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バスで行く「奥の細道」(その33)( 那呉の浦)(富山県) 2019.4.11




( 写真は、義経が雨宿りをした「雨晴海岸の義経岩」 )




(ホテルの部屋から)

我々のバス旅行は、昨晩1泊した富山の市街地のホテルを出て、万葉の歌枕の地「那呉の浦」
(なごのうら)へ向かいます。



昨晩の富山のホテルの夕食では、ホタルイカ等の色々な富山名物の海の幸を満喫出来ました。



(夕食の撮影を忘れ、食べ終わるときに気付いたので、最後に出た「白エビ」の天ぷらの
写真しかありません・・・




我々のバス旅行は、歌枕「那呉の浦」(なごのうら)がある「放生津(ほうしょうづ)八幡宮」に
着きました。












親不知を抜け、市振宿を出発した芭蕉一行は、ここ歌枕の地「那呉の浦」にやって来ました。

そして、ここから更に、同じく万葉の歌枕の地である「有磯海」(ありそうみ)を訪れようとします。

しかし、土地の人から「有磯海は、ここから五里もあるし、有磯海には泊めてくれる宿もない」
と言われ有磯海に行くのを断念します。



八幡宮の右手に、このときに芭蕉が詠んだという、写真の句碑が建っています。



 ”わせの香(か)や 分入右は(わけいるみぎは) 有そ海(ありそうみ)”

(早稲の香の漂う稲田の中を分け入って進んでいくと、海岸沿いの右手の遥かな先に、
歌枕の地である紺碧の「有磯海」が開けて見えることよ。)



八幡宮の拝殿の裏の堤防の上に、写真の「那呉の浦」の石碑と説明板がありました。



「那呉の浦」は、芭蕉が訪れた江戸時代には、北に能登半島を望み、南に立山連峰を仰ぐ
景勝の地で、ここ八幡宮の裏の堤防の向こう側は、有磯海を臨む紺碧の海でした。

しかし、八幡宮の裏の堤防の向こう側は、今は埋め立てられ、漁港の倉庫が立ち並んでおり、
万葉の歌枕「那呉の浦」の面影は何もありません・・・



この芭蕉句碑の後には、新年号・令和ですっかり有名になった、万葉集の編者の「大伴家持」
(おおとものやかもち)の句碑が建っています。



 ”あゆの風 いたく吹くらし なごの海士(あま)の 釣する小舟 漕ぎかくる見ゆ”

 (東風が激しく吹いているが、奈呉の釣り人の小舟が漕ぎ進むのが、高波の間から見え隠れ
している。「あゆの風」は富山の方言で東風のこと。)

大伴家持は、国司として、ここ越中の国(富山県)に5年間も赴任しています。


我々のバス旅行は、放生津八幡宮を出て、能登半島国定公園の景勝地「雨晴(あまはらし)海岸」
へ向かいます。



「雨晴(あまはらし)海岸」の駐車場でバスを降り、踏切を横切って、「義経岩」へ行きます。













1187年、義経一行が奥州平泉へ向かう途中に、急に雨が降り出したため、弁慶が写真の岩を
持ち上げ、義経は、その陰で雨宿りをしたそうです。








「義経岩」の上には、写真の「義経神社」が建てられています。