに、上の写真の「芭蕉の館」があります。(200円)



入口には、芭蕉と曾良の別れの場面を再現した上の写真の石像と、そのときに詠んだ
下の写真の二人の句碑がありました。




二人はこれまでの旅を振り返りながら、それぞれの思いを句に託しています。

”行行(ゆきゆき)て たふれ伏すとも 萩の原” (曾良)

 (病身のまま旅立ち、このまま行けるところまで行って倒れたとしても本望だ。
  出来ることなら萩の咲く野原で死にたいものだ。)


”今日よりや 書付消さん 笠の露”  (芭蕉)

(今日からは一人の心細い旅となる。笠の「同行二人」の文字を、笠に降りた露で消すことに
 しよう。)


ここ「芭蕉の館」には、芭蕉の奥の細道に関連する資料が展示されており、芭蕉が滞在した
「泉屋」の隣の「扇屋」(泉屋の主人の桃妖の妻の実家)を修復した部屋もあります。


 

 

我々のバス旅行は、今晩の宿、ここ山中温泉の中心にある渓谷沿いの「ロイヤルホテル
山中温泉」へ向かいます。
 

 

 

 

 (「芭蕉の館」の展示資料から)